第24話 凍てついた心
ミゾレさんは、光が差し込むことのない奈落の底に身を潜めていた。
……自分が姿を消せば、仲間たちが探しにくることは予想できたはずだ。彼女には仲間と距離を置かなければいけない理由があったのだろうか。
「ミゾレさんですね……あなたを捜しにきました」
私が呼びかけても、彼女は膝を抱えたまま返事をしない。水色の頭巾を深く被り、凍りついたように硬直している。
「どうして……」
俯いたままのミゾレさんが小さく声を発した。
「どうして私を見つけたんですか! 私はみんなの前から消えてなくなりたかったのに……」
ミゾレさんは歪んだ表情で涙を流していた。
「私は役立たずなんです。みんなの足を引っ張ってばかりで……だから、この雪山を利用して姿を消そうと思ったんです」
「そんな……!」
ミゾレさんは遭難などしていなかった。自分の存在が仲間の負担になると考えた彼女は、雪山を利用して自らを抹消しようとしたのだ。
消えてしまいたい――その感情には覚えがあった。現実の私がいつも抱いていた感情だ。
……高校生の時は、まだ希望があった。あの頃は父さんも僕に期待をかけてくれていたし、友だちもたくさんいた。でも、今の僕は――
「ううっ……」
現実が私の心を潰そうとしてくる。「お前は何の価値もない人間なんだ」と思い知らせてくる。
……だが今は絶望している時ではない。ミゾレさんを奈落から連れ戻さなければならないのだ。
「ミゾレさん……あなたの自分を消そうと思う気持ちは分かります。ですが、コウイチさんたちは今もあなたを捜し続けているんです。誰もあなたに消えてほしいだなんて思ってはいません」
「……でも、私が戻ればまたみんなに迷惑をかけます。私はここで消えなければいけないんです」
……ミゾレさんの心は絶望に沈んでいる。今のままでは、仲間たちの元に戻ったとしても、同じことを繰り返してしまうだろう。彼女が生きる希望を取り戻さない限り、問題は解決しない。
「……コウイチさんたちは現実世界のあなたが死亡したと思っています」
「えっ……」
「大切な仲間が命を落としたかもしれない。自分も知らない間に死んでしまって、存在が消えてしまうかもしれない」
「……」
ミゾレさんが身を震わせた……自分の行動が引き起こした結果の重大さをようやく理解できたようだ。
「コウイチさんたちは、あなたの生存を願っているんです。だから、危険を顧みずに雪山の中であなたを捜し続けているんです」
「そんな……私なんかのために……」
ミゾレさんが大粒の涙を零した。
「あなたは戻らなければならない。あなた自身のためではなく、仲間たちが希望を取り戻すために――」
「う、うわぁぁぁん!」
ミゾレさんは号泣した。自分の存在が足枷になるのだとしても、彼女は仲間の元へと戻らなければならない。どんなに辛くとも、それが今の彼女に課せられた義務なのだ。
私はミゾレさんが泣き止むまで傍を離れなかった。ミゾレさんは寒さが原因でスタミナを使い果たし、一歩も動けなくなっていた。私は彼女にクッキーを食べさせてスタミナの回復を待っていた。
「カスミさんはどうして私を捜しにきたんですか?」
ミゾレさんが私に尋ねてきた。面識のない人間が捜索にきたことに違和感を感じているのかもしれない。
「あなたに生きていてほしかったからですよ」
「それっておかしいですよ。私たち会ったこともないのに」
ミゾレさんは私が嘘をついていると思っているらしい……確かに、私が彼女を捜しにきたのには、もう一つ理由があった。
「そうですよね……正直言うと、あなたが姿を消したと聞いた時から一つ気になることがあったんですよ」
「気になること?」
「ええ……もしかすると、あなたは自分で自分を消そうとしているのではないかと」
ミゾレさんの顔がこわばった。
「……そこまで分かっているなら、私を放っておけばよかったじゃないですか」
「それはできません」
「どうして……」
ミゾレさんはかすれるような声で私を問いただす……今の彼女に嘘をつくことは許されない。私は重い口を開いた。
