第60話 本当のあなたへ
僕がHMDを外すと目の前に亜弥子さんがいた。彼女はとても悲しそうな顔をしていた……僕が約束を破ったからだ。
「ごめんなさい、亜弥子さん。僕はあなたとの約束を破ってしまいました」
「……あなたの中に『カスミ』が残っていることは知っていたわ」
「え……」
亜弥子さんは、僕がカスミに戻ることを恐れている……僕はずっとそう考えていた。
「私はカスミのことが好きだった……カスミはブルーアースでいつも私を守ってくれた。私のそばにいてくれた」
「……」
「でもね、今は現実のあなたのことが好きなの。誰よりも私のことを大切にしてくれるあなたのことが……それだけは忘れないでほしいのよ」
「亜弥子さん……」
僕は馬鹿だ……いつだって本質に気づいていない。亜弥子さんとの約束は僕を縛るためのものではなかった。僕の存在を守るための約束だったのだ。
「僕も……僕も亜弥子さんのことが好きです。ブルーアースであなたを守りたいと思ったあの時から――」
僕は亜弥子さんを抱きしめた。僕はこの人を守るために生きていきたい。だから現実世界に帰ってきたんだ。
「あのさ、盛り上がってるところ悪いんだけど、カスミはどこにいるんだ?」
高校生くらいの女の子が声をかけてきた……現実世界のアイラさんだ。
「私はカスミよりも先にブルーアースにログインしていたから、直接あいつの顔を見てないんだよ」
「あなた……まさか知らないの?」
「……」
僕は逃げ出したい気分になってしまった。
「そこにいるのがカスミだよ。現実世界のカスミは男なんだ」
「ええぇっ!?」
レイカさん――鈴花さんがとんでもないことを言ってしまった(ブルーアース事件の後、彼女とは直接会ったことがある)。アイラさんは驚きのあまり声が裏返っていた。
「お、お前本当にカスミなのか?」
「……ええ、僕がカスミです」
「厳密に言うと現実世界にカスミは存在しないの。この人の仮想世界での姿がカスミなのよ」
亜弥子さんは複雑な表情で、アイラさんに僕の正体を説明した。すると、アイラさんは肩を震わせながら僕を睨みつけてきた。
「……お前、私を騙していたんだな!」
「えっ!?」
「私は『ブルーアースのカスミ』に憧れていたんだよ! 本物の正義のヒロインだと思っていたのに、全部嘘だったなんて……許さないぞ!」
アイラさんはどこからともなく竹刀を取り出し、僕に襲いかかってきた!
「だ、駄目だ、アイラさん! 自分の悪意に負けてはいけない! 正しき心を持つんだ!」
「うるさい! 私を騙していたお前こそ悪意の塊だ!」
アイラさんが竹刀で打ちつけてくる!
「い、痛いっ! 誰か助けて!」
「だから女の子の格好になるなって言ったのに……」
「自業自得だな」
かつての仲間たちは、僕に助け舟を出してはくれなかった。これが現実である。
「カスミとサクヤにレイカ……あの三人が噂の三麗騎士かい?」
遠巻きに見ていたミントがレーベンに問いかけた。
「その通りだ。彼らこそブルーアースに潜む悪意を打ち破り、現実世界への扉を開いた英雄……三麗騎士だ」
現実世界のレーベンは顔を隠していない。彼は意気揚々と、自分が名付けた戦士たちについて語った。
「彼らが英雄? とてもそうは見えないね」
ミントは呆れた表情で、アイラから逃げ回る一人の男を眺めていた。
「そうだな、現実世界の彼らはどこにでもいる普通の若者だ。だが、仮想世界が悪意に脅かされる時、彼らは再び戦士として現れる」
「それでカスミをミラーアースに呼び込んだのか……あなたもあくどい人間だな」
「3年前、私は宗太郎の計画に気づくことができなかった。恥ずかしい話だが、彼らの力添えがなければ真実にたどり着くことができなかったんだ」
レーベンは宗太郎の真意に気づけなかったことを悔やむ一方で、自分に代わって宗太郎の野望を阻止したカスミたちのことを高く評価していた。
