第1話 偽りのヒロイン
――やってしまった。
現実の僕は間違いなく男だ。高校を卒業してから、アルバイトでアパートの家賃と食費を稼ぐためだけに生きている、つまらない男だ。
しかし、眼前の水面に映る自分の姿は男ではなく、金髪碧眼の美少女だった。
ここは現実の世界ではない。「ブルーアース」と呼ばれるVRゲームの世界だ。
西暦2035年、メタバース関連の事業で急成長を遂げたレグナント社は、自社開発の新作VRゲーム、ブルーアースのベータテストを開催した。
このゲームの最大の特徴は脳波コントロールシステムを採用していることだ。従来のVRゲームではHMDとは別に、現実の身体を動かして操作するモーションコントローラーを使用する必要があった。
しかし、ブルーアースではHMDと一体化された脳波コントロールシステムにより、頭で考えるだけでキャラクターを操作することが可能になったのだ。
画期的なシステムを採用した初のVRゲームということもあり、ブルーアースはサービス開始前から大きな注目を集めていた。
メタバース事業での覇権を狙うレグナント社は大々的な宣伝を行った。2万人規模のベータテストを開催し、ベータテストの参加者には脳波コントロールシステム搭載HMDを貸与するという力の入れようだった。ベータテストとはいえ、正式サービス開始時と遜色のないゲーム内容がプレイ可能と告知もされていた。
ベータテスト初日、僕は小汚いアパートの一室で、郵送されてきたブルーアース専用HMDを頭に装着した。HMDは専用のネットワーク回線を通じて、レグナント社のゲームサーバーに直接アクセスできるように設定されている。高速インターネット回線が用意されていない安物のアパートでも、オンラインプレイが可能なのだ。
ゲームをプレイするにあたって、最初に必要な作業はキャラクターメイクだ。通常のオンラインゲームでは、予め用意されたパーツを組み合せてキャラクターを作成する方式がほとんどだ。選べるパーツに限りがある為、他のプレイヤーと似たような見た目になってしまうことも少なくない。
一方、ブルーアースでは脳波コントロールシステムを用いた、独自のキャラクター作成システムを採用している。これは頭の中で自分が作成したいキャラクターをイメージすることで、AIが自動的にイメージに適合するキャラクターを生成してくれるというシステムだ。このシステムにより、誰でも自分の理想のキャラクターを作成できると喧伝されていた。
僕はベータテストが始まる前から、プレイするキャラクターのイメージを考えていた。長身でハンサムな、アクション映画に出てくる二枚目俳優のイメージだ。仮想世界の中で自分を美化するのは当然のことだろう。
しかし、AIが提示したキャラクターは、僕のイメージとは全く異なるものだった。生成されたのは、金髪碧眼の美少女キャラクターだったのだ。
最初はシステムのバグだと思った。僕はすぐにキャラクターを作り直したが、何度やり直しても生成されるのは同じ見た目のキャラクターだった。
僕は薄々気づいていた。これはバグじゃない。ブルーアースのAIは、僕の心を見透かしていたのだ。
僕は現実の自分が嫌いだった。高校を卒業した僕は、父親から逃げるように一人暮らしを始めた。家賃と食費をアルバイトで稼ぐだけの日々。自分がやりたいことも、何の為に生きているのかも分からなくなっていた。
自己嫌悪に陥ったもう一つの理由は、女性に対するコンプレックスだ。女っ気のない環境で育った僕は、女性に対する理解が浅かった。そのくせ、男の身体は成長するにつれて女を求めるのだから質が悪い。自分から女性に声をかけることもできなければ、振り向いてもらうこともない。それが現実だった。
ブルーアースのAIは、僕の自己嫌悪に対する回答を提示した。それこそが「カスミ」というキャラクターだったのだ。
ブロンドのセミショートに、透き通るような白い肌。海の色を想起させる青い瞳。身長は155cm前後で、スレンダーな体型……美少女キャラクターのテンプレートだ。
このキャラクターでゲームにログインすることは憚られた。現実の自分と性別が合致しないことだけが理由ではない。カスミは、僕のコンプレックスが生み出した存在に他ならないからだ。
それでも僕は、カスミとしてブルーアースにログインするしかなかった。キャラクターの再作成が無意味である以上、選択肢は残されていなかったのだ。
キャラクターの作成を完了し、ブルーアースへのログインシークエンスを開始する。視界が眩い光に包まれた次の瞬間、HMDを通してブルーアースの世界が映し出された。
そこはプレイヤーが最初に訪れる街、イーストシティだった。ブルーアースの舞台となる大陸には、大小様々な拠点が存在する。イーストシティは大陸の東端に存在する街だ。プレイヤーはここから冒険を開始することになる。
僕が真っ先に向かったのは、道具屋でもなければ冒険者ギルドでもない。シティ中央の橋を目指して走った。
橋の上に辿り着いた僕は、恐る恐る水面に向けて顔を出す。
(これが僕なのか……?)
水面に映っていたのは、うだつが上がらない男の顔ではない。現実には絶対存在しないであろう美少女の顔だった。
最初は自分が危ないことをしていると思った。現実逃避にしたってやりすぎだ。冷静に考えれば、ゲームにログインしないという手もあったはずだ。
だが僕は……いや、私はカスミとしてブルーアースにログインできたことに一種の開放感を感じていた。現実という枷を外されたような気分だった。
今の「私」は、現実の「僕」ではない。
父親の影に怯えることもなければ、人気の女性配信者に執着する必要もなくなったのだ。
「ふふっ、ふふふ」
思わず笑いが漏れた。変わったのは見た目だけではない。声までもが女性のそれに置き換わっていた。HMDのマイクが拾った声をブルーアースのシステムが女性の声に変換しているのだ。
正に生まれ変わったような気分だった。AIは確かに私が望むキャラクターを生み出していたのだ。
新しい姿を得た私は、一目散に街の外を目指した。生まれ変わった自分の力を試すために――




