ゴリラのみた夢
タシロはベンチに座っていた。ちょうど一年前にもタシロは公園のトイレの横のベンチに座っていた。
藤棚の下や噴水の近くのベンチには、親子連れや、老人が座るべきで、チンピラであるタシロはトイレの横に座るべきだと考えているため、タシロはトイレ横のベンチに進んで座る。
青白い顔色をした、目つきの悪い自分が、特等席である噴水横のベンチに座ってしまっては、公園の訪問者にも噴水にも申し訳ない。
一年前と異なる点は、一年前は抜けるような青空だった。セミの鳴き声と、雲ひとつないブルーが頭上に広がっていた。
今日の空はまだらなグレーだ。空を見上げた人間を落ち込ませる色。生暖かい風が、タシロの体をすり抜けていく。
「大気の状態が不安定となり、ところにより強い雨が降るでしょう」と、現役女子大生のお天気お姉さんは言っていた。
公園の地面にポツリと水滴が落ちる。地面に水玉を描くと、雨はあっという間にタシロの視界を曇らせ、ざああと音を立ててタシロの体を濡らした。
公園で遊んでいた親子や、老人は足早に公園を去って行ったが、タシロはベンチに腰掛けたままだった。ティシャツもスウェットのパンツも水分をたっぷり含んでいる。タシロは滝行のように黙って雨に打たれていた。
「タシロ」
名前を呼んだのはライであった。タシロが勤める、手段を問わない何でも屋の従業員であり、華奢で童顔。こぼれ落ちんばかりの大きな黒い瞳と、細いあごの美少年だ。
ライは傘をさし、タシロの前に立っていた。傘をタシロに差し出すわけでもなく、黒い瞳でタシロを真っ直ぐに見ると、ライは唇を動かし、短い言葉を紡いだ。タシロは口を歪めて肩を震わせた。
二人は長いこと、ざあざあ降りの雨が小雨になるまで、公園にいた。
◾︎タシロと新宿
時計の針は五日前に遡る。
タシロは、電車を乗り継いで新宿にいた。目的地は新宿駅西口すぐのドラッグストアである。
タシロの青白い肌は、タシロの人相の悪さに拍車をかけているだけではなく、敏感肌という厄介なものだった。敏感肌用のアフターシェーブローションでないとタシロの肌はあっという間に赤くなりヒリつくのである。どこにでも売っているローションではないため、タシロは定期的に大型ドラッグストアで、お気に入りのアフターシェーブローションをまとめ買いしている。
「3302円になります」そっけない店員と会計のやりとりをすませ、2円を支払って手に入れたビニール袋を下げながら、タシロはぷらぷらと新宿の街を散歩した。相変わらず人が多く、空気は淀んでいる。どこかのラーメン屋からの豚骨スープの匂いや、焼肉の匂い、甘いパンケーキの匂いなど、ごちゃ混ぜの匂いがする。
「タシロ?」
ふいに、タシロは名前を呼ばれた。振り返ると、そこには、日に焼けたゴリラという形容がぴったりな男が立っていた。顔が大きく、頬骨が出っ張っている。大きな鼻の穴。鼻の下が長い。小さな目。お世辞にもイケメンとは言えない。何度も洗濯をしたであろう、白ばんだ黒いポロシャツと色あせたジーンズを履いている。
「先輩‥‥!」タシロは驚いた。タシロの名前を呼んだ男は、五年ほど前に足場解体のアルバイトで世話になった先輩だった。名前はスダという。タシロは思いがけない出会いに、口角を上げた。「お久しぶりっす‥‥!」
「おお、元気そうだな」とスダは言う。
「こんな所で何してるんすか、最近なにしてんすか」とタシロは聞く。喫茶店でコーヒーでも飲んでいたのだろうか。ちょうどスダの背後には有名なコーヒーショップがあった。スダの家は確か新川崎駅付近だ。自宅から遠い気がするが、なぜここに?とタシロは思った。
「はは、まぁ、ちょっとな。お前は変わってねぇなぁ。元気そうで何よりだがな。そうだ、お前連絡先変わってないよな。今日は都合が悪いがよ、今度飯でもいこう、な?」
「はい、もちろんっす。連絡待ってます!」
思いがけない出会いにタシロは喜んだ。最近は疎遠になっていたものの、数少ない友人と呼べる先輩との再会であった。タシロは上機嫌で帰路についた。
◾︎◾︎◾︎
住処は五階建ての雑居ビルである。一階は倉庫、二階はライの部屋と、このビルのオーナーであるニジョウの部屋。三階はレンとトモヤの部屋。四階は、キッチンとダイニング。五階がオカダとタシロの部屋だ。
四階ダイニングでの夕食後、タシロは五階の自室でノートパソコンを広げていた。
依頼は銀色のノートパソコンに、メールで届く。どの案件を選択するかはオーナー代行であるタシロが決める。なるべく良心がいたまない、地味な案件を選ぶことがタシロの心掛けだが、地味な案件が続くと、従業員のモチベーションが低下するため、塩梅が難しいとタシロは考えている。
今度の依頼は、サエグサという名前の若手実業家の処分にした。名前を検索すると、簡単にヒットした。サエグサはプリディクトという名前の投資会社を経営しているらしい。合同会社への出資を募り、資金を集め運用。利益を出資者に返すというものだ。投資界隈では、カリスマ的な人気を集めており、サエグサの功績をほめたたえ、仲間になろうと呼びかけるウェブサイトが多数あった。もちろん、投資は自己責任でという注意書き付きで。
サエグサの処分と、個人パソコンの回収が依頼内容であった。パソコンの中に何があるのか、サエグサがなぜ対象なのかタシロはしらない。
余計な事は言わないこと、聞かないこと、コンビニ弁当をかきこみながらゴリラことスダが教えてくれた、男社会で生き残るコツだと言っていた。ありきたりな言葉であったが、この言葉を心がけていると、先輩に可愛がられ、信頼されることが増え、タシロは大きなトラブルに巻き込まれることなく、チンピラ界隈で生きながらえていた。
スダは真面目に仕事をし、たまに賭け事をし、たまに酒を呑んで、たまにお姉ちゃんのいる店に行くどこにでもいる普通の中年男だった。面倒見がよく、タシロに仕事を教え、よく声をかけた。タシロは、パチンコや麻雀、競馬やボート、そして、きれいなお姉ちゃんとの遊び方をスダから学んだ。
今度の案件はサエグサという男の殺害とパソコンの回収である旨を従業員である、ライ、レン、トモヤに説明した。
「うーん、家に忍び込んで、殺害とパソコン回収を一気にやるのは大変かなぁ。パソコンのサイズ感、わからないもんねぇ」と、トモヤが水菜と生ハムのサラダを食べながら言った。金髪で、涙袋が特徴、笑うと目がアーチ型になる青年だ。毒物への知識がある。
「今度、サエグサも参加する実業家間のパーティーがあるそうです。そこへ紛れてしまえばいいでしょう」と、トモヤに粉チーズを渡しながら言ったのがオカダだ。オカダはこの事務所の調査係兼食事係だ。
塩顔の好青年で、商店街に買い物に行くたびにたくさんのおまけをもらって帰ってくる。この間は、たこ焼きを一パック買ったら、もう一パックついてきて、おまけの定義について考えさせられることとなった。
「パーティーに紛れて、サエグサを殺害。家の鍵を回収してパソコン回収に行く‥‥かなぁ」と、ライが、抹茶あんみつを食べながらいう。「求肥と黒蜜を、もうちょっと足してくれる?」とオカダに声をかけた。
ライは、爆発物への知識がある。
「暴れがいのない仕事かよぉ。じゃあ、トモヤと俺でパーティー参加で、後でライとタシロに合流して鍵わたすわぁ」と言ったのがレンだ。レンは大きな二重の目と、ピアス、柄シャツと顔立ちも服装も派手だ。戦闘担当で、素手での格闘を好むが、返り血で服をよく汚すので、オカダは困っているようだ。
食事が終わり、各々が部屋に戻ると、タシロも自室へ戻った。ベッドの上に置いていたスマートフォンが通知を告げている。スダからラインが来ていた。
「今日はすごい偶然だったな。来週の土曜、久々の徹マンどうよ?残りのメンツは俺の友達」とメッセージが届いていた。徹マンとは、徹夜で麻雀だ。仕事終わりの夕方に集合し、始発まで遊ぶ。場合によっては始発で終わらないこともあるが、歳も歳だ。タシロはまだ若いが、スダは確か四十手前だ。体がもたないだろう。
予定はちょうど三日後だ。タシロにデートの予定などはない。「了解っす!」とタシロはラインに返信した。