「なるほどね。あなたが彼らを頼りにする理由が理解できたよ」
「ミント、今回は君にも助けられた。君の推理と洞察力がなければ、事件は解決できなかっただろう。どうだ、メタバース管理局に入るつもりはないか?」
「やめてくれ、私はただの探偵だよ。それに……どうせなら彼らと一緒に冒険がしたいな」
「そうか……三麗騎士の呼び名も変える必要がありそうだな」
正しき心を持った戦士たちは、現実と虚構の狭間で悪意と戦い続ける――レーベンの脳裏にはそんな未来がよぎっていた。
「カスミ、待ちやがれ!」
僕はアイラさんから逃げ回っていた。亜弥子さんと鈴花さんは見て見ぬ振りを続けている。
「なぜだ……なぜなんだ、アイラさん! どうしてそこまで僕を憎むんだ!」
「うるさい! 黙れ!」
「まさか……僕がゲームの中で女性キャラを使っていたことを不快に感じているのか? だとしたら僕は……」
「違う!」
アイラさんが、ようやく足を止めた……顔を赤くして息を切らしているのは、ずっと走り続けていたのが原因か?
「私はずっと悩んでいたんだ。本物のカスミに会えてすごく嬉しかったし、一緒にいるとなんだかドキドキするし……」
「えっ、それってまさか……」
「そうだよ、私はカスミが――お前のことが好きなんだ! でもカスミが女の子だと思うと本当の気持ちを伝えられなくて……どうすればいいのか分からなかったんだぞ!」
「……え?」
亜弥子さんの目から光が消えた。絶対何か勘違いしてるよね?
「それなのに現実のお前は男で、私の気持ちも知らずにサクヤとイチャイチャしてる……こんな仕打ち、許せるわけないだろ!」
「そんな……そんなことが……」
アイラさんの告白に困惑する僕の背中に、突然ライフルが突きつけられた。亜弥子さんが使用している競技用ライフルだ。ブルーアースから帰還した彼女はスポーツ射撃を始めていた。
「あなた……私との約束を破って何をしていたの?」
「あ、亜弥子さん……僕は何も悪いことはしていません! お願いです、信じてください!」
「また嘘をついたわね!」
「ぐわあああっ!」
僕は断末魔を上げた。自分を偽り、世界と人々を騙し続けてきた代償を支払う羽目になったのである。
その後、僕は亜弥子さんとアイラさんにこっぴどく叱られた上、二度と嘘をつかないという約束を結ばされた。僕が嘘をつかずに生きていくのだとすれば、今後「カスミ」が表舞台に姿を現すことはないだろう。僕にとっては、それが一番いいことなのかもしれない。
ブルーアースのサーバーが移設されていたソムニウム社の研究施設には、メタバース管理局による立ち入り調査が行われることになった。
ソムニウム社はブルーアースの技術を自分たちが利用しているつもりでいたが、実際は彼らが宗太郎の計画に利用されていただけだった。ソムニウムによってコピーされたブルーアースの技術は、既に外部に流出しており、ブルーアースの亜種が乱造される結果を招いてしまった。
もし宗太郎の計画が目論見通りに進んでいた場合、世界中に拡散したブルーアースの亜種がイマジノイドによって支配され、現実世界の人間たちは淘汰されていただろう。宗太郎は現実を憎むあまり、世界を崩壊へと導こうとしていたのだ。
宗太郎とて最初から悪人だったわけではない。しかし、通り魔事件をきっかけに芽生えた心の悪意は宗太郎自身を蝕み、取り返しのつかない事件を引き起こしてしまったのだ。
ミラーアースで発生した一連の事件について、ソムニウム社はBCSに安全上の問題があったことを認めた。これによりアイラさんの嫌疑も晴れ、彼女が死神と呼ばれることはなくなった。
一方で、事件がイマジノイド――リミカによって引き起こされたものであることは公にされなかった。イマジノイドの存在が明らかになることは、社会に無用の混乱を生じさせる恐れがあったためだ。
