第2章 11話
病室の窓から差し込む光は、思ったよりも柔らかかった。
白いカーテンがゆっくり揺れている。どこにでもある昼の風景なのに、昨日までとはまるで別の世界のように感じられた。
「ほんとに平気だってば」
ベッドの上で、美羽は明るい声を出した。
少しだけ、無理をしている声。
「大げさなんだよ、お兄ちゃんは」
そう言って笑う。けれど、その笑顔がどこかぎこちない。包帯の白さが、余計に彼女の細さを際立たせていた。
伸也は椅子に腰掛けたまま、何も言わずにその様子を見つめる。
元気なふりをしている。
それは、すぐに分かった。
指先が、シーツの端を強く握っている。笑っているのに、肩がわずかに強張っている。
「……怖かったんだろ」
静かに言った。
美羽の表情が止まる。
一瞬、時間が止まったような沈黙。
やがて、視線が逸れる。
「……別に」
小さな抵抗。
けれど声が震えている。
伸也は何も追及しなかった。ただ、黙って待つ。
数秒後、美羽の唇がわずかに動く。
「ねえ、お兄ちゃん」
天井を見つめたまま、ぽつりと続けた。
「ここ数ヶ月ね、夜遅くに帰るとき、足音がもう一つ聞こえることがあったの」
胸の奥が冷える。
「気のせいだと思ってたんだけど。止まると止まるし、歩くと歩くの。振り返っても、誰もいないのに」
無意識に、シーツを握る力が強くなる。
「変だよね。怖いっていうより、気持ち悪くて」
小さく笑おうとするが、うまくいかない。
「お母さんたちに言ったら心配するし……お兄ちゃんも忙しそうだったし」
その一言が、静かに刺さる。
事故の日のことを思い出すように、目を閉じる。
「あの日は、いつもより近い気がして。すぐ後ろにいるみたいで……それで、走ったの」
声がかすれる。
「追いかけられてるって思ったら、頭が真っ白になって。階段のこと、覚えてなくて……」
ぽろり、と涙が落ちる。
「……怖かった」
ようやく出てきた、本音。
伸也は立ち上がり、ベッドの脇に立つ。そっと美羽の肩に手を置く。
叱ることも、問い詰めることもできなかった。
ただ、自分が気づいてやれなかったことだけが、重く残る。
「もう、大丈夫だ」
確信はない。それでも、言うしかなかった。
美羽は小さく頷く。
その細い肩を抱き寄せたとき、ようやく彼女の体が震えていることに気づいた。
しばらくして病室を出る。
廊下の明るさが、やけに眩しい。
入口の近くで待っていた夏海が、すぐにこちらへ歩み寄った。
「どうだった?」
伸也は一瞬迷ってから、短く答える。
「……怖かったらしい」
それだけで、夏海の表情が変わる。
「そっか」
深くは聞かない。その優しさがありがたかった。
「ちょうどお昼だし、どこか入ろうか。少し詳しく聞きたいし」
近くのファミレスへ向かって歩き出す。
昼の街は、いつも通りに動いている。車の音、人の話し声、遠くの信号の電子音。
さっきまでの病室の空気が、嘘のようだった。
夏海が少し前を歩く。
風に揺れる髪が、陽の光を受けてきらめく。
何気なく、その後ろ姿を目で追う。
肩のライン。
歩き方。
背格好。
その瞬間、胸の奥にひとつの考えが浮かんだ。
もし本当に誰かが、美羽を狙っているのなら。
もしまだ終わっていないのなら。
――また目の前に美羽が現れたら、どう動く。
夜の暗がり。
後ろ姿。
距離。
条件さえ整えば、こちらから近づけるのではないか。
伸也は足を止めかける。
考えたくもない方法だった。
けれど、一度浮かんだ発想は消えなかった。
「どうしたの?」
振り返った夏海が、不思議そうに見る。
伸也は首を振る。
「いや……なんでもない」
まだ言えない。
けれど心の奥で、ひとつの選択肢が静かに形を取り始めていた。