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「おお〜立派なタワマン だなぁ」とレンは頭上を見上げて言った。レンとトモヤは勝どきにいた。
見上げた先には五十二階建てのツインタワーがそびえている。勝どきのタワマン群の中では、比較的細長い形をしているが、シルバーグレーの建物の洗練されたたたずまいが、他のタワーマンションとは一線を画す高級感を放っていた。エスカレーターを登り、エントランスのインターフォンを鳴らす。間接照明が、キラキラと輝き、エントランスの磨かれた床に反射して、さらに輝きを増している。このタワーマンションの最上階にあるパーティールームが本日の会場だ。
最上階からの眺めは見事であった。建物の明かりが足元から迫ってくるように輝いている。階下では朝潮運河にも夜景がゆらゆらと反射し幻想的だ。パーティールームのゴージャスなインテリアも相まって、宝石に囲まれているようだとトモヤは思った。
参加者は、男の方が多いようだった。医師、弁護士、自営業など、職業と共に自己紹介をするのが、挨拶のフォーマットらしい。女性陣は、エステサロン経営や、ピラティス講師、ライフスタイルアドバイザーなど、カタカナの肩書を持つ者が多かった。
「はじめまして、僕たちは最近二人でリサーチ会社を立ち上げたんです。市場調査や、ユーザーインタビューのご相談がありましたら」と、トモヤとレンはオカダが作ってくれた名刺を配った。
「華やかな会ですね」と、トモヤがよそ行きの表情と、声でいう。話した先は、アパレル経営をしているという男だった。男は細い革のパンツに、蛇柄のシャツ、銀色のネックレスとリングをつけている。
トモヤは、タシロが気に入っている蛇柄のスカジャンを一体どこで買ったのだろうと常々思っているが、この男の着ているものも、トモヤの知る範囲では見かけたものがないものだった。世の中にはまだまだ自分が知らない世界があるようだ、とトモヤは思った。
「ここにいる人は勝ち組ってやつだね。お二人もお若く見えるが、なかなか稼いでそうだ」と男は言った。
「いえいえ、とんでもない‥‥」
ふと、トモヤが横を見ると、女性陣がレンに群がっている。普段は柄シャツを着てヤンキー丸出しだが、スーツを着ると、スタイルの良さと、二重の甘い顔立ちが引き立って人目を引く。
「お仕事はなんですかぁ?」「わぁ、すごい」「素敵ですね」と、女性陣が口々に言う。レンも満更ではなさそうだ。時々女性にボディタッチをしているが、女性陣は嫌そうな顔をすることなく、レンと談笑していた。
ふと、女性陣の視線がレンから離れて、パーティールームの入り口に注がれた。「遅れてすみません」と現れたのは、一目で上等な仕立てとわかる、上品な光沢のある黒のスーツを着た男であった。サエグサだ。隣にはグレーのスーツを着た女性がいたが、秘書だろう。二人の雰囲気は、恋人同士という様子ではなかった。
レンを囲んでいた女性陣がサエグサの方へ引き寄せられるように向かっていく。男たちも、サエグサと名刺交換をしようとソワソワしだした。
「ふぅん、あれが、投資会社CEOのサエグサさんですか。まぁ、儲かってるのは間違いないんだろうな」とトモヤは観察した。ギラギラした成金趣味ではなく、洗練されたセンスの持ち主のようだ。ロゴが主張するようなわかりやすいブランドは身につけていないが、上等と認めざるを得ないものを身につけていた。
とりあえず、サエグサの飲み物に一服盛らねばならない。トモヤもサエグサに近づくタイミングを伺っていた。
アパレル経営者の男が、「では、改めまして、我々の輝ける未来に乾杯しましょう!」とグラスを掲げた。男がパーティーの主催者であったらしい。
サエグサを取り囲んでいた人間が落ち着くと、トモヤとレンは、グラスを持ってサエグサに挨拶をした。
「サエグサさんですよね、お会いできるなんて、信じられない」と、トモヤは目を輝かせた。
「俺たち、会社を立ち上げたばかりなんですが、ありがたいことに順調にやらせてもらっていて‥‥法人として投資できる先を探しているんです」など、オカダが用意してくれたセリフをレンは喋った。
トモヤがグラスを差し出す。とっておきの薬物入りだ。サエグサが、受け取ったグラスをくいっと飲むのを確認した。
「投資ということでしたら、ぜひ我が社に。今度、オフィスで会いましょう。連絡先はこちらに。あちらの秘書がお打ち合わせの手配を致しますので。‥‥おっと失礼」と、サエグサはトモヤに名刺を渡すと、しばらくの歓談ののち、トイレに向かった。
サエグサが指差した先にはグレーのスーツを着た秘書が、部屋の端でスマートフォンを操作しながらメモを取っていた。
サエグサに飲んでもらったのは、利尿作用と、心臓発作を起こしてくれるとっておきのお薬である。サエグサがトイレに行ったのを見計らいレンもトイレへ向かう。サエグサが個室に入る直前に、ドアの隙間に手を差し込み、レンはサエグサと同じ個室に入る。
海外のトイレであれば、足元の空間が外から丸見えなので、4本の足がバレてしまい、違和感もあったことだろう。だが、ここは日本で、ドアは地面すれすれまで存在している。二人で個室に入ってもバレることはない。
サエグサが意識を失ったことを確認すると、レンはポケットから財布を抜き取り、カードキーだけを奪った。サエグサはトイレに置いておき、トモヤにアイコンタクトをする。レンとトモヤは主催者に礼を言って、パーティールームを後にした。
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レンとトモヤが華やかな場にいるころ、タシロとライは水漏れ一一〇番と書かれたバンの中にいた。場所は、港区白金台付近だ。
ライは缶に入ったアイスココアを飲んでいる。
「ライさーん。あの人、若いのに随分いいみなりしてますねぇ」と、タシロがハンドルに体を預けながら言う。タシロの前には、信号を待っている若い男性がいる。年齢は二十代前半だろうか。タシロも知っている有名ブランドのバッグを持っている。
「さすが、港区ってことっすかねぇ」
「どうだろ、最近はブランドバッグのレンタルが流行ってるって、ネットニュースで見たよ。広告もよく見る。あぁそうだ、金持ちアピールするでしょ、で、成功の秘訣を教えますとか言ってマルチに勧誘したりするらしいよ」
と、大して興味がなさそうにライが言った。
「それに、レンもトモヤもブランド品は持たないけど、オカダに至ってはエプロン姿の方がすぐ思い出しちゃうけど。でも、僕はレン達の方がかっこいいって思うなあ」
「なるほど、ライさんの言う通りすね。まぁ、ライさんほど、綺麗な顔してたら、持ち物や服装なんてなんでもっすね」と、タシロが笑った。
信号を待っていた青年は、既にいなくなっていた。
五分ほどすると、タクシーから降りてきたトモヤとレンが合流した。おそらく今頃はサエグサの異常に気付いた主催者が、サエグサの秘書に連絡でもしているだろう。さっさとサエグサの部屋からパソコンを回収してしまおう。サエグサの部屋は、天井が高く、黒い革張りのソファにモダンな照明。フカフカのラグ。モデルルームなようなインテリアで、絵に描いたような成功者の部屋だった。発見したのはノートパソコンと、デスクトップが一台ずつだ。念のため、少しでも時間稼ぎにとオカダが用意した空っぽのノートパソコンと、デスクトップと差し替えて、サエグサの部屋を後にした。
これにて仕事は完了である。
オカダは、パソコンを受け取ると、手早く梱包材に包んだ。「明日、業者が取りに来ますから。置いておいてください」と言った。
◾︎タシロと麻雀
さて、今日はスダと徹マンの約束日である。
タシロはオカダに、食事がいらない旨を伝えて、山手線に乗っていた。向かうは高田馬場である。美味いカレーを出す馴染みの雀荘がある。駅からすぐの雑居ビルの二階のドアを開け、カウンターで受付を済ませる。スダはまだきていないらしい。見渡すと、十ほどある卓のうち、四席埋まっていないのは、一つだけである。一人で卓に腰掛け、雑誌を読んでいる男にスダの連れかと尋ねると、そうだと、返事があった。タシロは男の隣に座る。
