4/答えの出ない考え
オディット・ジン・スルト様。私達が結婚する前、婚約者であった頃に紹介された旦那様の親友の一人。すっかり白衣が目印となった彼は、私と目が合うと不意にその動きを完全に止められ、すぐに腕を組み難しい顔をした。そしてそのまま首を傾げる。
「……ジン、何をしている?」
私もジン様と同じように首を傾げてみせれば、旦那様が呆れたような目を彼へ向けた。まだ寒いのか、とも。
旦那様は基本的に体温が高く寒さを感じにくい体質のようで、昔から気温の変化には疎かった。ジン様が度々今日は寒いよねー、と教えてくれてようやく寒いのかと知る事も多かったのだと言う学生時代の話を、小さく微笑みながら以前に話してくれた。
そういったお話を聞くと、本当に楽しい時期を過ごしていたのだなと少しだけ羨ましくもある。
「いやいや暖かいよ。さーて奥様!! 気を取り直して少し診察しましょうか。胸の音を聞かせてくれるかな」
「はい」
すぐにいつもの調子に戻ったジン様が椅子に腰を下ろし、鞄から聴診器を取り出す。旦那様の手はいつの間にか離れていて、今は部屋の家具の方へ目を向けていた。
……私も少し、落ち着きを取り戻して来たかしら。夢のようなものの事ばかりに思考を奪われていたけれど、ルドガーの魔力はもしかして普通の人より強いのではと冷静に考えられるようになって来た。
思い返せば、あれは一瞬の出来事だった。ルドガーが魔法を発動させた途端に部屋中が冷気に包まれ、寒さを認識したのとほぼ同時に意識がなくなった……ような気がする。
あの子はまだ八歳。八歳であの魔力は、少し強すぎるのではないかしら。六歳から八歳の魔力持ちの子どもといえば、自分の腕が届く範囲内で魔法を発動させるだけで充分と言われている……らしい。この基準も何なのか良く分からないけど。それに比べて、ルドガーはこの部屋全てに魔法を発動させた。旦那様のお部屋よりは狭いけれど、此処も夫人の部屋なだけあって中々の広さがある。
魔法の事に全く詳しくない私があれこれと口出しできるような事ではないのだけれど、確か夢の中で成長したルドガーは塔の長にまでなっていたから、もしあれを予知夢だとするなら本当に魔力が強いのかもしれない。
「はい、もう良いですよー。びっくりしたねえ奥様。お腹の子も問題なさそうだから安心して良いよ」
ルドガーの魔法が誰かを傷つけるはずがないと思っているので、改めてジン様の言葉に安堵した。
「そうですか、良かった……」
横の旦那様に向けて微笑めば、同じように柔らかな笑顔を返される。彼も良かったと思っていてくれることが伝わってくる、その笑顔だけで本当に癒される。
そんな私達の間に、大変申し訳なさそうに……喋りにくそうにジン様があのね、と話を切り出した。
「うん、それでこのタイミングで非常にあれなんだけどさ、アル。マルティさんが困ってたから助け舟出して来てあげてよ」
「お前な……」
「ごめんってー。でもツヴァイくんじゃレオは動かないじゃん?」
「……レオに何かあったのですか?」
ずっと姿が見えないと思っていた可愛い次男坊。てっきり授業か、ジン様と一緒に遊んでいると思っていたのだけれど……一体何が? 旦那様を見て、ジン様を見る。二人が何とも言えない表情で私と目を合わせないようにしているのを見て、部屋の隅に控えているツヴァイと、今まで席を外していたらしい侍女のノアトを見た。彼女は旦那様が命じていた温かい飲み物を持って来てくれたようだ。ツヴァイは目が合っても微動だにせず、ノアトは何の事だろうといった顔でぎこちない微笑みを見せてくれた。……余計に気になって仕方がないのですけど。
「もう体調は問題ありませんし、私が……」
「私が行こう。リベリア、君はゆっくり休んでいてくれないか」
「ですが」
