第2章 6話
画面には、両親の名前が表示されていた。
見慣れているはずの文字列。
それなのに、なぜか出たくないと思った。
理由は分からない。ただ、胸の奥がざわつく。
震え続ける着信。
夏海が不安そうに覗き込む。
「出ないの?」
その一言で、現実に引き戻される。
親からの電話を無視する理由なんてない。
俺は通話ボタンを押し、耳に当てた。
「もしもし」
『伸也!?』
母の声だった。
明らかに様子が違う。
息が荒い。言葉がうまくまとまっていない。
『聞いてるの!?』
「……聞いてる」
喉がひりつく。
『美羽がね、階段から落ちたの』
一瞬、音が消えた気がした。
「……は?」
『家の近くの公園の階段。通報があって、いま救急車で――』
母の声が震える。
『追いかけられてたかもしれないって、警察の人が……逃げようとして足を踏み外した可能性が高いって』
追いかけられた?
誰に。
どうして。
思考が追いつかない。
『お父さんといま病院に向かってる』
遠くで車のドアが閉まる音がした。
『伸也、あなたは家に戻って』
「え?」
『鍵、閉め忘れてるかもしれないの。慌てて出てきちゃって……』
現実的すぎる言葉に、逆に頭がくらくらする。
『もし何かあったら困るから。家で待ってて』
「俺も行く」
思わず言う。
『だめ』
きっぱりした声。
『あなたが来ても今は何もできない。家にいて。電話するから』
息を吸う音。
『いい? 家に戻って』
「……分かった」
それしか言えなかった。
通話は切れた。
画面が暗くなる。
駅前の喧騒が一気に押し寄せる。
さっきまで笑っていた世界が、そのまま続いている。
「どうかしたの?」
夏海の声。
現実に戻される。
「美羽が……」
声がうまく出ない。
「家の近くの階段から落ちたらしい」
夏海の表情が凍る。
「え……」
「追いかけられてたかもしれないって」
言葉にした瞬間、昨日の夜が鮮明に蘇る。
ドアの前。
ほんの一瞬の迷い。
“たいしたことじゃないから”
あれは。
あれは本当に、たいしたことじゃなかったのか。
「俺のせいだ」
気づけば、口にしていた。
「違うよ」
即座に返ってくる。
「伸也のせいじゃない」
でも、その言葉は胸に届かない。
「昨日、あいつ、なんか言おうとしてた」
喉が詰まる。
「俺、聞かなかった」
浮かれていた。
電話。
約束。
笑っていた時間。
その裏で、美羽は何かに追われていたかもしれない。
「俺がちゃんと聞いてれば」
息が荒くなる。
「俺が聞いてれば、こんなことになってなかったかもしれない」
夏海が一歩近づく。
「それは違う」
必死な声。
でも、受け止められない。
「うるさい」
自分でも驚くくらい強い声だった。
夏海が固まる。
「俺のせいだろ」
視界が揺れる。
「昨日、あいつは俺に話そうとしてた」
胸が痛い。
「なのに俺――」
言葉が途切れる。
ポケットの中のスマホが、やけに重い。
「……帰る」
短く告げる。
「家で待ってろって」
それだけ言って、歩き出す。
「伸也!」
呼ばれる。
でも振り返れない。
振り返ったら、今にも崩れそうだった。
夜の空気が肺を刺す。
数分前までの楽しかった時間が、嘘みたいに遠い。
楽器屋で見たベース。
CDショップの笑い声。
全部が、急に色を失う。
足が勝手に速くなる。
頭の中にあるのは、昨日の美羽の顔だけ。
“たいしたことじゃないから”
あれは嘘だったのか。
それとも、本当にたいしたことじゃなかったのか。
間に合うのか。
家に戻れば、何か分かるのか。
分からないまま、ただ走る。
家で待つしかない。
それが、いちばん怖かった。