五分ほどして、さらにもう一人のスダの連れが卓についた。
「スダさん、遅いっすね‥‥」とタシロが呟く。約束の時間を十五分過ぎている。
「本当だな、なんだあいつ」とスダの連れが不機嫌そうに言う。その後、スダの連れがスダのスマートフォンを鳴らすも応答しないとのことだった。
「仕方ねぇ」と、別の連れが店主に声をかけ、スダの代わりに店主が卓に着いた。その後、フリーでやってきた客が店主の代わりに卓につき、朝まで麻雀は続けられたが、スダが現れることはなかった。
タシロは牌をいじりながら、スダを心配していた。麻雀は四人で遊ぶものだ。一人が欠けるということは大変罪深い。麻雀に行くと返事をしたら必ず出席しろ、這ってでも出席しろ、でなけりゃ絶交だとタシロに教えたのはスダ本人だ。
そのスダが現れないということは、何か事故にでもあったのではないかと心配していた。
結局タシロは集中できず、散々な結果で朝を迎えることになった。
店内で金銭のやり取りをすることはマナー違反なので、店外でタシロは二万円をスダの連れに払った。スダには会えず、知らない男に金を払うことになり、散々だとタシロは思った。眠気でぼんやりした頭を抱え、始発の山手線に乗ることにした。明け方の高田馬場駅前には地べたで寝ている者がおり、嘔吐物がぶちまけられていた。カラスの鳴き声が遠くで聞こえた。
そっと住処の鍵を開け、自室のベッドに潜り込むと、スマートフォンを確認した。スダへ送ったラインのメッセージには既読がついていない。
起きたらスダの家へ念のため行ってみよう。仮にスダがいたら、うんと文句を言ってやろう。ラーメンくらいは奢ってもらいたい。何をスダに奢らせるかと考えながら、タシロはシャワーを浴びることもなく、ぐっすりと眠った。
仮眠程度のつもりであったが、タシロは夕方近くに目を覚ました。自分の体臭がひどいことを自覚し、とりあえずシャワーを浴びると、四階ダイニングに向かった。
「トモヤさん、頼みがあるんすよ」と、タシロは夕飯時に切り出し、一緒にスダの家に行ってくれないかと頼んだ。「なんで、僕が?」と、ブロッコリーを食べながら訝しがるトモヤに、万が一の場合にはピッキングを頼みたいとタシロは説明した。
「麻雀の約束をブチるなんて、なんかあったと思うんすよ。最悪、家ん中で死んでんじゃねえかなって思うんすよ」とタシロ。
「大げさすぎない?」と、ライは呆れた目でタシロを見ながら、オレンジ色に光るマンゴープリンを一口食べた。
「いやいや、麻雀の約束を破るのは犯罪に等しい行為なんすよぉ‥‥」とタシロは呟いた。
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翌朝、いつもどおり四階ダイニングで朝食をいただいていると、オカダが、困った顔をして言った。
「実はですね、先日皆さんに回収していただいたサエグサ氏のパソコンに、依頼者が期待する情報がなかったらしいのです」
「えぇ、でも他にパソコンはなかったよ。外付けのハードディスクもなかったと思うんだけど」とライがチョコバナナをかじりながら言う。
「そうですか‥‥念のため、サエグサ氏の部屋に、他に記録媒体がないかのご確認と、回収をお願いできますか?それでもなかった場合には、そのように先方にお伝えしますので」
「タシロと、トモヤは、スダって人の家に行くんでしょ。僕とレンで、サエグサの家に行くよ」とライが言った。
「いいけどよ、俺は今夜は予定があるからな。この間パーティーで知り合った女性がよ、電話をかけてきて、食事でもどうかって言うんだよ。断ったんだけどよぉ、どうしてもって‥‥モテちゃってつらいわぁ〜。あ、だからよ、飯はいらねぇからな、オカダァ」とレンが、ホットドッグにかぶりつきながら言った。
オカダは、笑顔を浮かべて「了解しました」と返事をした。そして、キッチン脇に置かれた段ボールに一瞬目をやった後、マスタードを追加するなら、とレンにマスタードのボトルを手渡した。
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レンとライは、サエグサの自宅マンションに着くと、さも自分も住人ですよという顔をして、堂々とエントランスをくぐった。サエグサの部屋に入り、中を確認すると、どうやら部屋の中はそのままとなっているらしい。そのうち身内か、会社の人間が整理に来るだろうが、まだその気配は無さそうだ。
サエグサの寝室や書斎を確認する。投資に関する本や高そうな時計が並んでいる。
「ん?」とライは思った。どうやらデスクの一番上の引き出しには鍵がかかっているらしい。ガチャガチャと引いて見るが開かない。
トモヤがいないので、ピッキングで開けてというのは無理だ。「レン〜これ開けて〜」と、ライが声をかける。
レンは、「ヨッと」と言うと、右手の力だけで引き出しをこじ開けた。ガコという鈍い音と共に引き出しが開く。「さすがのパワーだね」とライがレンを褒めようとしたが、引き出しの中を見て、ライは言葉を引っ込めた。なかなか見ることのない光景が引き出しの中に広がっている。
「なにこれ」と、ライ。
「おい、これ‥‥全部持って帰るのか?」とレンは呟いた。
その頃、タシロとトモヤはスダのアパート前にいた。
アパートは二階建て。玄関先に洗濯機やらビニール傘やらゴミ箱やらが、どの部屋にも雑多に置いてある。
スダがまだ引っ越していないなら、ここに住んでいるはずだ。103の部屋をコンコンとノックする。
「先輩。タシロです。様子見にきました」
ガチャリと、ドアが開き、中から出てきたのは、スダではなく、女性だった。
「‥‥どちら様でしょう?」と女性は言う。年齢は三十を越えたところだろうか。化粧気はなく、地味な印象だ。「すいません‥‥ここはスダさんのお宅ではなかったでしょうか‥?自分はスダさんの後輩なんすけど」とタシロが尋ねる。
「タッちゃんの後輩‥‥?あ、あの、実は一昨日から、タッちゃん帰ってきてなくて‥‥どうしよう、私もこの後パートがあるんですけど、少しだけなら‥‥上がってください」と、女性はタシロらを室内に促した。
以前タシロがこの部屋に来た際は、ちゃぶ台と床に置かれたテレビ、敷布団程度しかなかった部屋だが、今回は小さいがダイニングテーブルがあり、テレビはテレビ台の上に置かれていた。
パステルイエローのカーテンのためだろうか、部屋の雰囲気はあたたかく、穏やかな暮らしが感じ取れた。
「先輩、帰ってきてないんすか‥‥ていうか、先輩結婚してたんすね‥俺、知らなかったす」と、タシロは言った。
「違うんです。まだ、一緒に暮らしているだけで‥‥スダさんには本当にお世話になっています。一昨日から仕事に行ったきりで‥‥その夜は久々に会った後輩と遊ぶから夕飯はいらないって言って、でも、帰ってこなくて‥‥」
後輩とは、自分のことだろうとタシロは思った。
「スダさんってどんなお仕事されているか聞いてもいいでしょうか?」と、トモヤが尋ねる。
「工事現場で働いていますが‥‥」確かに室内には作業着がかかっている。
「俺の方でもあたってみますんで、もし先輩から連絡があったら教えてください」と、女性と連絡先を交換し、タシロはアパートを後にした。
「なんか、先輩ヤベェことに巻き込まれたんスかね‥‥オカダさんに相談してもいいすかねぇ‥」と、タシロはハンドルをきりながら言った。
「そうだねぇ、ねぇ、先輩ってさ、お金にルーズな人?」とトモヤが尋ねる。
「え?いや、そんなことないと思いますよ。根は真面目な人なんで。ギャンブルとかもやりますけど、趣味程度って感じすかね。身の丈に合わない金の使い方はしない人っすよ」
「そうなんだ。玄関の靴箱の上に、消費者金融の封筒が何通か置かれてたよ。督促ってハンコもついてた」
「マジっすか‥‥」
何かお金が必要なことがあったのだろうか?
