第2章 10話
病室の前まで来たとき、ちょうど扉が開いた。
出てきたのは母だった。
一晩で少しだけやつれた顔。それでも昨夜の取り乱した様子はもうない。
「伸也」
短く名前を呼ばれる。
「……うん」
互いにそれ以上の言葉は必要なかった。
その視線が、隣に立つ夏海へ移る。
「あら、その子は?」
一瞬だけ、夏海が背筋を伸ばす。
「亜咲夏海です。美羽のクラスメイトで……」
丁寧に頭を下げる。
「あら、そうだったの。ご心配おかけしてごめんなさいね」
母は柔らかく微笑んだ。
そのとき、病室の中から弾む声が聞こえた。
「えー、夏海ちゃんまで来てくれたの?」
明るい声。
昨日までの重さを感じさせない調子。
「心配かけちゃってごめんねー」
カーテン越しに見えるベッドの上の影が、わざとらしいほど元気に動く。
母が小さく息を吐いた。
そして、俺の肩を軽く叩く。
「申し訳ないのだけど、わたし一度家へ帰ってもよろしいかしら」
「……うん。わかった」
「また来るから、と美羽に伝えておいて」
そう言い残して、母は静かに廊下を歩いていった。
扉を開ける。
消毒液の匂い。
白いシーツ。
点滴。
そして――思っていたよりも元気そうに笑う美羽。
「お兄ちゃん」
ひらひらと手を振る。
「心配かけてごめんね?」
拍子抜けするほど、明るい。
顔色も悪くない。
怪我の影も、包帯で隠れている部分以外は見当たらない。
隣に立つ夏海へ、ちらりと目を向ける。
夏海は笑っている。
でも、その目だけが笑っていない。
俺と同じだ。
何かが、違う。
「ほんとに大丈夫なの?」
夏海がベッドに近づきながら言う。
「大丈夫大丈夫。ちょっとドジっただけ」
軽い口調。
「階段から落ちたって聞いたけど」
俺が言うと、美羽は一瞬だけ視線を逸らした。
ほんの、一瞬。
「うん。足滑らせちゃってさ」
間。
「怖かったー」
その言葉のあとに続くはずの何かが、ない。
笑って誤魔化す。
明るさが、少し過剰だ。
夏海が小さく息を吸う。
「わたし、ちょっとお手洗い行ってくるね」
自然な声。
でも明らかに作られた退室理由。
俺と美羽だけが残る。
静かになる病室。
機械の規則的な音が、やけに響く。
最初から、気づいていた。
昨夜、ドアの前で何かを飲み込んだ顔。
あれは“言えなかった顔”だ。
「……なあ」
俺が椅子を引いて座る。
「ほんとに、滑っただけか?」
美羽は天井を見つめたまま、答えない。
沈黙。
白い空間が重くなる。
ゆっくりと、視線が俺に向く。
その目は――
明るくなんかなかった。
薄い氷みたいに、張りつめている。
「お兄ちゃん」
声が、少しだけ低い。
「昨日さ」
そこで、言葉が止まる。
唇が震える。
指先がシーツをぎゅっと掴む。
無理に作っていた笑顔の隙間から、本当の表情がのぞく。
壊れそうになっている。
いや、もうとっくにひびは入っている。
「……追いかけられたの」
小さな、かすれた声。
俺の背筋が冷える。
「誰に」
問いかけた瞬間、美羽の瞳が揺れた。
恐怖。
はっきりとした、それ。
「わかんない」
でもそれは、本当に“わからない”顔じゃなかった。
言えない顔だ。
俺は確信していた。
昨日、相談しようとしていたこと。
それが、これだ。
気付いていた。
気付いていたのに。
俺は、聞かなかった。
美羽の肩が小さく震える。
「……怖かった」
今度は、作られていない声だった。
壊れそうになっていたのは、事故のせいじゃない。
もっと前からだ。
俺は、ゆっくりと手を伸ばす。
その細い指を、そっと握った。
今度こそ、目を逸らさない。
ここから先は、逃げられない。




