第44話 約束
「僕」は亜弥子さんとの約束を破った。
現実から逃げないこと。
仮想世界には関わらないこと。
女の子の格好でゲームをプレイしないこと。
「カスミ」という存在がすべての約束を反故にした。
「カスミ」が現実世界にメッセージを送った1年後、ブルーアースのプレイヤーたちは、高村博士が開発した精神復元システムによって現実世界に帰還することができた。
ブルーアース事件の発生直後からHMDの解析を行っていた高村博士を筆頭に、現実世界の人々が、プレイヤーたちを助けるために必死に努力してくれた結果だった。
現実世界で意識を取り戻した僕は、政府や警察の関係者からクタクタになるまで話を聞かれた(おかげで他のプレイヤーたちよりもリハビリに時間がかかってしまい、プレイヤー同士のオフ会にも参加できなかった)。
カスミという金髪碧眼の美少女が仲間たちとブルーアースを冒険し、世界を支配する「管理者」をレーヴァテインで消滅させた……僕の口から話を聞くだけ聞いておいて、彼らは何も言わずに立ち去っていった。
病院を退院した後、僕は現実世界でサクヤさん――亜弥子さんを見つけた。
僕のエゴは亜弥子さんのそばにいたいと思わせた。現実世界でも彼女を守らなければならない――彼女の兄を消してしまったという事実だけが、僕に重くのしかかってきた。
亜弥子さんの兄が引き起こした事件が原因で、世間は大騒ぎになっていた。ブルーアースという一つの仮想世界の中に、2万人近いプレイヤーたちの精神が閉じ込められていた――ブルーアースの存在は世界の常識を覆してしまうものだった。
対岸の火事とでも言うべきなのだろうか。僕たちが事件のことを忘れようとする一方で、現実世界にはそれを許さない人々がいた。
ブルーアース事件の発生から3年経った西暦2038年、レグナント社の倒産によってメタバース事業のトップに躍り出たソムニウム社は、新作VRゲーム「ミラーアース」のサービスを開始した。
ゲームのタイトルからしてブルーアースを意識していることは明らかだった。重大な事件を引き起こしたゲームにもかかわらず、ブルーアースのプレイを熱望するゲーマーは少なくなかったのだ。開発スタッフにはレグナントの元社員も大勢含まれており、事実上ブルーアースの後継作として扱われていた。
僕は亜弥子さんと「約束」を交わしていた。その約束は、ブルーアースでのトラウマを克服し、現実世界に適応するためには必要な措置だった。
僕は約束を守り、ミラーアースにもソムニウム社にも関わろうとはしなかった――レーベンから「ミラーアースに来てほしい」というメールとHMDが届くその日までは。
ブルーアース事件の解決に協力してくれたレーベンは、現実世界に帰還した後、メタバース管理局情報課の調査員になっていた。
メタバース管理局は、メタバース内での犯罪やテロリズムへの対策を目的として設立された政府の組織である……といっても、設立当初は誰もメタバースで大規模な犯罪が起きるなんて信じていなかった。「税金の無駄遣い」とそこかしこから非難され、一時期は組織の廃止も検討されていた。
だが2035年……ブルーアース事件の発生を皮切りに、メタバースを取り巻く環境は大きく変わってしまった。メタバースの急速な発展とその技術を悪用するサイバー犯罪の急増――張子の虎でしかなかったメタバース管理局は、組織の大幅な改変を余儀なくされた。レーベンのような民間出身の人間をスカウトしたのは、メタバースに関するノウハウを補填することが目的なのだろう。
調査員としてスカウトされたレーベンは、ネットワークに乱立するメタバースを監視し、仮想世界に潜む悪意から人々を守るために活動を続けていた(職務の都合上、本名は明かせないため、現実世界に帰還した後もレーベンという名前を使用しているそうだ)。
レーベンがメールを送ってきた真意は不明だった。理由をつけて断ることもできたかもしれない。だがレーベンは「僕」宛ではなく、「カスミ」宛にメールを送ってきたのだ。
カスミの存在はブルーアースと共に消え去るはずだった。しかし、僕の中にはまだカスミが残っていた。
プレイヤーたちを蘇生させた精神復元システムは、サーバーに保存されていた精神データを現実世界の肉体に定着させるためのシステムだ。そのため、現在の僕の人格と記憶は、ブルーアースにログインする以前のものではない。「カスミ」の人格と記憶がそのまま移植されてしまった状態なのだ。
――結局、僕は亜弥子さんとの約束を破り、レーベンが送り付けてきたミラーアースのHMDを手にしてしまった。レーベンがメールを送ってきた真意を知りたかった……それだけが理由だろうか?
ミラーアースはブルーアースと同様、専用のHMDを使用する。HMDにはソムニウム社が開発したBCSが搭載されている。脳波コントロールによってキャラクターを操作する機能に加え、ゲーム側からプレイヤーの脳に情報を送る機能が付与されている。これによってプレイヤーは、自分がゲームの世界に入ったかのような感覚を味わうことができる。ゲーム中の体験を脳が現実で起きたことのように錯覚するのだ。
(まるでブルーアース事件の再現だな)
ブルーアースに使用されていた脳波コントロールシステム、もといMDSはプレイヤーの精神をゲームサーバーに閉じ込めるためのシステムだった。あのシステムによってプレイヤーたちは、ゲーム内でクッキーや死の痛みを味わう羽目になった。
ミラーアースのBCSには、MDSに近い技術が使われている可能性がある。もしかすると、レーベンはこのシステムそのものを恐れているのかもしれない。BCSが第二のブルーアース事件の引き金になる――彼ならばそう考えるはずだ。
僕は、相変わらず小汚いアパートの一室で、ミラーアース専用HMDを頭に装着した……インターフェイスはブルーアースのものに酷似している。表示されない体力ゲージ。移動や攻撃で消費されるスタミナ。キャラクター作成システムもブルーアースと同じ脳波スキャンによるものだ。
僕は何も考えずにキャラクターメイクに進んだ。自分の作りたいキャラクターをイメージすることが無駄だと知っているからだ。
BCSによる脳波スキャンが行われる。そしてスキャン終了後、生成されたのは金髪碧眼の美少女PC――ブルーアースにおける僕の姿、カスミそのものだった。
(やはりな……)
「私」が仮想世界に足を踏み入れることはもうないと思っていた。だが、私はミラーアースで再び「カスミ」になってしまった。大切な人との約束を反古にしてまで、私は何を求めているのだろうか……