「ついでに言うと、女性には連れ子がいるね。たぶん小学二年生。朝顔の鉢植えが玄関にあったし、学校からのプリントが冷蔵庫に貼ってあった」
タシロは気づかなかった。タシロがスダと疎遠になってから出会った親子なのだろう。久々に会ったスダは以前と変わらない様子であったが、五年という月日は確かに流れていたのだと、タシロは、時計の針が動き続けていることを実感した。
「うう〜ん」
住処では、サエグサのマンションから回収したものを前にオカダとライは頭を抱えていた。
目の前にあるのは大量のUSBメモリだ。小さな山を作っている。
サエグサの書斎の引き出しをレンがこじ開けると、そこには、大量のUSBメモリがしまわれていたのであった。少なく見積もっても五十本はあるだろう。
「とりあえず‥‥一本ずつ確認しましょうか」とオカダ。
「僕、なんとなく、中身わかる気がするよ。それに、オカダが探しているものじゃない気もする」と、ライ。
「それでも、やりましょう。仕事ですから‥‥」
二人はため息をついて、USBメモリをつかんだ。じゃらりと、音がし、山が崩れた。
◾︎レンと渋谷
オカダとライがパソコンと睨めっこしているのを、横目にレンはいそいそと出かけていた。パソコン作業はレンは得意ではない。
向かう先は代官山だ。渋谷から東急東横線で一駅だ。タクシーより電車の方が確実で早い。
いつも通りの柄シャツで出かけようとしたところ、オカダはパソコンを操作する手を止めて、レンに声をかけた。「あの、一応、実業家という設定なので‥‥」と言い、柄シャツを白シャツと交換させ、ジーパンはツイル地の光沢がかった黒いパンツに、スニーカーは革の靴に履き替えさせられた。レンは設定などすっかり忘れていた。オカダも忙しいのに、マメなやつだな、とレンは思った。
渋谷駅は、相変わらず人でごった返している。ザワザワという音がする。誰もザワザワと発話していないはずなのに、ザワザワと聞こえるから不思議だ。
渋谷は、駅の増改築に伴い、行くたびにダンジョンの難易度が上がっている気がする。レンは足早に乗り換え場所を目指した。横目で、新店オープンを祝うスタンドフラワーが、目に入った。渋谷駅の再開発に伴い駅構内に新たなショッピングエリアが開設されたらしい。新しいレストランやショップに集まるミーハーな人間をかき分けて、レンは先を急いだ。
代官山駅から十分ほど歩くと、目的地のサロンはあった。「お待ちしていました」と、オーナーである女性が出迎えた。花柄のワンピースを纏っている。ノースリーブのため、華奢な肩が出ている。華やかな香水の匂いがレンを包んだ。
女性は、サロンを案内しますねと声をかけた。
アール・デコ調の受付にはこだわったとか、個室は三室あり常に予約で埋まっているとか、雑誌の取材を受けたとか、女性は説明している。「メシ、くわねぇのかな?」とレンは思いながら女性の後をついていく。
「ここは、VIP用なんです」と、女性は一番奥の部屋に案内した。広いエステ用ベッドど、見たことがないような四角い機器が数台ならんでいる。シャワールームも併設しているようだ。
「へぇ」とレンが感心していると、ドンッと背中を押された。油断していたレンは思わずベッドに手をつく。レンが立ち上がるより早く、女性はレンの上に覆い被さった。ワンピースからは太ももが見えている。
「レンさん‥‥」とピンクベージュの口紅が光る唇が耳元に寄せられ、甘い声で囁かれてレンは目眩がした。なけなしの理性がガラリと音を立てて崩れる。今までにも、積極的な女性には、出会ったことがある。だが、ここまで性急なのは初めてだ。レンは戸惑ったが、ラッキーと思うことにして、流れに身を任せることにした。オカダに夜食をお願いしておくべきだったかもしれない、と思いながら、女性のワンピースのファスナーに手をかけた。
◾︎◾︎◾︎
翌朝、タシロは歯ブラシを持ったまま、テレビの前から動けなくなっていた。
テレビは天気予報を告げ、芸能人の結婚を伝えた後、新宿駅付近の映像とともに、ニュースを伝えていた。
「今朝早く、新宿三丁目付近の路上で男性が倒れているのが発見されました。都内に住むスダタクヤさん、三十八歳。付近の住民が清掃を行っていたところ、スダさんが路上に血を流して横たわっているのを発見したということです。争った痕跡が見られ、事件か事故の可能性があり、警察が捜査を進めています」
「スダ‥タクヤ‥‥」
「俺、下の名前、タクヤって言うんだよ」と、五年前、スダは笑っていた。まだ、出会って間もない頃だ。「キムタクのタクヤだぜ。顔は全然違うのにな。いっそ、スダゴリラって名前がよかったよ。まぁ、自虐ネタで最近は自分からふってるけどな。スダゴリラ、ぴったりだろう?それなら、名前でいじられることも、惨めな思いをすることもなかったのにな、ははは」
いつだったかスダがこんな話をしていた。仕事終わりにコンビニでチューハイを買って、スダのアパートの前で飲みながらした会話だった。部屋で飲めばいいのに、風が心地よく、わざわざアパートの前の地べたに座って飲んだ。
「タシロさん」
名前を読んだのはオカダだった。タシロはオカダがドアを開けた音を聞かなかった気がした。いつの間に入ってきたのだろう。トモヤとライもいる。オカダは、おにぎりと、スムージー、ゼリーが乗ったお盆を持っていた。
テレビの前のガラスのローテーブルにお盆を置くと、おにぎりが乗った皿をタシロに差し出す。
「タシロさん、私たちは昨日、ライさん達が持って帰ってきてくれたUSBメモリを一つずつ確認しました。トモヤさんも手伝ってくれました。たくさんのメモリスティックの中の一つには、リストファイルがありました。リストには百名以上の名前が連なっていました。その中に、スダさんのお名前もありました」
小さな丸いシールが貼られたメモリスティックを、オカダはガラステーブルに置いた。カタンと音を立てる。
「ねぇ、タシロ。たぶん、このリストは、USBメモリを買った人のリストだと思う。そんな詐欺があるって、ニュースで聞いたことない?」と、トモヤが質問した。
タシロが、顔をしかめると、トモヤはメモリスティックを掴んで、続けた。
「すごく、簡単に言うと、このメモリスティックには、FXに勝つための必勝法が入っている、とか、投資商品の値動きを予想してくれるソフトがあるとか言って、バカ高い値段でメモリスティックを売りつけるんだよ。その購入者の一人が、タシロの先輩、スダさんだったんだ。リストに名前があった。金額は六十万円。先輩の家にあった、あの消費者金融の封筒‥‥関係あるんじゃないかなって僕は思っている」
「ちなみに、リストが入っていたやつ以外のメモリスティックには、ちゃちい為替予測ソフトが入ってたよ。あと、カリスマトレーダーのありがたい言葉集みたいなのも‥‥まぁ、簡単にいうとゴミ。六十万円のゴミだね」と、ライがゼリーを口に含みながら言った。
六十万円のゴミを買った?先輩が?タシロは信じられなかった。
「ただ、スダさん殺害の原因はまだわかりません。そしてもう一つ、我々にサエグサ殺害を依頼した人物が探しているのは、このリストではありません。つまり、我々はまだ目的のものを見つけられていない」と、オカダ。
