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もういいかい

 久は半年ほど前、長屋に越してきた女だ。

 垢抜けて(ろう)たけた大人の女である。纏う雰囲気そのものが婀娜(あだ)で洒脱で、たとえば久が羽織る時と長屋の女たちが羽織る時では、同じ着物でも見栄えが違う。

 彼女が居るだけで世界の色がぱっと変わるようだったから、久はたちまち長屋の人気者になった。


 さとや他の子供たちも、この綺麗な人に構われたくて頻繁に顔出しをしていた。久はそれを(うるさ)がる様子も見せずに相手するどころか、時には(わらべ)遊びに混ざりまでした。

 頭も回って気立ても良くて、話し上手の子供好き。もしかしたら大奥に侍る女の人たちより綺麗かもしれなくて、お久姉さんがある日いきなり上様のご正室になったとしても、さとは驚いたりしない。

 まさに掃き溜めの鶴と評するのが相応しい人だった。


「はてさてその鶴が、なんで長屋に落ちたものやら」などと口さがなく言うのもいたが、嫉妬からのやっかみ口だと、さとは確信していた。

 あっという間に太陽のように慕われてしまったから、それまで注目を集めていた噂好きのお重さんとか、三味線上手のおはるさんとかが妬いているのに違いない。


 ――ああはなれないだろうけれど、少しでもお久姉さんに近づきたい。


 彼女に憧憬し、その後をついて回って模倣するのは、決してさとばかりではなかった。

 けれどどうしてか久の方がさとをよく覚えていてくれて、姉さんだなんて親しいふうに呼べるのは、さとの密かな自慢だった。兄弟の一番上だったさとにとって、久に甘えるのはなんとも心地良いことだった。

 でも、お美代ちゃんは囁いたのだ。


『うちの手代がね、見たそうなのよ。あのことの前の晩、お久さんが誰かと富突きの話をしているところ』


 中間が斬られたのち、ひとり長屋へ戻ったさとの下を訪れて、美代はそう囁いた。それは久が渡り中間に、悪事を唆した場面に相違ないという示唆だった。

 彼女はさとの幼馴染で、大通りに店を構える商家の娘だ。


 渡り中間の凶刃をさとが免れたのは、その日たまたま、美代のところへ泊まりに行っていたからに他ならない。頻繁にこうした行き来――と言っても美代を長屋に招けはしないから、さとが行くばかりなのだけれど――をするほどに、仲の良い友人であった。

 美代はお久姉さんとはまた異なる種別の佳人である。華奢で儚げで、庇護欲を掻き立てずにおかぬほど線が細い。彼女がさとを訪ねて長屋に来ると、見物に顔を出す連中までもがいたくらいだ。

 家が家だけに金回りの違いもあるし、貧乏所帯の小娘が隣に立つのは気が引ける相手でもある。

 さとがそうした心中の不安を吐露したところ、美代は『馬鹿ね』と微笑むと、


『そんなこと、気にしないで。ずっと私の近くに居てね』


 言って、彼女は優しくさとの頭を撫でた。嬉しくなって涙が出て、さとは強く、幾度も頷いたものだった。

 その美代の言葉なのだから、到底聞き流せはしない。

 だけれど美代を信じるということは、お久姉さんを疑うことに繋がるのだ。戸惑うさとの頬へ、美代はそっと片手を当てて視線を絡めた。


『違うの。お久さんを疑えって言っているのじゃないのよ。全然別の話をしていたのかもしれないし、相手はあの中間じゃあなかったのかもしれない。そもそも夜目のことだもの。お久さんと思ったのが、見間違いということだってあるわ』


 その目に魅入られたまま、染み込むような美代の声をさとは聞く。


『だからね、さとちゃんに確かめて欲しいの。さとちゃんがお久さんに訊いて、確かに違うと信じられたなら、うちのには訴え出ないようにさせるわ。私にとって大事なのは、さとちゃんが納得できるかどうかなのだから』

『お美代ちゃん……』

『だけれど、気をつけてね。前から言っている通り、私はお久さんが好きじゃあないわ。あんな人が長屋住まいになったのには訳があると思うし、何より選んでさとちゃんを連れ歩くのが、なんだか嫌らしい感じがするもの。さとちゃんを自分の引き立て役にしようとしてるのじゃないかって、私、邪推をせずにいられないの』


 だから気をつけて、と美代はさとに念押しをした。


『甘い言葉に騙されずに、ちゃんとさとちゃんが見定めてね』  


 美代が帰ってから、さとは誰もいない部屋の隅へ行き、壁にもたれて膝を(かか)えた。


 お美代ちゃんは嘘をつかない。

 さとはそう信じている。見間違いかもしれない、なんて言葉を濁しはしたけれど、そんな曖昧な話を、何の証拠もない風聞を、美代がわざわざ持ってくるはずがない。

 真実だから、いずれさとの耳にも届くことだから、後から知って傷つかぬよう、先手を打って教えに来てくれたのに違いなかった。


 でも、そうすると。

 だけど、そうしたら。

 お久姉さん、富突きの話を死んだ中間に吹き込んだことになってしまう。お久姉さんが悪意を持って、さとに危害を加えようとしたことになってしまう。


 ――嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。そんなのは、嫌だ。


 これまでをやわらかな愛情に(くる)まれて生きてきたさとにとって、それは目を背けたい憶測だった。

 親兄弟を亡くし、更に姉と慕った人まで失うこの先など、幼い心が()れられるものではない。

 だからさとは、そのまま日が落ちるまで逡巡を続けた。


 大丈夫。

 お久姉さんの仕業なんかじゃない。よく似ているだけの人だ。お美代ちゃんのところの手代さんが、万に一つの見間違いをしたに決まってる。

 でなければ、そう、していたのは違う富突きの話だ。たまさかの偶然で、それと中間の犯行が重なってしまっただけだ。

 だからお久姉さんを信じて、正面切って問うてみればいい。きっと笑って言うはずだ。


 ――ごめんね。紛らわしいことをして不安にさせたね。でも安心おし。そんなこと、あたしがするはずないだろう?


 そうして、「怖かったね」と、さとを抱き締めてくれるに違いない。

 そうだ。そうに決まってる。お久姉さんなら言下に否定してくれる。何の憂いもいらないことだ。大丈夫。だから大丈夫。大丈夫、大丈夫。

 己の肩を抱きながら、繰り返し言い聞かせた。

 けれどそれが希望的観測であることは、誰よりも自分が知っている。悲観の波はすぐさまに揺り返し、さとの心から安定を奪った。


 自分の頭の中だけで思案を反芻(はんすう)し続けたって、本当にはたどり着けない。

 それはわかっている。しかし直接の対峙を選ぶ勇気は、久の本当を白地(あからさま)にする覚悟は、いつまで経っても(いだ)けなかった。

 そうして浅く早い怯えの呼吸を反復するうち、やがて不意に、一抹の天啓がさとを訪れる。

 あ、と声なく口を開き、それから目を輝かせて、さとはうっとりと微笑んだ。


 ふらり、糸に繰られるように立ち上がる。

 お久姉さんがどちらでもいいように。お久姉さんを助けられるように。

 しっかり支度を整えて――彼女が戸外へ踏み出したのは、野犬の声も絶えた夜更けのことだ。

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