もういいよ
呆れた時間の訪問者を、久は迷惑顔ながら招き入れた。
それはさとへの親しみ、優しさと言うよりも、風聞を憂えてのことだったろう。長屋の壁は大変薄い。深夜に入れる入れぬの押し問答などしようものなら、隣人が目を覚まして聞き耳を立てる。
「ああ、あたしだよ」
だというのに、座りもせずさとの用件を聞いた久は声を上げ、仰け反るように大笑をした。次いで飛び出たのは常とは異なる、ひどく伝法な口舌だ。
「嘘なもんか。本当さ。螻蛄になったあの中間に、あんたのおっとうが大枚を抱え込んでるって吹き込んでやったのは、間違いなくあたしだよ」
嘲笑う久の面は、差し入る月影にも明らかに紅潮していた。陶酔し、昂っていた。
「物取りくらい働くだろうと思っていたけど、まさか殺しまでしてのけるとは思いの外さ。でも、お陰で溜飲が下がったよ」
笑いの発作が治まった久は、それでも身を震わせ荒い呼吸を繰り返して艶めいている。
さとはそんな彼女を、後ろ手のまま見守った。すうっと手指の先が冷えていって、何だか、ひどく静かな心地だった。
「見られちまったのは間抜けだったけど、でもあたしはあんた以外にこのこと認めたりなんてしない。あたしとあんたの言葉、世間はどっちを信じるか。そんなのわかりきっているよねえ、おさと」
くすくすと囁いて、久は再び、なんともいやあな顔をした。
自分の行いに酔い痴れて、自分だけしか見ない、自分のことしか考えない。それは我利我利亡者の顔だとさとは思う。
「手代とやらが訴え出たって、ま、見間違いで終わるだろうさ。幸いあいつは斬られてくれたし、死人に口なしってものだよ。あたしが白を切れば、だあれもあたしの仕業を暴けない。残念だったねぇ」
「どうして」
こんなことを、とは続けられなかった。
その前にぐいと久の両手が伸びて、さとの両肩を掴むなり揺さぶったからだ。
「決まってるだろう。あんたら家族が鬱陶しくて鬱陶しくて仕方なかったからだよ。特にあんたのおっかあだ。『女の独り身は大変でしょう』なんて親切面で立ち入ってきて、苛立たしいったらありゃしなかったよ。なんであんたがあたしの面倒を見てるふうなのさ。なんであんたがあたしを下に見てるのさ!」
荒げて大きくなりかけた声を、久は辛うじて自制する。
ゆっくりと瞬きをすると、大人しくされるがままになっていたさとへ顔を寄せ、「おっかあだけじゃなく、あんたもだよ」と付け足した。
「あたしは失敗したってのに、こんなとこへ都落ちだってのに、あんたはまだある未来を見びらかしてくれてさ。ああ、しかも天涯孤独になって、ますますあんたの未来は輝かしいねぇ。誰もがあんたに同情するよ。あんたを下に見て、憐れみから優しくするよ。よかったねぇ、可哀想になれて。不幸になれてさあ」
噛みつくように吐き捨ててから、久は強くさとを突き放す。
髪をおどろに振り乱しつつ、醜悪な笑みをうっとりと浮かべた。
「大体いけ好かないんだよぅ。この長屋の連中全部さ。自分勝手な見当をあたしに押しつけやがって。あたしを下に見るな。哀れむな。自分の幸せを押しつけるな。あたしは神様仏様じゃあないんだ。あんたたちのお願いに応えてやる義理なんてないんだよ。ああもう死ねよ。死ね死ね死ね死ね皆死ね。皆不幸に死んじまえ。皆皆、あたしより下に落ちちまえ」
「いいよ」
確信していたなければ深く傷ついたであろう久の言葉に、けれどさとは笑みを返した。
「大丈夫。もう、いいよ。全部わかったから。全部、わかってるから」
滑り出たのは、ひどく優しい声だった。
だって大好きなお久姉さんが、こんなことを言うわけがない。わたしを裏切るわけがない。
そう。なら、つまり。