「僕はこんなUSBを買う方もバカだと思うけどね。頭が悪いからこんなのに引っかかるんだよ」とライが言った。
「ちょっと、ライ‥‥」と、トモヤがライを牽制する。
「ははっ、ほんとすよね、間違いなく大馬鹿野郎ですよ。違いねぇすわ‥‥」とタシロは、ははっと笑った。
「ちょっと俺、コーヒー買ってきますね」と言い残し、タシロはふらりと住処の玄関を出て行った。オカダが用意したおにぎりは手付かずであった。
そして、場面はようやく冒頭のシーンに戻る。
タシロは公園のベンチに座っていた。気づけば、どしゃぶりの雨が降り、頭のてっぺんから爪先までびしょ濡れだ。雨に濡れることが気持ち悪いとか、寒いとかタシロは感じることができなかった。
「スダ タクヤなんて、よくある名前だろうが、間違いなく先輩なんだろうな」と思いながら、タシロは目を閉じた。六十万を払ってゴミを買って、新宿の路地裏で死んだだと。笑い話じゃねぇかとタシロは思った。
ふいにスダと、いつぞやにした会話が思い出された。
二人で朝から競馬場に向かって、仲良くすっからかんになった日の事だ。
「夢が、ゴミ屑になっちまったなぁ〜」とスダは馬券を放り投げた。「見事に屑っすね」「でもよ、結果が出るまでの一時間ほどは、俺らは夢を見ていた。これが当たったら、焼肉でも食うかとか、テレビ買い換えるか、とかよぉ。だから、これは夢に払った代金だ!だから無駄じゃねぇ!」と、スダは明るく笑った。
「はは、そうすね。焼肉は無理すけど、缶チューハイでも買って、一杯やりますか」とタシロも馬券をやけくそ気味にちぎり、地面に放り投げた。ひらひらと紙屑が風に煽られて飛んでゆく。
「なー、タシロ。俺らはこうやって、うまい焼肉とか、ハワイとか、でけぇ家とか、夢見ながら死んじまうのかねぇ」
「なんすか、急に」
「いや、かわいい後輩がいてよ、たまに酒飲んで、おねぇちゃんと遊んでよ、くだらねぇ夢見てよ、あぁ、やっぱりダメだった人生そんな甘くねぇってのを繰り返して歳をとってくのかなって、ふと思ったんだよ。夢見て、甘くねぇって思い知らされて‥‥その繰り返しだ。繰り返しならよ、俺は夢見てる時に死にてぇな。馬券買って、これが万札に化けるかもって思いながら死にてぇ。結果を知る前に死にてぇわ。明日こそはこの紙が万札に化けて、サシがたっぷり入ったロースを食えるかもなって思いながら死にてぇな!ははは!」とスダは笑っていた。
ひゅうっと、ひときわ強い風が吹き、散らばった馬券天高く吹き上がっていった。
じゃり、という音がして、人の気配を感じた。
タシロの前にはライが傘をさして立っていた。
「さっきは、ごめん。配慮に欠ける発言だった」と呟いた。「いいんすよ‥‥その通りなんすから‥‥」とタシロは俯いたまま言い、口を歪めると、手を目に当てた。「‥‥クソッ‥ライさん、俺‥‥悔しいっす‥‥」と言いながら、タシロは泣いていた。
あの時、新宿でもう少し色々話せばよかった。
スダを引き留めていれば、何かを変えられたかもしれなかった。
ライは、黒い傘をタシロの上にかざすと、そのままタシロの正面にじっと立っていた。
三十分ほどが経ち、雨が小雨になった頃、ピロンとライのスマートフォンが鳴った。ライは通知を確認すると、タシロに言った。「タシロ、そろそろ凹むのはやめにした方がよさそうだよ。スダの奥さんだっけ?、その人がタシロに助けを求めてる」
住処に戻ると、すでにレンがバンをビル前に止めていた。「おっせぇぞ」と声をかけてきたが、レンも先ほどまで寝ていたようだ。髪の毛がボサボサで、二重の大きな目は、厚ぼったくなっていた。
オカダがタオルと着替え、サランラップにくるんだおにぎりと温かいお茶が入ったタンブラーをタシロに渡した。タシロの携帯も手渡した。ディスプレイには、スダの彼女からのメッセージが表示されている。
タシロとライを車に乗せると、バンはスダのアパートに向かって走り出した。
スダのアパートの部屋の鍵は開いていた。タシロが恐る恐る部屋の中を確認すると、部屋の中は、荒らされていた。引き出しはひっくり返され、土足で侵入したのだろう、畳の上には土がいくつも落ちていた。部屋の奥ではスダの彼女が横たわっていた。
「大丈夫すか!」とタシロが駆け寄り確認すると、スダの彼女は、目を覚まし、返事をした。「さっき、男の人が家にきて‥‥リストはどこだって‥‥」
顔には痣ができており、口の中も切れたのだろう、口の端から血が流れている。おそらく腹や背中にも打撲を負っていると予想された。
「男たちは、何かを持って帰りましたか?」とトモヤが尋ねる。
「小さな、メモリスティック‥‥あれ、タッちゃんが、ちょっと前に買ってきたんです。私たちの将来のために、投資をしたんだって。これで、もっと大きなお金を作って広い家に引っ越そうって‥‥でも、タッちゃん、あれを買うために借金したみたいで‥私、怖くて聞けなくて‥‥うっうっ‥‥」女性の目からは涙が溢れた。
ライは寝室に人気があるのを感じていた。そっと、ふすまを開けると、小学生と思われる男児が体育座りをして、じっとしていた。
「お子さんは無事だったんですね、よかった」とライは声をかけた。きっともうすぐ警察がやってくるだろう。もしかすると、女性は警察に連れて行かれるかもしれない。すぐ解放されると思われるが、きっと女性は、一連の騒動のどれかが原因でパートをクビになるだろう。スダの借金の取り立てもくるだろう。子どもと離れ離れになる可能性は?それとも、ここに残って警察にまかせてしまうか?警察に保護されると考えることも可能では?ライは考えがまとまらず、混乱した。
ライの思考を遮るようにレンが言った。
「スダの彼女さん。ここにいたらヤベェと思う。ライ、オカダに電話して、隔離できるアテがあるかきいてくれ」
ライは慌ててスマートフォンを取り出す。
「お前、またこんがらがってただろ」とレンはライを肘で小突いた。
トモヤは、お構いなしといった様子で部屋の中を改めている。本棚や、靴箱、冷蔵庫に貼られた手紙を眺めて、「きっと依頼されたモノはスダさんが持ってたんだ。でも、どうして‥‥」と呟いた。
トモヤの手には、消費者金融からの封書と、メモリスティックを購入した際のものであろう契約書があった。
◾︎◾︎◾︎
スダの彼女とその子供を、オーナーが保有するホテルの一室に案内すると、タシロらは住処に戻った。
オーナーの好意に甘えることとして、食事など必要経費は部屋付にして構わないとスダの彼女に伝えると、彼女は訳がわからない様子であった。「すんません、細かい説明は省かさしてください。ラッキーだと思ってホテルを楽しんでください。また、連絡します」と、タシロは伝えた。
その日のランチは、タシロとオカダには、シーフードたっぷりのピザ。トモヤには、シーフードサラダ。ライはピスタチオクリームの乗ったケーキだった。
「オカダさ、サエグサの件調べてくれた?」とトモヤが言う。
「はい、こちらを」と、オカダはトモヤに書類の束を手渡した。ふむふむと、トモヤは書類を確認する。
