Case1 退職代行ユア・パートナー
酒を浴びるほど飲んだ男はこう叫んだ。
「だから! 俺は辞めたいつってんの! ばっかじゃねーの!?」
赤らめた顔をワッと伏せる。片手にはジョッキ、もう片手は拳を握り机に叩きつけた。
下町の酒場はいつだって騒がしいが、男の悲痛な叫びはその比ではなかった。
「毎日毎日、あともう数日働いてくれ? ざけんな! 今月末まで働かないと給料支払わないとか退職金ねぇとか脅しやがって……毎月それだ。早く実家に帰んねーといけねぇってのによぉ!」
「お前、家業継ぐんだっけか?」
「そーだよ! 親父が動けねぇから、お袋と弟と妹の三人で回してるってのに」
隣に座る茶髪の男は「また始まった」と思いながらジョッキを傾けた。
頭に最初に思い浮かぶのはいつも同じ言葉だ。
「……バックれちゃえば?」
そして返ってくる言葉も大体変わらない。
「お前”信用”って言葉知ってる?」
「またそれかよ」
「あと家業は運送業だから変な噂流されても困る。最近ここに支店開こうかって瀬戸際なんだ」
「へー、大変だな」
「他人事かよ」
「所詮、他人事だろ。話を聞いてやってるだけありがたく思え」
男は今にも泣き出しそうな顔で酒を煽った。
動きやすい服装に、携えた武器——いかにも冒険者という出立ちの二人。
酒場には他にも同じような背格好の男たちが肩を並べてワイワイと話に花を咲かせていた。
「んで……そういうお前は? 仕事どうなんだよ」
「まー俺はぼちぼち、かな」
「お前んところは大手ギルドだもんな……いいなぁ」
隣に座る男も同業者だが、所属するギルドが異なっている。
ギルドと言ってもピンキリで、中には奴隷契約まがいの場所まである始末。
まだ交渉の余地があるだけマシだと誰かは言ったが、いち早く実家に帰りたい男からしたら「うるせぇ黙れ」に尽きる。
「——そんなに辞めたいなら、いいとこ紹介しようか?」
不意に、隣に座る男が呟いた。
今まで「大変だな」の一言で話を流し聞きしていた男からの、助言。眉を顰めるには十分だった。
「どういう風の吹き回しだ」
何も示し合わせていないというのに、二人の声が段々と小さくなる。
「最近、俺の所属するギルドのやつが辞めたんだよ」
男はいつも以上に耳を傾けた。
他ギルドの内部事情なんてそうそう聞けるものじゃない。しかも「辞めた」なんてタイムリーだ。
「優秀なヒーラーでさ。ダンジョンの先遣隊に同行する予定が変更になったって聞いて、人事に問いただしたら辞めてた」
「は? ラグーン・ギルドを辞めたのか、そのヒーラー」
「そ。で、律儀なやつって印象だったからなんの連絡もないことに違和感を持ってさ。人事の知り合いに聞いたら、ここでは話せないって言われてよ」
「不祥事か?」
表沙汰にならない不祥事なんてたくさんある。
最近だとギルドの高ランカーが恋人を観賞魚にして飼っていたなんて話が有名だ。金の流れなんて日常茶飯事だ。
「いんや。辞めた理由も教えてくれなかった。っていうかそいつも理由は知らなかったみたいでよ。でも人事のお偉いさんがカンカンだったらしくて」
「それがどう俺に繋がるんだよ」
「そのヒーラーどうやって辞めたと思う?」
ここにきて問題かよ、と黙れば「そう睨むな」と返ってくる。
茶髪の男はあっさりと、だが小さな声で告げた。
「退職代行屋を使ったんだよ」
吐く息の居心地が悪い。酒場の騒がし会話が呪文のように耳で流れていた。
数秒間の沈黙と「まさか」という気持ち。
「……退職代行ぉ?」
未知のものに出会ったような一言目だった。
実際、男にとって初めて聞く単語に変わりはなかった。
退職代行屋——依頼人に代わって職場に退職の意思を伝え、手続きを代行するサービスのことだ。
「なんだそれ。退職を……?」
「代行する。あってるよ。本人の代わりに手続きとかをするんだ」
「へぇ、またトンチキな商売が出たな」
半信半疑で男は頷いた。流行りの商売でなければいいが。
街に出店する屋台のように、それこそファッションのようにサービス業にも流行り廃りがあるものだ。
「噂によればどんな職場でも、円満に、退職できるらしいぞ」
「それ裏社会の、それこそマフィアンギルドとか関わってね?」
「知るかよ。でもその謳い文句は本当らしい。実績はほぼ100%」
マフィアンギルドとは裏社会に精通しているギルド、いわゆるブラックギルドのことを指す。
彼らは暴力や薬、人身売買など「違法」というコンテンツを商売にしてる。
普通に暮らしていたらお目にかかることはまずない、そういうギルドの総称だ。
「退職代行ユア・パートナー」
茶髪の男は紙を取りだしてサラサラと書いた。
「ここだ。行ってみろよ」
紙にはある程度の位置と退職代行屋の店名が記されている。
書き終わりトントンと机を叩く茶髪の男はどこか疲れていた。
「お前、やけに詳しいな」
記憶していることにも驚いたが、迷いのない様子に先ほどまで泣き出しそうだった男は訝しげに紙と茶髪の男を交互に見た。
「はぁ……ギルドの仕事はダンジョン攻略だけじゃないってこと」
グイッとジョッキを傾けた。
ぬるくなったエールはあまり好みじゃないのか眉を顰めている。
その様子を見て、紙をもらった男は曖昧に頷いた。
酒をたらふく飲み、おぼつかない足で辿り着き、男は目の前の建物を見上げた。
看板なんてない。
手に握った紙を広げて、もう一度確認した。
「——ここか」
渡された紙にシミが広がる。
夜空を見上げると暑い雲がかかりポツポツと雨が降り始めた。
帰ろうか、と悩んだ男の思考が次第に強くなった雨音に遮られる。
数秒間、呆然と立ち尽くしたのち、男はとうとう足を踏み入れた。