恋風のとき
風が吹いた。
それは、どこかで聴いたメロディーのように、静かで優しい風だった。
赤いレインコートの少女は、街角の小さな広場に立っていた。
夜明け前の空はまだ薄暗く、でも、雨はもう止んでいた。
あの長い夜を越えたことに、まだ心が追いついていなかった。
ポケットの中のイヤホンを取り出して、彼女はそっと耳にあてる。
ふと流れてきたのは、幾田りらの「恋風」。
その歌声が、心の奥にまで響いてくる。
君が吹かせた風に乗って
確かな一歩を踏み出すよ
彼女の目に、すっと涙が浮かんだ。
あの夜、風に逆らいながらも進もうとしていた自分。
ひとりでいたと思っていたけれど、あのとき誰かと出会った。
あの子が言ってくれた、ささやかな言葉たち。
傘を傾けてくれた、あのぬくもり。
“君が吹かせた風”って、もしかしたらあの子だったのかもしれない。
あるいは、あのときの自分の中にいた、諦めない心。
風が頬をなでる。
レインコートのすそが、ふわりと揺れる。
もう、傘は持っていない。
空は晴れ始めていた。
「わたし、行ける気がする」
彼女は、音楽の中の風に身を任せて、ゆっくりと歩き出した。
まだ不安はあるけれど、足取りは確かだった。
一歩、また一歩。
歌と心が重なって、歩幅が音楽になっていく。
きっと、もうすぐ朝が来る。
彼女はそれを、信じられた。