「カリスマ投資家の副業は、USBメモリを売りつける詐欺師だったってことだね」とライが先回りして言った。
「うん、なるほどねぇ。サエグサの投資会社、プリディクトは、合同会社への出資権を募る形で資金を集めていた。その資金は、カリスマトレーダーのサエグサと、そのお仲間が運用。利益を出資者に返す。
従業員数は公表されていないが、社長のサエグサ、秘書、副社長、そして数名の事務員が確認されている。オフィスは、レンタルオフィスなんだね。表向きは合理経営のためという名目かぁ。まぁ、借りられなかったのかな‥‥」とトモヤが書類を見たまま語る。
「ちゃちいオフィス借りるくらいなら、適当な理由つけて立派なレンタルオフィスを借りた方が賢いと判断したんだろうね」とライが言った。
「あ、でもオフィス移転の話があるみたいだね。六本木一丁目のフォレストビル系列の建物に一室借りる予定みたい。へぇ儲かってんだなぁ。で、実際のところは、ふーん、年間平均返礼率が30パーセント、一年間で100万円預けたら、一年後には130万円になって返ってくるってこと。ふぅん」
「すげぇじゃないすか。銀行なんて預かるのバカバカしいすよ」とタシロが言う。
「でも、全員が30万を現金で毎年受け取る訳じゃないよ。実際には運用報告書上、そのように報告されるだけ。もちろん途中解約すれば、利益を上乗せしてお金は戻ってくるけど、全員が一斉に解約するわけじゃないからねぇ」と、トモヤ。
「まぁ、FXで勝ち続けられる人間なんていないよ。きっといくらかの副業もあって、その利益も運用益として扱ってたんじゃない。例えば高額なUSBメモリに、投資の必勝法が入ってるとか言って売りつけるとか」
「あと、SNSで、適当な予測を書いて、値動きをチョチョイといじったりとかね。きっとサエグサの取り巻きのSNSを漁れば、オンラインサロンだなんだでそんなことやってるやつ出てくると思うよ」と、ライ。
ライは続けて尋ねる。
「ねぇ、オカダ、依頼品は、こっちのリストじゃないって言ってたよね。欲しいのは、サエグサの会社の出資者のリストでしょ。USBを買った情弱なやつらのリストじゃなくて、お金があるやつらのリストだよね?」
「はい。おっしゃる通りです。サエグサは、顧客リストを個人で保管していたようです。本来ならそれもアウトでしょうけれども。まぁ、上場企業でもありませんしね。大した問題にならなかったのでしょう。依頼者がそのリストをなぜ欲しがったのか、どう利用していたのかはわかりません」
「とにかく、何者かが、そのメモリスティックを探していたが、見つからない。なぜなら、手違いで、スダが持っていたからだ。本来であれば、偽物のスティックがスダに売られるはずが、手違いか意図的かはわからないけど何らかの理由でスダに渡った。そして、取り返すためにスダは‥‥」
殺された。
夢見る者たちと、夢を現実にしたものたちのリストが、すり替わり、スダは殺された。いや、出資者もまた、夢を見ているといえるのだろうか。持てるものが、さらに持てるものになるために見る夢。それは、欲望と形容した方が正しい気もする。
「まぁ、スダを殺ったのは、サエグサの周囲の人間だろうなぁ。それがうちへの依頼者とイコールなのかどうかはわかんねぇけど。まー、サエグサ本人に聞けりゃいいけどよ、死んじまったなぁ」とレン。
「そういえば、秘書がいたね。彼女に話を聞こうか。レン、明日、秘書に会いに行こう。実業家として行くか、本業の方で行くか‥‥」とトモヤは考えを巡らせた。
「あ、そうそう、レンさん、メールが届いていましたよ。サロンオーナーの女性の方でしょう」
と、オカダはノートパソコンの画面をレンに見せた。
女性は、名刺に書かれたメールアドレスに連絡を寄越したらしい。そのメールアドレスはオカダが用意したものだ。レンが画面に映された文字を追うと、「無視でもなんでも‥‥オカダにまかせるわぁ」と、パソコンをオカダに返し、興味なさげに言った。
◾︎◾︎◾︎
「サエグサが、あんなことになってしまいまして‥‥現在は、副社長のキタヤマの方が業務を引き継いでおりますので、心配には及びません。本日のお話の方は私の方で承ります」
トモヤらは、プレディクトの入居するレンタルオフィスにいた。あえて、レンタルオフィスであることには触れず、素敵なオフィスだと告げると、秘書はにこりと笑っていた。
先日は地味な印象であった秘書だったが、今日はどこか華やかな印象であった。先日はグレーだったスーツが、今日はベージュだからだろうか?それとも、ゴールドのアクセサリーのせい?少し化粧も濃い気がする。トモヤは秘書を観察していた。
秘書は投資の概要を説明し始めた。
コンコンと会議室がノックされる。「すみません!ちょうど今、打ち合わせが終わりまして、大変失礼しました」と、男が会議室に入ってきた。
「副社長‥!」秘書があわてて、説明した。「こちらサエグサの代理を勤めております、弊社副代表のキタヤマです」
簡単に名刺交換を済ませると、
「投資先をお考えということで、弊社の方でですね‥‥ぜひ‥‥」とキタヤマは秘書の隣に座り、語り出す。物静かであったサエグサと違い、よく喋る男のようだ。先ほど秘書が説明した内容を再びキタヤマが説明を始めた。
説明を聞きながら、キタヤマと秘書を交互に眺めて「なぁんだ、そういうこと」と、トモヤは思った。
キタヤマが、熱心に投資の概要について説明をしているが、既にトモヤは興味を失っている。ムカムカと胃の奥から嫌悪感がこみ上げてくる。
「ちっ、クソみてぇにくだらねぇなぁ」とトモヤは思った。
‥‥はずであったが、言葉として発してしまったらしい。
会議室にいた全員がトモヤの顔を見た。
「‥‥あー僕、声に出しちゃった?やっば。ごめぇん。あーでも、くだらないよ」
トモヤは書類やパンフレットが並べられた会議室の机を蹴った。書類が床に散らばる。「ト、トモヤ‥‥どうしたんだよ」レンが慌てる。
「くだらないから、くだらないって言っただけだよ」トモヤはジャケットの胸ポケットから、銃を取り出すと、キタヤマの方に、銃口を向けた。カチリと音がする。
「お、おい、トモヤ!落ち着けよ」とレンが声をかけるがトモヤはお構いなしだ。
「あんたら、二人で会社の乗っ取りを図ったんだろ?で、サエグサの持っているUSBの行方を探してたんだ。レン、僕、今イライラしてる。なんでだろう。今朝、サランラップのはじっこが、わからなくなっちゃったからかもしんない。もしくはドレッシングが洋服にかかっちゃったからかも。
それとも、こいつらのくだらない計画のせいで、タシロの友人が死んだからかなぁ。僕、そんないい奴じゃないと思うんだけど‥‥」
「ト、トモヤ、疲れてんのか?なぁ、それ、物騒なやつ、おろせよ」
トモヤは動かない。
レンはしばらくの間をおいていった。
「‥‥まあ、お前が引き金をひいたとしても、俺は別に構わねぇけどよ」と、補足した。
キタヤマと秘書の顔が、恐怖で歪む。
トモヤはフッと笑って、「だよね」と言い、人差し指をぐいっと動かした。
「レンだってそんないい奴じゃないもんね」
