2/ルドガー氏の優雅な傀儡遊び
氷魔法の使い手、ルドガー・ディペット。
八歳の時、末の妹の誕生と引き換えに母を失い、以降氷魔法を中心に魔法の世界へと没頭していく。成人後は魔術師としての力を強め、二十五歳にして最年少で魔法塔の長に就任した。
彼の得意とする氷魔法のように、ルドガー自身もまるで氷のような存在であった。誰も寄せ付けず、必要最低限の言葉を必要最低限の人間と交わすだけ。それが家族であるなら尚更。特に兄弟達の事は誰よりも嫌っているようで、彼等が何かしらの騒動を起こすたびに、ルドガーの部屋の気温は数度下がった。
まともに魔法を扱えない弟とは物事の考え方、在り方からして違い。双方どちらも自分の主張を曲げない為、顔を合わせるたびに諍いが絶えなかった。
母が亡くなった原因である妹の事は、その存在自体を幼少期から許せずにいた。その為、まともに会話をした事がなければ互いを呼んだ事すらない。ただ、彼女は自身が通う学園で良く問題を起こすようで、度々苦情が彼の下に届いていたという。
「今しかありませんよ、殿下。あれはもうディペット公爵家の名を持っていないのですから」
王家の者が過ごすに相応しい広さを持った一室は、その目も眩むような豪華さを一切失う事なく辺り一面凍てついていた。辛うじて凍っていないのは、この部屋にいる二人の人間だけだろうか。尤も、片方の男は凍った椅子に座らされ、拘束具の手枷と足枷を模した形の氷で手足を拘束されている。ただ呼吸をするだけでも肺から凍ってしまいそうな寒さに、男の体は先ほどからずっと震えが止まらなかった。
平然とした表情で、貴族特有の優雅さを一切失っていない対面の男とは大違いだ。ルドガーは震える男の様子に一切構わず、同じように凍てついた椅子に腰掛け足を組み替えた。
「父にも、兄である私にも見捨てられ。あれには後ろ盾も縋るものも何もない。消すなら今です」
「……正気なのか? その、あなたの発言はまるで」
「『まるで兄が実の妹を殺せと言っているようだ』と? 実際そうですからね。おかしいところは何もありませんよ」
感情を見せないルドガーに、殿下と呼ばれたこの国唯一の王太子は部屋の寒さからではない、おぞましい物に遭遇してしまったような、計り知れない寒気を覚えた。立場上では、目の前に座るルドガーよりも何故か拘束されている王太子の方が遥かに上である。警備は何をしているのか、と扉の方へしきりに目をやっているがその扉は部屋の壁と同じく凍てついており、そこから誰かがやって来るような気配は一切ない。王太子は、完全に冷静さをなくしていた。
ルドガーは魔術師達の頂点、魔法塔の長ではあるが彼はディペット公爵家の現当主。王の臣下だ。王家の人間である王太子にこのような振る舞いをして許される筈がない。不敬罪。即刻斬首。爵位剥奪。思いつく限りの罰を与えてやろうと王太子は震えながらも決意する。
「殿下。これは貴方にとっても、これ以上ない程の好機なのですよ」
ルドガーは椅子から立ち上がると、王太子の椅子の後ろに回り、まるで内緒話でもするかのように耳元つま囁く。
「あれが居なければ、殿下は貴方自身が望む相手と幸せになれる」
「……」
王太子には想う相手がいる。それが何故ルドガーに知られているのかはわからないが、彼の言葉につい王太子の指先が反応した。ルドガーはその反応を見落とす事なく、震えた指先に自身の冷えた指をそっと這わせた。
「あれは、殿下と思い人の邪魔しかしない。『殿下の婚約者』と『公爵令嬢』と言う肩書自体が、あれの存在よりも前に邪魔だった。殿下の婚約者と言う肩書が本来相応しいのは、あれではなく。貴方が今、脳裏に思い描いた人物。ただ一人なのですから」
そうでしょう?