リミカ本人はメタバース管理局によって保護されていた。彼女は限定されたネットワーク内でのみ活動を許され、世間からは姿を消すことになった。その後、ソムニウムスタジオからはバーチャルタレント「夢島リミカ」の無期限活動休止が発表された。
事件の被害者であるペインフルの三人は奇跡的に意識を取り戻すことができた。ただし急性心不全による心臓へのダメージは大きく、治療にはかなりの時間が必要になると予想されている。ソムニウム社はBCSに安全面での問題があったことを謝罪し、三人の治療を支援することを約束した。
事件が解決した後、僕たちはそれぞれの生活に戻った。事件の裏側で、僕たちが仮想世界で戦っていたことを世間の人々が知る由はない。レーベンはそのことを嘆いていたようだが、少なくとも「ブルーアースのカスミ」については、正体が明らかにならない方がいいと思う。
「ちょっと、いつまで居眠りしてるつもり?」
ミントさんが声をかけてきた。
「ミントさん……僕、寝てましたか?」
僕は現実世界でミントさんの探偵事務所に呼び出されていた。事件の報告書をまとめる手伝いをさせられていたのだ。
「全く……サクヤのことになると目の色変えるくせに、私には気配りの一つもないんだね」
ミントさんは不機嫌そうな顔を見せた。現実世界の彼女はミラーアースのPCと見た目があまり変わらない。
「ごめんなさい、ミントさん。僕そろそろ仕事に行かないと……」
「仕事? 仮想世界の平和を守るのが君の本当の仕事だろ。君は『ブルーアースのカスミ』なんだから」
「いや、それはもう卒業したんです」
「嘘だね。本当はサクヤに怒られるのが怖いだけのくせに」
ミントさんが僕を責め立てる。どういうわけかは不明だが、彼女は亜弥子さんを目の敵にしている。二人はつい最近知り合ったばかりなのだが……
「分かってるなら、そっとしておいてくださいよ。僕は亜矢子さんには逆らえないんです」
「そうはいかないよ。ミラーアースの一件は氷山の一角に過ぎない。ブルーアースの技術が拡散してしまった以上、同様の……いや、それ以上の事件が起きても不思議ではないんだ。私たちが目を光らせる必要があるのは理解できるだろう?」
「それはそうかもしれませんが………」
実際のところ、メタバース内での事件は右肩上がりに増加していた。レーベンの話によると、メタバース管理局でも手が足りていないらしい。
「……なあ、いっそのこと私の助手になってくれないか?」
「えっ? 僕がミントさんの助手に?」
「そうだよ。ブルーアース事件の話を聞いた時から君に目を付けていたんだ。これからは仮想世界に潜む脅威と戦わなければいけなくなる。そのためには君のような人間の力が必要なんだよ」
ミントさんが僕の手を握ってくる……彼女の気持ちには応えたい。だけど――
「ミントさん、お気持ちは嬉しいんですが、僕には現実世界でやらなければいけないことがあるんです」
「サクヤを……亜弥子さんを守るため?」
「……はい」
「今回は私の負けみたいだね。でも私は諦めないよ。必ず君を振り向かせてみせるんだからね!」
ミントさんはそう言って僕に指鉄砲を向けた。彼女の言葉には何か深い意味があるような気もするけど、きっと気のせいだろう。
ミントさんの探偵事務所を出た僕は、本当の仕事へと向かう。仮想世界だけが僕の生きる場所じゃない。僕は現実を生きる一人の人間なんだ。
現実はいつだって厳しい。この世界で生きていくことは、ゴーレムやグリフォンを倒すよりも大変だ。
だけど僕は戦うことを――生きることを恐れない。僕には帰るべき場所がある。人生の素晴らしさを教えてくれた仲間がいる。だから、僕は今日を生きることができるんだ。
「VRMMOに閉じ込められた美少女(男)にありがちなこと」はこれにて完結となります。
ご読了いただきありがとうございました。




