第2話 もぬけの殻
「お……ろこ……げ……」
遠い意識の向こうから声が聞こえてきた。
「──おき……の……んげ………よ」
声が徐々に近づいてくる感覚が確かにあり、僕はもう少しでやり方を忘れてしまいそうだった目蓋を記憶を辿りながらなんとか持ち上げていった。
意識は重い。
ここは……何処だ?
色の無い不可思議な空間。上にも横にも下にも何もなく、ただ浮いているという感覚もなく、足の裏は地を踏んでいるようで歩こうと思えば進めそうな気もした。
意識の重さが徐々に和らいでくると、遠くの方に黒い点のようなものが確認できた。それが色なのか物体なのかを考えいると、目蓋を閉じてから開くまでの僅かな間にいつのまにかそれが目の前に来ていたので驚かされた。
黒い球体。形状は完璧なまでに丸く、色もあらゆる全てを塗り潰して完成された闇のように黒かった。大きさは直径で1メートルくらいだろうか。
「──ようやく起きたか、この世界の人間よ」
声。だけど目の前の黒い球体に動くといった変化はなかった。故に話かけられてるという雰囲気もなく、誰かの声が直接に僕の脳に響いてくるといった方が適切だった。恐怖心は不思議と湧いてこなかった。人が人に話かけてくる時のような自然な心地良さが感じられたからだ。
敵意のない親しみを込めた会話。つまりは端的にこの黒い球体は僕にそれを求めてきていると考えて良さそうだった。取り敢えず現段階ではだが。
ただどちらにしろ僕はまだ言葉を上手に話せる自信が無かった。だから暫くはこの黒い球体の話に耳を傾ける他なかった。
「──この世界の人間よ。“わら”もまた定かではないのだが、順を追って話すには時間が足らず、漠然とすべき事だけが分かるといった感じなのだが──」
……この世界の人間……わら……時間と漠然……と、突っ込み所は既に満載なのだが、それよりも、話の途中で黒い球体の様子が変化した。面積がひと回り大きくなり、その闇のような黒色に少しだけ温かみのある赤色が浮かび上がってきたので驚かされた
「──……この世界の人間よ、これで三度目だ。わらの姿は究極へと成った形態から既にこれで三度の時間を遡った事になる……」
遡る? 赤黒くなった球体の言わんとしている事がよく分からなかった。よく分からなかったけれど、この変化は単純に時間を逆行していると捉えてよさそうだった。しかもそれを究極からと逆算をしている口ぶりから劣化であるとも想像がついた。
だとしたら、
「──分からぬ。この状況はわらにも知らぬ事態なのでな。ただ、漠然とは分かっているのだ」
「漠然と……」
僕はようやく声を発した。まだ呟くような独り言ではあったけど、その漠然は僕がこの不可思議な空間で目を開けた時に感じた漠然とたぶん同質のものなのだろうから。
漠然とだけど……すべき事は分かっている。
上白まなぎ。
「僕はどうすればいいんだ? お前はさっきのあの不思議な現象に関与している何かなんだろ? 僕に何かを求めているんだろ? だから僕は生きて……いるのかよく分からないけど……と、とにかく何かを求めているんだろ?」
「理解力が早いな」
「理解なんて何一つしていない。けれど理解なんてしている暇はないんだ。だから早く答えてくれ!」
「そうか。だが先程から言っているように、わらもまた知らぬ事態でな。ただ、わらの体の時間が遡っていく事から察するに、どうやらわらはこの世界では生きられないのだろうな……」
「……お前の分析は今はいい。僕が何をすればいいかだけ端的に教えてくれ。そうじゃないと上白が──」
「急かすな。わらも漠然となんだ。漠然と。あくまでも漠然と。ん? カミシロ? いや、それよりも、これはわらの防衛本能がそうしろと訴えている事なのだが、正解かどうかは分からぬのだが、まあ、それこそ今はいいか……話を進めるぞ。お前、わらの命を貰え」
「えっ、命を……貰え…….えっ、今そう言ったのか……?」
予想もしていなかったまさかの発言に僕は驚き、けれどその続きの言葉は、赤黒い球体の「ぐっ!」と漏れる苦しそうな声と共に途切れてしまった。どうやらまた時間を遡るという異変が始まったようで、球体の中央部にボゴっと拳で殴られたような大きさのヘコミが急に現れた。
「──こ、この世界の人間よ、まずい事態だ。今の……この状態のわらよりも時間を遡るのは、知性を排除した凶暴へと姿を変える事なのだ……だから、いや、だ、駄目だ間に合わぬ……」
そう言うと同時に赤黒い球体のヘコんだ箇所の奥から、ワニの背中のような鱗板で覆われた巨大な4本指の手がズシリと重圧感を纏いながら現われた。
「──……こ、この世界の人間よ……し、仕方がない……と、取り敢えず耐えるのだ。これより10度ほど時間を遡ると、再び知性のあるわらになる。それまで何とか耐えるのだ」
……何を言っているのか心底に分からなかった。分からなかったのだけど、赤黒い球体が断末魔のように激しい叫び声を響かせながら数十秒をかけて巨大な手のそれ以上に巨大な体躯を体内から排出したので悩む暇もなかった。
竜だった……。
赤黒い球体よりも全長が10倍くらい大きく、二足で立ち、背中に赤い羽があり、首が蛇のように長く──薄目にして見ても、それこそいっそ瞳を閉じてしまっても……そこに存在しているのは紛れもなく竜だった。いや、実際に見た事はないので僕は勝手にそう判断した。
「グオオオオオオオオォォォォオオオーー!!」
産声というには余りに悍ましい鳴き声。しかも竜の口の中では赤い炎が威圧的に絶望的にメラメラと燃えていた。
「……この世界の人間よ、取り敢えずわらの中へ入れ」
もうだいぶ弱々しくなった声と同時に竜を排出した事で極端に生命力を失った赤黒い球体がころころと転がって来た。僕は言われるままに無我夢中で中央のヘコミ部に飛び込んだ。
スポッ。
予想とは随分と違った拍子抜けするような間抜けな音。自分よりも10倍もの巨大な竜を体内から排出させたのだからこの赤黒い球体の中央のヘコミ部のその奥は別空間と繋がっていて、僕はそこで安心安全に時間を経過させる事ができるのだろうと想像していたのだけど……甘かった、甘すぎた。これは見た目通りにただの蛻の殻だった。
つまりは僕は現在……球体型の着ぐるみを上半身に被っただけ、という事になる。ので、せめて体育座りをして全身を隠してあとは歯を食いしばって身構えた。
もちろん頼りない。寒空の下で着衣がTシャツ一枚というくらい心許ない。だけど驚く程にそこには優劣の差というものが理屈として存在してくれているようで──いざ竜の炎を真正面に受けても、勢いよく側面を蹴飛ばされも、頭上を圧倒的な重量で踏まれても、その鋭い牙と強靭な顎で噛まれても、僕にはダメージが少しもなかった。
手のひら返しの丈夫な殻。
ただ、なされるがままの恐怖は凄まじい。殻の中で三角座りをして瞳を閉じて耳を塞いでいても、隙間から侵入してくる音と衝撃で今は何をされているのかが容易に想像できてしまい、その度に僕の心は恐怖によって何度も殺されてしまった。
凶暴な竜の猛攻。僕の走馬灯たちは僅か5分でネタ切れとなった。