口の中の魔法
「君は一体何なんだ!」
「手代木結衣だけど」
「何が目的なのか聞いてるんだよっ」
「慰めに来たよ」
「はい?」
「いじけてるみたいだったから」
僕はあの悔しさと恥じらいを思い出して言葉に詰まった。返事が遅れれば遅れるほど顔が上気していく。
「勝手な解釈はやめ――」
「見て良いよ」
「――えっ」
彼女はずんずん近づいてきて、僕の肩をぎっと掴んだ。その力みには何かの強い意志がこもっているように感じられて、どうにも身動きがとれなかった。
彼女は邪魔な前髪をパッパと左右に払って、顔を全て表に出した。
僕は手代木さんの顔なんて見たくなかった。でも、初めて彼女の顔を間近に見て、目が釘付けになった。
追いかけてきたせいで、汗が額から頬、そして顎へと、一筋流れている。唇は暗赤色で、白すぎる肌の上に目立つ。すらりとした鼻筋をたどれば、その上に二つの見開かれた大きな黒い瞳があって、深々とした二重まぶたの奥の暗闇が煌めいている。
僕の知っている女性の顔ではなかった。
僕はいつだって女性と顔を合わせたときには、暖かい印象を受けてきた。どんなにクールな顔立ちの人であっても、どこか女性的なぬくもりを感じて、照れるような、ほんのり熱い気分になった。
でも、今僕は、寒さと紙一重の異常な冷涼感を覚えている。女性を目の前にして、圧倒的な涼しさに打たれて、立ちすくんでいる。
「ね、見たかったんでしょ、ほら、もっと、もっと」
彼女の言葉は耳に入っていなかった。ただ、僕を監視して何かを見抜こうとし続ける彼女の顔を見て、まったく声が出なかった。体全体が、魂が抜けたようだった。
「どうした、高山耕太、おーい」
無邪気に僕の顔色をうかがう手代木さんは、僕の心の中で起こっている化学反応を理解できていない様子だった。僕は分かっていた。僕の中の無意識が、
《彼女は特別か》
という質問に、自然とうなずいているのを。
「しゃべれ高山、……はい、お口あーん」
微動だにしない僕の口の中に、手代木さんの指が容赦なく入ってきて、僕の口を無理矢理開かせようとしてきた。彼女は他人の口の中に指を入れるのに、全くためらいがなかった。
そこでようやく生理的な反射が起こり、体がびくんと痙攣した。
「わ」
彼女が驚いて、指を引っ込める。唾液がまとわりついて、彼女の手にも、僕の唇の端からも垂れていた。
「あっ、あっああぁ」
精神の中で恐ろしいことが起こっていた。化学反応していた心の水面に、他人の指が、僕の許可無しに突き込まれて、くちゅくちゅとかき混ぜられ、わけが分からない事態になっていた。水の中で、指の先の花火がバチバチ燃えているイメージが沸き起こる。
「うっ」
涙が一気に溢れ出て、同時に股間がうずくのを直感した。止まらない。
「うっ、うぅ、ぐっ」
「……どうした、高山」
「あっ――ぁあああああああ!」
僕は半狂乱になって川辺から飛び出した。いかれた人間みたいに、泣きながら、体の奥から噴出する莫大なエネルギーを出し尽くすように、叫び声を上げて走った。