第2章 8話
ドアの前に立っていたのは、夏海だった。
「ごめんね。不法侵入しちゃってるね、わたし」
力なく笑う。
その顔を見た瞬間、視界が滲んだ。
頬を伝う感覚。
一筋、涙が落ちる。
夏海の表情が揺れる。
「……やっぱり」
小さく息を吐く。
ゆっくり部屋に入ってきて、ドアを閉める。
カチ、と音がした。
その音で、ようやく自分が震えていることに気づいた。
「帰れって言われたから」
俺が言う。
声がうまく出ない。
「家で待ってろって」
「うん」
夏海はそれ以上聞かない。
「鍵、閉まってた?」
「……閉まってた」
その一言で、少しだけ安心したように頷く。
でも、俺の顔を見て、すぐに表情を戻した。
「怖かった?」
答えられない。
怖いのかどうかも分からない。
ただ、胸が重い。
「俺のせいだ」
また、それが出る。
「昨日、あいつ――」
言葉が続かない。
夏海はゆっくり首を振る。
「違うよ」
「違わない」
視線を逸らす。
「聞けたはずだった」
沈黙。
長い、静かな時間。
夏海が一歩近づく。
「伸也」
名前を呼ぶ。
それだけで、喉が詰まる。
「いまは、自分を刺すのやめよ」
小さな声。
「痛いままだと、壊れちゃう」
その言葉が、妙に真っ直ぐ刺さる。
俺は何も言えない。
夏海がそっと手を伸ばす。
指先が、頬に触れる。
「泣いていいよ」
優しく言われて、初めて自分が必死に耐えていたことに気づく。
次の瞬間、身体が前に傾いた。
夏海が受け止める。
強くじゃない。
包むみたいに。
背中をゆっくり撫でる。
その一定のリズムが、崩れかけた呼吸を整えていく。
「一人にしない」
耳元で、そう囁く。
それだけで、胸の奥がほどける。
俺はその肩に顔を埋めた。
涙が止まらない。
夏海は何も言わない。
ただ、抱きしめている。
やがて、少しだけ距離ができる。
目が合う。
近い。
逃げ場はない。
でも、逃げたくもなかった。
夏海がゆっくりと顔を近づける。
触れるだけのキス。
優しい。
確かめるような。
もう一度。
今度は少し長く。
息が重なる。
俺は目を閉じる。
思考が、ゆっくりと沈んでいく。
痛みも、不安も、罪悪感も。
全部が遠くなる。
ベッドに体重が沈む。
街灯の光が、カーテン越しに揺れる。
言葉はなかった。
慰めなのか、逃避なのか。
分からないまま、触れ合う。
ただ、確かに誰かの体温があった。
それだけで、崩れずにいられた。
夜は深く、静かだった。
秘密の夜は、静かに老けていった。




