第3話 OL風の女
……竜の次は何だったろうか……カエルの顔をした腕が六本もある化け物だっただろうか、いやそれは次の次か……いや、腕が六本なのはカエルの顔とは別の化け物だったかな……岩で作られた大仏のような化け物もいたな。大きな剣を持ったケンタウロスのような化け物も。身体以上に手の大きな化け物にずっと握りしめられていた時はなによりも生きた心地がしなかった……。
そして、
「──あら。あら、ねえ、ねえ……ねえって、ねえってば」
幾度となく打撃音や圧迫音で気を失っては目覚めてを繰り返していたのだが、そこでようやく懐かしい人の声らしき音が聴こえてきた。
僕は寝ぼけているかのように朦朧とした意識のままで立ち上がると、下半身が安全な殻から抜け出してしまった事に焦ってすぐに我に返り、元の三角座りの姿勢に戻ろうとしたのだけど、力なく前のめりに倒れてしまい、ついでにその反動で飛んで行った殻がころころと遠くへと転がっていった。
「あら……あら、大丈夫?」
少なからずとも死を覚悟した僕の耳に入ってきた拍子抜けするような声。なんとかその声の主に視線を向けると、そこには見慣れた安心感が存在していた。
人──女の姿をした、人間。
そう言えば赤黒い球体が言っていたっけ。何度も瀕死を繰り返して危うく忘れてしまいそうだったが、遡りを10回繰り返すと再び知性のある姿になる事が出来るとかなんとかと。
「……き、キミは知性がある感じか……」
僕は縋るようにそう尋ねた。
「あら。うーん、そうね。会話は出来る感じね。だからそれでいいわよ」
黒髪を後で結え、ネイビーのスーツにタイトスカートを履いたOL風の女性の姿。顔も普通の人間と同じように目鼻口があるべき箇所に存在していた。
「──でね、また時間が遡ると面倒だから話を進めるわね。この世界の人間よ、わらには2つの心臓があるの」
黒い球体の頃よりも口調と声質が柔らかい。どうやら容姿に合わせて変化するようだ。ただ、その一人称と口癖は変わらないようで、だからこその同一性をきちんと感じられた。
「──その内の1つをお前に預けると、わらはお前の住むこの世界で死なずに済む……と思うの……漠然とだけど、死にたくないと願う私の防衛本能がそう告げてくるの」
「2つの命があるのかお前は……それが本当なら、つまりは命の共存という事か……? この世界に存在している僕に命を預ける事で居住権を得るという……」
「あら。本当に理解力が優れてるわね。話が早くて助かるわ。何度も言っているけど、この事態は私も知らない事だから、あなたに納得してもらわないと私も困ってしまうのよね。だから、取り敢えず、今はあまり深く考えないで、あなたと私が生きられる方法に賭けてみない?」
生きられる方法……。
「……僕は……現在の僕はどうなっているんだ? 気付けばここに居て、今現在も目を開けているけど、ここが現世なのかは判断が出来ていなくて……僕はちゃんと生きているのか?」
「死ぬ寸前よ。そこをわらがこの空間──咄嗟に作ったこの“結界”の中に連れてきたの。時間を排除したこの空間の中に。だから、この世界の人間よ、後出しジャンケンのようで申し訳ないのだけど、そもそも最初からあなたに選択肢はないのよ。あなたが生きる為にもわらの心臓を貰い受けるしかないの。じゃないと死ぬ寸前の続きが開始されるだけなの」
それに対して僕はやはり少し考えざるを得なかった。
それは僕の生死が云々ではなく、もっと必然的な事で、僕はこの得体の知れない何かをこの世界に住む事を許可していいのだろうか? という事であった。
たぶん……いや、おそらく……いやいや、悩むまでもなく絶対に駄目だろう。だって竜になったりする化け物なのだから。
けれど、
──けれど、なのだけど、
正直、正直に言ってしまえば、僕だって生きる権利が残っているのなら、死にたくはないのだ。
──それに、
「上白……上白まなぎ……僕と一緒に居たクラスメイトは今どうなっているんだ?」
「お前と一緒に居た……あら、そう言えばもう1人いたかしら。わらも必死だったからあまり覚えていないけど、なんか居たわね、そういえば。生死を聞きたいの? だったらたぶん生きているわよ。お前も死んでいなかったのだから可能性は高いと思うわよ。この結界の中では外の時間は流れていないわけだし。ただ限りなく死に近い状態ではあるわよね、きっと」
「救えるか?」
「あら。そうね。わらなら可能よ」
この回答の語頭か語尾に、たぶん、が付け足されていたらきっと僕はまた悩んでいた事だろう。だけど幸いにもそれが無かったから僕の先程の疑問の解答も端的に決まった。
「分かった。預からせてもらうよ」
僕がそう告げると同時にOL風の姿をした女は自分の左手に輝きを灯し、そのまま自身の右胸あたりに重ね、やがてそこに溶け込むように手首から先が身体の中に消えていき、その数秒の後に引き抜いた。
──ハートと共に。
……驚くほど本当に彼女の左手にはハート型の多分これが命なのだろう思われる立体物が摘まれており、それを僕に笑顔で差し出してきた。
「はい、飲み込んで」
「の、飲み込む?」
割と大きなハート型。とても一口で入るものではなさそうだったし、何よりもドクンドクンと脈を打つ振動と音がとても気持ち悪かった。
「あら。ほら、口開けて。はい、あーん」
あーんと言われると人は幼い頃の記憶に従って口を開けてしまうのが道理。故に僕も気付けば準じてしまっていた。すると、ハート型が僕の口の中に勝手に入ってきて、口内で喉の形状に合わせるように麺類のように細く長く伸び、そのまま体内へと流れこんでいった。
刹那──OL風の姿の女の頭のてっぺんから股の下までを黒色の線が真っ直ぐに走った。
「ああ、微妙に間に合わなかった……ああ、また遡る……」
彼女は口惜しそうにそう言い、それとほぼ同時に右半身と左半身が上下にずれた。そして振り絞るような声で最後にこう言ってきた。
「──今より一つ前のわらの姿、それは一番危険な姿よ……」
と。だけど僕はその言葉も彼女の異変もどう感じる事もできずにいた。何故ならハート型を飲み込んですぐに体内の拒絶反応が始まって体温が激しく上昇し、おそらくそのまま上限値を超えた後で、たぶん僕は息絶えたのだから。