まるで幼子に問いかけるような優しい声だった。
そうでしょう、と聞かれれば、当然王太子はそうだ、と自信を持って答える以外にない。なぜならルドガーの言葉通りだからだ。彼の言葉に黙り込んでやり過ごす事もできたが、今のルドガーの言葉は、王太子が思い人と出会ってからずっと胸に秘めていた嘘偽りない真実だった。ルドガーは王太子の思いを確実に汲み取り、理解し、言葉にした。いくら表面的には婚約者同士だと振る舞って見せても、腹の底ではずっと思っていた。
相応しいのは彼女ではない。唯一、隣に立って欲しいのは。
王太子の婚約者と言う肩書を、ルドガーの妹は幼少期からずっと持っていた。それは勿論大人達の事情ではあるが、彼の妹はいつしかその肩書に執着するようになった。……否。正しくは、王太子に執着するようになったのだ。
それが常識的な範囲の、可愛らしい執着ならば王太子も多少は目を瞑っていられた。愛はないが、幼少期からの付き合いだ、人並み程度の情はある。……しかし彼女の激しい執着の矛先は、周囲へ向けられてしまった。
「婚約者と言う肩書も、公爵令嬢と言う肩書も。最早あれには存在しない。殿下が自らあれを裁いてくださったおかげです」
「……彼女は、やりすぎた。祝福すべき宴の場を、あろうことか血で染めるなど…………狂っている。彼女は、どうかしている……」
「仰る通りです、殿下」
ここで初めてルドガーの表情が動いた。王太子の背後から再び元の椅子に座り直し、未だ身動きの取れない王太子と目が合うと柔らかな微笑みを浮かべたのだ。まるで生徒が正しい回答を出せた時の教師のように。正解です、と声にはしなかったが内心ではそう思っていたのかもしれない。
彼の微笑んだ顔を見たのはこれが初めて。見るからに作ったものだと頭では理解していても、滅多に表情を変える事のない美青年が微笑んだ時の、この言いようのない衝撃。同性であっても僅かに魅入られてしまった。……まあ、王太子が美しい物好き、というせいもあったかもしれないが。
「あれは狂っている。あれの狂気が他の……そうですね、例えば市民。貴族。ああ、パーティーの時のように再び貴方の最愛の人へ向けられたら……?」
口元が緩やかに弧を描く。先ほど見せた微笑みとは全く別の種類の笑みで問われ、王太子はその脳裏にあの日あの時のパーティーの惨状を思い浮かべた。
途切れない悲鳴。逃げ惑う人々。無残に割れていくグラスや食器。狂ったように振りかざすナイフ。その矛先を向けられた少女は、王太子の腕の中で可哀想なくらいに震えてしまっていた。幸いな事に少女には傷一つつかなかったが、少女の盾にされた人間はいた。その血が、おびただしいほどの血の匂いが。あの日からずっと、今でも王太子のすぐそばにあるような気がしている。
「そんな事にはさせない!! あのパーティー以降、ロザリーの警備には万全を期している!!」
手足を拘束されているにも関わらず、思い人への感情だけは確かに本物のようで。無駄な抵抗でしかないが、王太子が吠えた。
「ええ。塔からも監視の目を光らせていますからね。しかし毒を持った芽は、早急に摘み取らなければいつしか茎にまで、果ては根にまでその毒は回り、腐り落ちるでしょう」
「そっ、そもそもディペット家が彼女をしっかり教育していればこんな事には……!!」
「心外ですね」
今度は声を上げる事すら許されなかった。
部屋の温度が更に数度下がり、窓がその寒さによってピシリと悲鳴をあげたのを王太子は確かにその耳で聞いた。聞いたが、今は窓よりも部屋の温度よりも、何よりも。自身の生命が脅かされている事実に息を呑んだ。
手足を拘束されている時間が長すぎて、生命の危機がずっとあった事を忘れていたのだろうか? 目の前のこの男は、王の臣下でありながら全くこちらを敬う気など持っていないというのに。なぜ気を緩めてしまったのか。自身の胸の内にあった思いを引き出されたから? 己の身の振り方を改めよ、と王自ら突き放されてしまった自身のやり方を肯定されたから? 分からない。もう何もわからない。まともに考える事ができない。
ルドガーの顔から表情が抜け落ちて、いつも通りの鉄仮面がそこにはあった。心外だと、口では言うが気を害したようには全く見えないその男は、王太子の首をぐるりと一周、数十本の氷柱が囲うようにして浮かび、確実にその首を狙っていた。
「私や両親、ディペット公爵家の先祖達は長きに渡り、王家の方々を陰に日向にお支えしてきた忠実な臣下ではありませんか」
「な、なっ……貴様……!! こ、これの、何処がっ……」
「忠実なる臣下が、未来の偉大なる主君へ進言しているのですよ。たかが小娘一人。未来の王妃様の為にさっさと消してしまいましょう、と」
貴方の幸せと未来のために。我が主君様。
ルドガーが杖を軽く一振りすれば王太子の首が飛ぶ。王太子がルドガーの言葉に乗れば愛に狂った一人の少女の首が飛ぶ。
真っ青な顔をして二の句が告げられない男は、完全に恐怖に呑まれていた。ただ呼吸を繰り返すだけでも息苦しさを覚えるようになり、荒く浅い呼吸を繰り返すだけ。身体中の震えは、いつからのものなのか。分からないが自分自身でその震えを抑え込む事は最早不可能だった。
誰がどう見ても今のこの男に冷静な、この国唯一の王太子殿下らしい判断ができる筈がない。
「さあ、頷き一つで結構です。それで『おしまい』ですよ」
暗に凍てつく部屋からの解放という意味も含めた声に、哀れに震える男が選んだその答えとは。