二人の脳天に、銃弾で穴を開けると、キタヤマと秘書は椅子の背もたれに体を預け、マネキンと化した。「あぁ、スッキリしたぁ」とトモヤは肩を下ろした。
「レン、それ回収して。キタヤマのノートパソコン。で、帰ろ」と、冷静な声色で言った。
四階ダイニングでは、いつも通り夕飯の時刻を迎えていた。タシロには牛丼、レンにはプルコギバーガー、トモヤはゴボウのサラダ、ライはフォンダンショコラを食べていた。
「トモヤさん、ビンゴでした。キタヤマ氏のノートパソコンに刺さっていたのは、顧客リストでした。これで、依頼をクローズすることができます。本当にご苦労様でございました」と、オカダがトモヤをねぎらった。
「なぁ、おまえ、あの会議室で何があったんだよ」とレンが尋ねる。
「まあ、半分は勘なんだけど、あの二人、お揃いの指輪してた。それに、二人の視線とか、席に座った時の距離感とかが、ただのビジネスの関係じゃないって思わされたんだよね。あの二人、たぶん出来てたよ。
そして、キタヤマのノートパソコンに刺さっていたUSBね。
‥‥僕、とっさに二人が企みを会話しながら、ちちくり合ってる絵が頭に浮かんじゃってさ、なんかすっごいイライラしちゃった。スダの彼女さんは悲しみにくれてるのにさ」
「へぇ、そんなことがなぁ‥‥」
指輪にもUSBにもレンは一ミリも気付かなかった。トモヤは数秒間にどれだけの情報を目から得たのだろうと、素直にレンは感心した。
「なぁんだ、僕は出る幕なしだったかぁ」と、ライはつまらなさそうに、フォークについたチョコレートを舐めた。
「ねぇ、ライ、じゃあ、ちょっと僕のディスカッションパートナーになってくれる?」とトモヤが言った。
「僕、時系列がちょっと変じゃない?って思ってたんだ。」
任命されたライは言葉を続ける。「スダが、USBを大枚をはたいて買ったのはおそらく二ヶ月前。消費者金融への返済が滞ったのが一ヶ月前。だよね。」
「そうすると、二ヶ月はUSBは、スダの手元にあったことになるよね」と、トモヤ。
「さすがに長いよね。うん、僕も気になってた。二ヶ月もUSBの不在に気づかないはずがない。たぶんUSBは、最近になってすり替わったんだと思う‥‥例えば、タシロとスダがすれ違った日とか」とライは言った。
「‥‥スダは多分、タシロと会った日、サエグサに会ってたんじゃないかなぁ。USBの通りにトレードをしてもちっとも儲からないとかなんとかさ‥‥その時故意にかたまたまか、USBがすり替わった‥‥」
「確かに、先輩に久々に会った日、先輩はよそよそしかった気がします。あまり新宿に長居したくないような様子でしたね‥」と、タシロが呟いた。
「嫌なこと思い出させてごめん。今更考えても仕方ないんだけど‥‥ね」と、トモヤは謝った。
タシロは、やはりあの日、新宿駅で、もうほんの少し、スダと話せばと思った。何をしているのかでも、疲れているのではないかでも、困っていることはないかでも、なんでもよかった。あと少し話せていたら、と思った。
◾︎◾︎◾︎
タシロはホテルのドアをノックした。ドアの向こうには、スダの彼女、スダが大切にしていた人物がいる。
スダの彼女が顔を出すと、タシロは会釈をして部屋に入った。
「彼女さん、ご存知の通り、スダはもう戻ってきません。一つ、お願いがあります」そういって、タシロは封筒を差し出した。ホテルへ来る前に、タシロは銀行に寄っていた。
「中に、200万入ってます。これで、まずは先輩が、どっかから借りた金を返してください。残りは、彼女さんとお子さん、二人の新生活のための資金にあててください。
‥‥俺、先輩からのいいつけをずっと守ってきました。先輩は、そのいいつけが男社会で生きるコツだって言ってました」
スダの彼女はタシロの顔をじっと見つめている。
「そのおかげで、ありがてぇ仕事にもつくことができました。仲間もいます。うまい飯も食えてます。多分先輩の言葉が、一番、俺にとって有効なライフハックってやつでした。先輩に借りた恩を返すなら今しかねぇなって‥‥なんで、これ‥‥」と封筒を、彼女の手に握らせた。
「俺、結局、先輩とは新宿ですれ違っただけで、先輩がこの五年間どんな風に過ごしてたか、全然しりません。でも、彼女さんは、先輩の夢だったんじゃねぇかなって思います。彼女さんと、お子さんと、穏やかに人並みの暮らしをする。先輩が買ったUSBは、札束には化けなかったすけど、彼女さんとの夢を見て‥‥そして死んだ‥‥たぶん幸せだったんじゃねぇかな‥‥」
スダが幸せであったかなどタシロにはわからない。自分でいいながら、適当な言葉を言っているとタシロは自覚していた。先輩は騙されて道端で殺された哀れなゴリラだったんだろう。でも、彼女さんという存在は確かに先輩の夢だったはずだ。
「先輩の分まで、幸せになってください‥‥」と、鼻をすすり、タシロは一礼するとホテルを後にした。
後手にドアを閉めながら、彼女が泣いている声が聞こえた。
タシロの預金口座はすっからかんになったが、タシロの気持ちは清々しかった。競馬場で、スダと下らない会話をした時のように清々しかった。
ホテルのロビーを出ると、青い空が広がり、熱気がタシロを包んだ。
◾︎レンと再びの渋谷
「なんか、俺へこんでるわぁ」とレンが言った。
先日の美容サロンオーナーの女性のことらしい。
オカダがレン宛だと見せたメールにはこう書いてあった。
「レン様
先日は素敵なお時間をありがとうございました。早速ですが、スポンサー契約の件ですが、1000万円でお願いしたく存じます」
そういえば女性は、新店をオープンさせたいとか言っていた。そのためにスポンサーを探しているのだと。
「だってよ、俺のこと好きなんだろうと思ってたのによ、向こうは金目当てだったんだぜ。なんか、利用された気分‥‥」
ダイニングにいたタシロら全員は、レンよ、今まで自分の都合で女性を散々利用してきたくせに、お前は何を言っているんだ、と呆気にとられて、何も返せずにいた。そんなことには気づかず、レンはアンニュイな表情をして頬杖をついている。
「そ、そうだ、オガワ物産さんからまた荷物が届いていたんですよ。忙しくて開封を後にしていました。常温便でしたし、ワインということなので、急いであけなくても大丈夫だろうと思いまして」と、オカダはキッチン脇に置かれていた段ボールを開けた。そういえば、五日前から段ボールが無造作に置かれていた気がする。
オガワ物産とは、食品専門の商社だ。半年ほど前に依頼を受け、ボディガードをしていた。
折に触れて、ワインや食材を送ってくれる。
「あれ、社長さんが、お手紙も同封してくださっていますね‥‥」と、オカダはパステルイエローの便箋を取り出し、読み上げた。
社長とは、ミナミという女性の事だ。大変優秀な女性で、レンとは、少し距離が近い関係であった。
「ご無沙汰しております。皆さんは、お変わりなくお過ごしでしょうか。私の方は相変わらずといったところです。今度、新店を渋谷の駅構内に出店することとなりまして、非常に貴重なワインを手配しました。皆様にもお裾分け致したく、お送りさせていただきます。お気に召しますと幸いでございます‥‥」