――隠れん坊は、いる。
さとはそれを確信している。
家を出る前に蘇った、親分の話。それは彼女にとって、とても幸福な天啓だった。快哉を叫びたいような閃きだった。
隠れん坊がいるなら、全部全部そいつの所為だ。お久姉さんは悪くない。わたしは嫌われてなんかない。
―― 一度あいつに憑かれたが最後、自分だけしか見ない、自分のことしか考えない、我利我利の亡者に成り果てちまうんだ。
だからこれは全部、腸の中の隠れん坊の仕業なんだ。そいつがお久姉さんに、こんな口を利かせてるんだ。こんな嫌な顔をさせているんだ。それなら。
――わたしが、助けてあげる。
さとの取った行動は一切の迷いがなく、また、久にとって予想だにしないものだった。
だから、だろう。
背なに隠し続けた包丁は、父の見よう見真似で研ぎ上げた刃先は、さとが思うよりもずっと容易く、久の下腹へと吸い込まれた。
「あ、な……?」
突然の激痛を受け、久の体が痙攣する。信じられぬものを眺める色で、その両目がさとを映した。
それを合図に、さとは出刃をぐるりと回す。
刺して、捻って。
どこか臓器を傷つけたのだろう。鮮血に塗れた柄はぬらりと力をかけづらかったけれど、そうすれば子供でも人を殺めうるのだと、さとは聞き及んでいた。
小娘に血なまぐさい話を聞かせたその目明しは、「何を吹き込んでやがる」と親分に叱り飛ばされていたけれど、聞いておいてよかった。
返り血を頭から浴び続けながら、さとは酔ったように笑む。
――侍が腹を切るのは、ひょっとすると退治のためかもしれねェな。
これでお久姉さんを助けられる。隠れん坊をやっつけられる。
かは、と血の泡を吐き、久がぐにゃりと頽れた。
まだ息のあるその体に寄り添うと、さとはもう一度研ぎ上げた刃で腹を刺した。びくんと久が震える。涙を溢れさせながら、命を乞ううようにさとの手に触れる。本当は握りたいのだろうけれど、もうその力がないのだ。
どうせ隠れん坊のさせることだと、さとは歯牙にもかけない。
そのまま白い肌を裂き、ぐちゅぐちゅと刃先で臓物をかき回す。そうやって隠れん坊を探し始めたところで、気がついた。
そういえば、自分は隠れん坊の形を知らない。ぶよぶよと蠢く黒い影のようなものを勝手に想像していたけれど、本当にそれで正しいのだろうか。もっとよく、親分に聞いておけばよかった。
月明かりだけでは手元が暗い。
一度作業を中断すると、さとは着物で手を拭ってから行灯に火を入れた。明かりを寄せて、捜索を再開する。
お久姉さんはもう何の反応もしなくなって、だからさとは嬉しくなった。隠れん坊をやっつけていることが姉さんに伝わったのだと、そう思ったからだ。
けれど。
いくら肉を掻き分けても、それは見つからなかった。何も、出てはこなかった。
そんなのはおかしい。
いるはずなのだ。いなければ困るのだ。
だってそうでなくちゃ、お久姉さんが悪事を働いたことになってしまうじゃないか。お久姉さんは本当に、わたしを嫌いだったことになってしまうじゃあないか。
見つからない。見つからない。見つからない。
出刃を放り、両手をまだ熱い臓腑に突き込む。急く心のまま、一体どれくらい腸をかき混ぜ続けたろうか。
やがて、背中の方で悲鳴が聞こえた。
ぼんやりと振り返るれば、朝の光が差し込んでいる。
――ああ。これで隠れん坊が、見つけやすくなった。
思って久に向き直ったところを、羽交い絞めにされた。隠れん坊探しを邪魔されまいと全霊で抗うが、所詮は小娘の力だ。たちまちに組み伏せられる。
なんだか、大変なことになってしまったみたいだ。
諦めて力を抜いて他人事のように目を閉じると、親分の涙声が、遠くから耳を打った気がした。