「私も同じなんです。現実の自分が嫌いで、自分を消したいと思ったことが何度もあります」
「カスミさんが……」
「でも、今の私は現実に帰りたいと思っています」
「どうしてです? この世界にいれば、辛い現実に帰らずに済むんじゃないですか?」
ミゾレさんの言う通りだった。元はと言えば、私がブルーアースにログインしたのは、現実から逃げるために他ならない。
だが、それでも……いや、だからこそ私は現実に帰らなければならないのだ。
「そうですね。現実は辛くて苦しいことばかりです。父さんには愛想を尽かされるし、バイト先の上司からは怒られてばかりだし……」
「……」
ミゾレさんは俯いたまま話を聞いていた。手渡したクッキーは、ほとんど口にしていない。
「でも、そんな人生だからこそ、生きることに誇りを持てると僕は思うんです」
「生きることに誇りを持つ?」
ミゾレさんが顔を上げる。少しずつではあるが、彼女は生気を取り戻しつつあった。
「そうです……ミゾレさん、人生には辛いことがたくさんあると思います。でもそれを乗り越えることができれば、あなたも人としての誇りを持つことができるはずです」
「私は……だめなんです。そんな強い人間になれるわけがありません」
ミゾレさんが首を振るが、ここで諦めるわけにはいかない。
「強くなる必要なんてありません。大切なのは勇気を持つことです」
「勇気……」
「人は力がなくても、勇気を持つことはできます。生きるために必要なものは、力じゃなくて勇気なんです。どんなに辛いことがあっても、それだけは忘れないでください」
「……」
ミゾレさんは何も言わなかった。だが、手元のクッキーだけは残さずに食べきっていた。
ミゾレさんのスタミナが回復した後、私たちはロープを使って縦穴を脱出した。ミゾレさんは今になっても、仲間たちの元へ帰ることを躊躇しているようだった。
「ごめんなさい、カスミさん。私、このままだとコウイチ君たちに合わせる顔がありません……私は一人で修行の旅に出たと伝えてもらえないでしょうか」
「それは無理ですよ。そんな話をしても誰も信じてくれません。っていうかなんですか、修行の旅って」
「ううっ、他に言い訳が思いつかないんです……」
私はミゾレさんの手を引っ張り、洞窟の出口を目指していた。駄々をこねるミゾレさんは、さながらスーパーのお菓子売り場から離れない子供のようだ。
「修行はコウイチさんたちの所に帰ってからやるべきです。ミゾレさんが装備している弓矢は、後衛向けの武器なんですよ。前衛のプレイヤーとの連携が取れなければ、真価は発揮できません」
ミゾレさんは弓矢を装備している。弓の両端に滑車を備えたコンパウンドボウだ。弓矢といえど、高度な技術が用いられており、少ない力で弦を引くことが可能となっている。
「で、でも私、戦闘とか全然だめなんです。普通のゲームなら大丈夫なんですけど、ブルーアースはあまりにもリアルで……」
ミゾレさんがたじろいだ。私たちがいるブルーアースは、ゲームというよりも現実の世界そのものだった。空想の産物であるはずのモンスターが、実在するかのような錯覚すら覚えてしまう。現実と虚構の区別がつかなくなり、発狂するプレイヤーも少なくない。
「確かにブルーアースは精巧に造られています……しかし、ここは現実の世界ではありません。全ては幻なんです。どれだけリアルに造られているのだとしても本質は変わりません」
「本質……」
「本質を理解できていれば、恐れる必要なんてないんですよ」
私はミゾレさんをなんとか説得し、洞窟の出口へと進んでいった。洞窟の外に出ることさえできれば、発煙筒でサクヤさんたちに位置を知らせることができる。合流できれば、安全にスノウビレッジへと帰還することができるだろう。
だが、洞窟の出口から差し込む光が見えた矢先、出口側から大きな足音が近づいてきた。氷が軋みを上げるかのような足音だ。
「カスミさん、この足音は……」
足音を耳にしたミゾレさんが震えている。
「人間のものではありませんね……」
洞窟の出口から大きな人影が現れる……その正体は、ボスクラスモンスター「デモンフロスト」だった。




