第一話 レオン=フォン=アレイグランツの誕生
初めてです。わからん。
秋の夕暮れは、思いのほか早く訪れる。
窓の向こうに傾いた陽が、音楽室の床を黄金色に染めていた。
一ノ瀬香澄は、トロンボーンを両手で抱えながら姿勢を整え、静かに呼吸を整える。息を吹き込んだその瞬間、金管の胴が深く震え、音楽室の空気が染め上げられた。
伸びやかでいて艶のある音だった。響きにはどこか色気があって、年齢よりも成熟した彼女の存在を、そのまま音にしたかのようだった。
彼女の背後にある窓のそば、壁際に寄りかかっていた少年――神代奏斗は、その様子を無言で見つめていた。
トロンボーンが静かに音を止め、香澄がふぅと息を吐いた。
「……また見てたでしょ。奏斗。」
「そりゃ見るだろ。色っぽすぎて目が離せないって。」
彼女は肩をすくめ、少しだけ頬を赤らめた。
「色っぽいって……私は演奏してただけなんだけど。」
「だからさ。香澄って、音までエロいんだよな。制服から伸びる首とか、楽器持つ手とか……まじで反則。」
「……ばか。」
呆れたような声音。しかし、その言葉の裏には怒りよりも諦めが混じっていた。
神代奏斗。サッカー部のエースにして、表向きは爽やかで人当たりの良い優等生。しかし、香澄だけは知っている。彼の本性は、欲に忠実で、臆面もなく本音を口にする、図々しくて、どこか危うい男だということを。
それでも、彼女は奏斗を嫌いになれなかった。彼の中にある“あけすけな醜さ”が、逆にどこか安心できた。彼は、嘘をつかない。
「お前さ、文化祭でもその曲やんの?」
「うん、まあ。先輩たちとも決めてるし。」
「じゃあ、今度それ練習してる時、俺後ろで見てていい? いや、下からでもいいか。」
「……ほんとばか。」
また言った。けれど、怒ってはいない。
その空気は、ふたりだけにしかわからない、温かな日常の一部だった。
チャイムが鳴る。放課後の終わりを告げる音。
彼女はトロンボーンを片づけながら、視線だけを奏斗に向ける。
「今日も、一緒に帰る?」
「悪い。部活のあとちょっと寄るとこあるから、先帰ってて。」
「そっか……じゃあ、また明日ね。」
「うん。また明日。」
扉が閉まり、香澄の足音が遠ざかる。
奏斗は、音楽室に残された残り香のような余韻に、ひとり笑みを浮かべた。
「……ほんっとエロい。将来、あいつと毎晩だったら、絶対飽きないな……」
そんなことを、真顔で考えながら、彼は鞄を持って立ち上がった。
校舎裏の通用門を抜け、下り坂を一人歩く。
夕日が街を朱に染め、風が緩やかに頬を撫でていた。
彼はスマートフォンを取り出し、香澄の送ってきた写真を何気なく開く。
制服姿。髪をかき上げて笑う横顔。彼女にしか出せない、大人びた色気。
「……ほんとたまんねぇ。こんな女、絶対他の男には渡せねぇよな。」
誰に言うでもなく、呟いたその瞬間――世界が、変わった。
風が止まった。
虫の声が消えた。
足元に、光がにじみ出す。
視線を落とすと、そこには見慣れぬ幾何学模様。円、線、文字。青白い光が複雑に交差し、彼の両足を取り囲むように広がっていた。
「……え?」
地面から浮かぶ光の帯が、彼の脚に絡みつく。熱を伴い、重力が失われる。
「なんだこれ、冗談……だろ……?」
目の前の風景が揺れ、空間が音を立てて裂けていく。
周囲が真っ白になる。心臓が凍るような感覚。視界が引き裂かれる。
「ちょ、待て……っ、!」
最後に叫んだ次の瞬間、風に飲まれ、彼の姿ごと、世界から消えた。
<異世界 モンド>
静かな夜明け前。
城の奥深く、蝋燭の灯が揺れる産室に、ひとつの産声が響いた。
「おめでとうございます……! 男の子です!」
白色の肌をした侍女たちが慌ただしく動くなか、金髪の婦人が赤子を胸に抱いた。
蝋燭の揺れる産室には、夜明け前の冷たい空気が張り詰めていた。
赤子の産声が響いた瞬間、その場にいたすべての者が、ひざをついた。
扉が音もなく開き、漆黒の軍服をまとった男が現れる。
ジルヴァン=フォン=アレイグランツ。
ディアノア王国三大公爵家の一角を担う、名門アレイグランツ家の現当主。雷鎚公の異名を持つ、戦場と宮廷の両方で畏れられる男。
彼は無言で産婦のもとへ歩み寄り、赤子をそっと抱き上げる。
まるで壊れ物を扱うような慎重さと、魂の重さを量るような眼差しだった。
赤子の瞳が、真っすぐ彼を見返していた。
小さなその瞳の奥に、燃えるような光が宿っていた。
ジルヴァンは、片膝をついた侍従たちをゆっくりと見回し、静かに、だが圧倒的に宣言した。
「この子こそ、アレイグランツの血を正統に継ぐ者……」
室内の空気が一段と張り詰める。
「――名を、レオン=フォン=アレイグランツとする。」
その言葉と同時に、雷のような重低音が空に鳴り響いた。
魔力が揺らぎ、屋敷の上空に青白い稲妻が走る。
まるで世界そのものが、この名の誕生を記憶したかのように。
ジルヴァンは赤子の額に指を添え、アレイグランツ家に伝わる雷紋をそっと刻む。
その瞬間、赤子の胸の奥にあるマナコアが、青金に瞬いた。
「お前は、この名にふさわしくあれ。
欲を恥じるな。力を恐れるな。
支配する者として――このモンドに、爪痕を残せ。」
静かに、だが確かに、王国に新たな怪物が誕生した瞬間だった。
「この子の名は……レオン。レオン=フォン=アレイグランツ。」
八大列強ディアノア王国。
その中でも最上位とされる公爵家――アレイグランツ家の後継が、生まれた。
その赤子の瞳には、消えてなお残る欲望の残光と、抑えがたい本能の熱が、確かに宿っていた。
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