強襲
本を掴む手がまごついている。足も、なんだかもじもじしている。これじゃ読書にならない。
「……あの」
「うん? どうした高山君」
「ぼ、僕、ちょっと今日早退しても良いですか」
「あぁ、かまわないよ、借りていくかい」
「あ、はい」
汗で手がにじんでいた。本を学生鞄に詰め込んで、急いだ風に立ち上がり、そそくさと部室を出ようとする。
「――あっ」
「――きゃっ」
遅れて入ってきた八木さんと鉢合わせする。一瞬間があく。
「え、高山、もう帰っちゃうの」
「う、うん、ちょっと用事があって」
彼女から目をそらして、逃げるように廊下を走る。校門を出て、家とは反対方向へ突っ走り、胸が痛くなるまで走る。
「はっ、はっ、はっ……はぁっ、……はっ、……はぁっ」
目的地なんて決めていなかったけど、走っているうちに高速道路の高架下に来ていた。高架は一級河川をまたいで向こう岸へアーチをかけていて、川沿いには煙草を吸う釣り人が何人かいた。
なんとなくここがゴールのような気がして、釣り人の気に障らないように端っこに身を寄せ、川の流れを見つめた。
「……」
僕はようやく落ち着いた気持ちで、今日一日のおさらいをした。
僕は常識を見落としていたのかもしれない。女性というのは、男の視線に敏感に気づくという常識。僕の視線なんて、とっくにお見通しだったんだ。
こっち見んな、という文字は僕の心をずいぶんかき乱してくれた。かつて泰葉にも言われたことだったから、特別動揺したのだと思う。すごく心がざわついた。なんだ、僕はそんなにあのセリフを気にしているのか。
でも、泰葉と手代木さんは態度が全然違う。泰葉はまったく僕の方を見てくれなかったけれど、手代木さんは僕を二回も見た。
怖がっていた泰葉が僕と目を合わせなかったのは分かる。だったら、手代木さんは何なんだ。最後なんか、笑ってたぞ、こっち見んなっていいながら、いやらしい表情で。あ、分かった、僕を馬鹿にしていたんだな、そうだ、そうに違いない。
……そんな言い方しなくても良いのにな。もっとこう、何か用? とか、どうかした? くらいで良いと思うな。こっち見んなって、どうしてそんなにきつい言い方をするんだ。そんなに僕を傷つけるのが楽しいのかな。
悔しい、すっごく悔しい。もう二度と手代木さんの方を見ないでいてやる。いや、女性そのものだって、もう見たくない気分だ。みんなして僕を傷つけようとしている。きっとそうだ、そうなんだよ……
「――高山耕太」
「へっ?」
唐突に背後から声がして、体育座りしていた僕に、誰かが後ろからのしかかってきた。首に腕が回されて、その腕から嗅いだことのない他人の家のにおいが鼻に流れ込んだ。
「足早いのな、高山耕太」
「えっ! 手代木さん? や、やめてよ、離してっ」
「無理、というか、嫌」
くんずほつれつして、揉み合いになっていた。それに気づいた年配の釣り人が冷やかした。
「いいねぇ、若いってのは」
「ヒューヒュー、お熱いこった、はははっ」
僕が悶えながら、ちがいますっ、これは、なんて言い訳をしても、
「いやぁ、こっちはもう帰るけん、ワシらのことは気にせんでくれ。何しよっても、通報なんてせんよ、アハハ」
「えぇもん見たの、ある意味釣果じゃの」
「おうよ、爆釣じゃ。この分だと、日本の未来は明るいわ」
「ぐはははっ!」
「――おい、こら、高山、暴れるな」
「うぁああ!」
手代木さんの、女の子の体が僕に覆い被さって、あの無造作な長い黒髪が顔に当たって、手首を取られて、押さえつけられている。男の僕が、女の子に、押さえつけられている!
「わっ」
僕が力任せに押し返すと、手代木さんは途端にのけぞって、押し倒したようになった。
彼女とまた目が合う。でも、今度は視線を外さなかった。僕は怒りの感情に味方されていて、ほとんど睨むような目つきで彼女を見た。彼女の表情は、最初に見たときの、あの無感情な気配に、少量の驚きを塗布したような感じだった。
「良い加減にしてよ」
僕は立ち上がり、服の汚れを払った。
「……えー、絶対喜ぶと思ったのに」
彼女が不思議そうに言った。僕は彼女が何を言っているのかさっぱり分からなかった。