「良いね?」
肩を抱いて念押しされてしまえばそれ以上言葉は続けられない。静かに頷き一つを返すだけしか許されなかった。旦那様がツヴァイを連れて退室していく。
「レオも君を心配しているよ」
二人がいなくなってからぽつりとこぼしたジン様の言葉の意味を、私は正しく理解した。
「もしかして、授業を放り出したのですかあの子は」
「何処の家もお喋りな使用人はいるからね」
感情の見えない瞳は患者の私ではなくノアトの方を見ていて、そちらへ矛先を向けた事に少し驚いた。確かに爵位に関係なくそういった人もいるけれど、ノアトは大体いつも私についてくれていて、お喋りと言うよりも物静かで言葉をきちんと選ぶ人という印象がある。
「ノアトもそうだと仰りたいのなら、それは違いますよ。彼女は優秀な侍女ですから」
「公爵夫人の侍女、ですからねえ……なるほど。すみません、言葉が過ぎました」
「……」
部屋に先ほどまでの和やかな空気は消え失せていた。あまりに突然すぎて、怪しいとか怪しくないとかではなく、彼女とジン様の間に私の知らない何かがあったのだろうかと心配になる。彼女がジン様の前で何か粗相をしてしまったとか。ノアトも貴族の娘ではあるから、昔何処かでお会いしていたとか? そんな話は一度も聞いたことがなかったけれど、もしかしたらと言う事もある。
しかしそんな私の考えはあっさりとジン様に読まれていたようで、すんなり否定されてしまった。
「この場にいる使用人が彼女だけだったのでつい目がいってしまっただけですよ。不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
そう言って頭を下げられる。まさか頭まで下げられてしまうとは思っていなくて、すぐにやめるように言ったけれど本当に……何というか、ジン様には驚かされる事が多い。ノアトを見れば、彼女も驚きで固まっている。それはそうよね、分かる。
ゆっくりと頭を上げた彼は一度だけノアトの方を見たけれど、すぐに妙な空気になってしまったのを誤魔化すように、眼鏡を触りながらにこりと笑った。
「ねえ奥様。僕もお茶をいただきたいんですが、ルミの花のお茶はある?」
「えっ、ええ、確か旦那様が買って来てくださいましたわ。ノアト」
「はい」
気まずい空気から一抜けできる事が嬉しかったのか、お茶の用意をしにいく彼女の雰囲気が少しばかり明るくなっているように見えた。
「ツヴァイ」
「はい、旦那様」
リベリアの部屋を出てすぐにアルストファーとツヴァイの足は止まった。言いたいことはもう全てわかっています、と頷いた補佐に主人も頷き返す。他の者が見れば何で無言で頷き合っているんだと思われそうな光景ではあったが、これがこの二人の常である。
ツヴァイはそのままリベリアの部屋の扉前で待機。アルストファーは授業を放棄し今もぐずっているであろう我が子のもとへと足を進めた。
「……」
リベリアの部屋の扉は、アルストファーが出て行った為少しだけ開けてある。ジンを疑っているわけでは全くないが、マナーでありツヴァイの主人の譲れない部分でもある事なのでそこは諦めていただくしかない。
暫くするとリベリアの侍女であるノアトが一人で部屋から出て来た為、ツヴァイの顔が少しだけ歪んだ。目が合った彼女は、彼がそこに居るとは思ってもいなかったのだろう、驚き一歩後ずさったが悲鳴は何とかギリギリの所で飲み込んだようだった。
「お茶を、御所望されましたので」
「……」
だからと言って公爵夫人と医者を部屋の中で二人きりにして行くのか。聞いてもいないのにツヴァイに向けた早口な彼女の言葉の裏に言い訳めいたものを感じつつ、そうですか、とだけ返した。それ以外に特に言うべき言葉もなかったので。
ただ、医者の目的に考えを巡らせてはいた。