オカダは一瞬間を開けた。
「‥‥レン君はお元気でしょうか。新店の隣には日本初上陸のハンバーガーレストランが開店予定です。オープニングパーティーの招待状をいれておきます。ご興味がありましたら一緒に‥‥」オカダは狼狽していた。
「まぁた、レンさんすか、ほんとにモテますねぇ」とタシロがチャチャを入れた。
「あ、あの‥‥レンさん、オープニングパーティーは二日前だったみたいです」
「もう過ぎてるじゃん。それに、その日って‥‥」とトモヤが言う。
「レンがサロンオーナーと会ってた日じゃん」ライが続けた。
レンは、顔面蒼白という言葉がぴったりの状態になっていた。どちらかといえば地黒の顔色が、真っ青だ。
「やばいね」と、ライ。「これは、だいぶやべぇすね」と、タシロ。「すっぽかしに、浮気。口止め料は安くないねぇ」と、トモヤ。正確にはミナミとレンは恋人同士ではないので、浮気ではないだろうが、三人はやばいやばいといいながら、ニヤニヤと口角を上げている。
「おおおおい、オカダ!オカダ!新店ってどこだよ!‥‥あああ、渋谷の新しい店って、うぉぉ、あそこかよ!」
そうだ、あの日レンは渋谷駅にいた。賑わう人だかりをうっとおしく思い、サロンオーナーの待つ代官山へと、先を急いだ。
あの人混みの中にミナミがいて、自分を待っていたかもしれなかったなんて。
「いや、恵比寿の本社にいきゃいいのか?!オカダ、オカダの馬鹿野郎!!」と、レンは叫び、慌てて駆け出して行った。
ドタバタとレンの足音と、ガチャンとビルの玄関扉が乱暴に閉まる音が聞こえた後は静寂が訪れた。
「‥‥オカダ、わざとじゃないよね?」とライは呟いた。
「人聞きが悪い。‥‥ですが、次からは、届いた荷物はその日のうちに改めさせて頂きます」と、オカダは咳払いをして、返事をした。
その日の晩、シャワーを浴びたタシロは、缶ジュースの蓋をあけながら、管理人室のテレビをつけると、ニュース映像が目に入った。
「渋谷区代官山で美容エステを経営する女性が、無免許で医療行為を行ったとして逮捕されました‥‥逮捕されたのは‥‥」と、ニュースキャスターは告げる。
「渋谷区代官山‥‥まさかなぁ」と、頭をタオルで拭きながらタシロは独り言を言った。レンのデート相手も代官山にサロンを開いていたとか言っていた気がするが、よく覚えていない。
ゴクリとジュースを飲むと、風呂上りの体にスポーツドリンクがタシロの喉を潤した。
「では、トレンドおっかけコーナー。今日は先日開業した渋谷駅の新エリアを徹底取材です」と、キャスターは続けた。
トモヤもまた、自室でポータブルテレビをつけながら植物図鑑を眺めていた。オーナーが、以前お土産にとくれた図鑑で、見たことがない植物の図柄と、アラビア語の解説がついている。アラビア語はまだ、勉強したてなので、一ページを読むのに一晩かかってしまう。だがトモヤには、この時間が至福の時間であった。ベッドには、ライがごろんと寝転がって、タブレットで、渋谷駅再開発エリアで食べられるスイーツ特集の記事を読んでいる。
「行きたいの?その、新しくできたとこ」と、トモヤがライに声をかける。
「んー‥‥レンに買ってきてもらおうかなって思っただけ。しばらく利用できそうじゃない?」と、ライが、ニヤリと笑って言った。
「一番高いの買ってきてもらおーっと」とライはスマートフォンを操作し、ラインのトークルームを開いた。
トモヤはくくくと肩を震わせて笑った。
先ほど、エステサロンオーナーの逮捕が報じられたが、それよりも興味深いのは、さらにその一つ前のニュースだと思い出していた。偽ブランド品をオークションなどに出品していたとして、都内に住む男が逮捕されていた。逮捕者の顔が一瞬映ったが、サエグサを殺った際の、パーティーの主催者、蛇柄のシャツを着た男だった。アパレルの経営と言っていたが、偽ブランド品の販売かよ。トモヤは、再びくくっと笑った。「なんだよ、あのパーティーまともなの、いなかったのかな」と思いながら、図鑑に目を戻し、一ページをめくった。
◾︎◾︎◾︎
レンは恵比寿駅にいた。はぁはぁと息が上がっている。完全にやらかした。スマートフォンに連絡をくれればよかったのになんて言っている場合ではない。
もう少し早く気づいて、新店開店のお祝いに花束でも持ってスマートに駆けつけてやりたかった。
勢いでオガワ物産の本社ビルに来てしまったが、仕事の関係がなくなった今、押しかけてよいものだろうかとレンは逡巡していた。
すると、ビルのエントランスからスマートフォンを操作しながら、ミナミが出てきた。まだ時刻は早いが、もう帰宅だろうか?
「ミ、ミナミ!」とレンが声をかける。
名前を呼ばれたミナミは顔を上げ、レンを認識する。
「ごめん‥‥ごめん、俺‥‥」
レンはどうにか謝罪の単語を紡いだ。汗をかいている。きっと汗臭いだろう。着ているのはお気に入りの柄シャツではない。二軍落ちした柄シャツを着てしまった。ちくしょう。俺、すげぇ格好悪いと、レンは思った。
ミナミは驚いた。オフィスを出ると、目の前にレンがいた。二日前のパーティーにはレンは現れなかった。
パーティーの訪問客に挨拶をしている際、遠くにレンらしき人物を見かけた気がしたが、普段と異なる格好をしていたし、急いでいるようだったので声をかけることができなかった。
一緒に過ごしたのは、半年ほど前のほんのひと時だ。レンにとっては仕事でもあった。ちょっと未練がましかったかな、とミナミは反省していた。
だが、なぜか今、息をきらせて自分の前にレンがいた。汗をかいて、よれたシャツを着ている。
「‥‥帰り?早いね?」と、レンは言った。
「そ、そうなの。最近ね、スタッフのみんなにもっと任せてみようかなって思ってね。こうして早く帰る日も作ってるんだ。それで‥‥食べ歩いたり、流行りのお店をリサーチしたりしてるの‥‥」とミナミは言う。
ええと、そうじゃなくて、なんでここにいるの?とミナミは聞きたかった。てっきりもう会えないと思っていたのに。
「相変わらず仕事熱心なんだな。ミナミ‥ほんとごめん‥‥ミナミからの手紙に気づいたのが今日で‥ていうかさっきで‥‥」
ミナミの誘いを無下にしたせいか、レンは随分しおらしくなっている。後頭部に手を当てて俯いている。まるで怒られた仔犬のようだ。くるんと巻かれたしっぽがついているのではないか。
ずるいなぁ、そんな顔されちゃあ、怒れっこないよとミナミは思った。
「なぁんだ、そういうこと!じゃあ、レン。今から一緒にあのお店いこう!ロブスターがたっぷり入ったハンバーガーがあるんだよ!」ミナミはレンの手を引いてタクシーを捕まえた。
「そのかわり、レンの奢りね!」と、ミナミはいたずらっ子のような笑顔をした。
レンは顔を上げた。目に光が宿っている。
「お、おお、なんでも奢る!ミナミ、俺、ミナミに会いたかった。いつ連絡しようかってずっと考えてた」
「で、いきなり会いにきてくれたんだね。ふふふ、レンらしいなぁ。嬉しい、ありがとう」
今日、仕事を早めに切り上げた自分は本当に偉いとミナミは思った。二人は人混みと熱気をかき分けて、お目当の店へ急いだ。