水
小さな頃は大好きだった霧雨
空を見上げて両手を拡げていた
嫌いになったのはいつからだろう
ベールのように優しく
全てを包む小さな水
指先で触れるとそれは大きな水になる
さらに周りの水を巻き込んで流れ
やがて1つの水になる
結局最後まで雨は止まなかった。
この時期特有の蒸し暑さと霧雨の中、最後のダンボールが部屋に運び込まれた。
引っ越し業者のトラックを何となく見送った後、僕は缶コーヒーを買った。
内覧に来た時は気づかなかったが、通りを挟んだ向かいの古い建物に自動販売機を見つけたのだ。
その建物は古風なガラス引戸の玄関があり、建物の左側に黒い鉄製の外階段がついていた。
玄関の佇まいは戸建ての住宅だが、外階段があるところをみると二階をアパートとして貸していて、一階が大家さんの住居になっているのだろう。
外壁の所々に枯れた蔦が絡んでいて、それがより一層建物を古く見せていた。
そして販売機はその外階段の下にひっそりと隠れるように置かれていた。
ポケットの小銭を確認しながら近づくと、建物に劣らず販売機もかなり古かった。
最近の販売機はとてもたくさんの飲み物が並んでいるが、その販売機は6種類の飲み物だけが横一列に並んでいる古いタイプで、動いているのかも疑わしいほどに全体が錆びだらけだった。
並んでいる見本の缶も日焼けによる色褪せがひどく、しかも見たことのない物ばかりが並んでいた。
唯一見た事のあるピーチネクターは傾いて隣の缶に寄りかかっていた。
何より奇妙なのは右端に乾電池が並んでいた事だ。
単2電池の2本パックだが、ジュースの販売機に電池を入れて果たしてちゃんと出てくるのだろうか?
しかもよりによってあまり需要の無さそうな単2電池だ。
どうせならもっと需要のある単3にした方が良さそうなもんだが…
飲み物のメーカーもバラバラで、なぜか電池も一緒に売っているなんて、大家さんが単なる趣味として管理している販売機なのかもしれない。
『そもそもこの販売機、ほんとに動いてるよな?』
お金だけ取られて何も出てこなそうな雰囲気も多分にあるが、販売中と書かれたパネルは微かに光っている。
その緑色のランプを信じて僕は100円玉を入れた。
コーヒーは1種類だけだった。
〈ABCコーヒー〉
まるで、怪しげな販売機をさらに怪しくするためにつけられたような商品名だ。
胡散臭さを隠そうともしない、ある意味力強いその不器用なネーミングに不安はあったが、僕はそのボタンを押した。
ガタン、、カラン、、、チャリ
とりあえずはちゃんと出てきた。
そしてお釣りが1枚ずつゆっくり払い出されるまどろっこしさには、妙な懐かしさを覚えた。
それにしても110円の販売機が主流の今、80円というのはありがたい。
あとは中身さえちゃんとしていれば何も文句はない。
『まさか何年も前のコーヒーなんて事はないよな…』
取り出した缶の底を確認すると、1994.4 と印字されている。
製造年月なのか賞味期限なのかわからないが、賞味期限だとしてもまぁたかが2ヶ月前だ、問題ないだろう。
僕は部屋に戻ると山積みのダンボールの隙間に腰をおろし、タバコに火をつけてから缶を開けた。
「うまっ! やるなABC!」
思わず顔がほころび独り言が出るほどにそれは美味しかった。
一歩間違えば凍ってしまうほどに冷えている。
きっとコーヒーをこんなに冷やしてしまっては、香りだのコクだのといったコーヒー本来の味わいとは違ってしまうのだろうが、僕の好みにはピッタリだった。
引っ越しの疲れを癒すべく、しばらくのんびりとタバコを吸いながらコーヒーを飲んだ。
タバコを消して空き缶を流しに置いてから、僕はダンボールを押し退けてスペースを作り、仰向けに寝転がった。
築30年以上経っているその部屋の天井には、木目がくっきりと浮き出ていた。
僕は小さい頃から木目で遊ぶのが好きで、柱などにある木目を線路に見立てて指で辿ったり、今みたいに寝転がった時は天井の木目を目で追いかけていた。
そうして見ていると、それが徐々に渦巻いて自分が吸い込まれてしまうような不思議な感覚になるのが好きだった。
そして今も木目の催眠術で瞼が重くなり、だんだんと視点が定まらなくなってきている。
僕はうとうとしたまま、子供の頃のぼんやりとした記憶を無意識に辿っていた。
真新しいダンボールの匂いに混じって、どこか懐かしい古い畳のホコリっぽい匂いがした。
通学路の途中にある電気屋さんの前に、乾電池の自動販売機があった。
それはジュースの販売機に比べて背が低く、四角いロボットの形をしていた。
一度その販売機で電池を買ってみたいと、前を通る度にいつも思っていた。
『電池の販売機なんて珍しいから』ただそれだけの理由だった。
そんなある日、僕は母に買い物を頼まれた。
そのメモに『細い電池4本』と書かれているのを見つけた時はすごく嬉しかった。
買い物に行くのが好きで、普段から買い物に慣れていた僕はいつものスーパーで他の買い物をさっと済ませた。
会計中にレジの横で売っている電池を見ながら、僕はとてもワクワクしていた。
スーパーを出て自転車に乗ると遠回りをして電気屋さんに向かい、そしてついに僕はあのロボットの販売機で電池を買うことができた。
見た目はロボットだが特に変わった演出は無く、普通に商品とお釣りが出てくるだけだったが、僕は満足だった。
『明日絶対コウちゃんに自慢しよう!』そんな事を考えながら、僕は自転車のスピードを上げた。
家に帰った僕は興奮して「お母さん! この電池、自動販売機で買ったんだよ! お店じゃなくて、販売機で買ったんだよ!」と得意になって報告した。
しかし母の反応は「えっ!? 販売機は高いのよ…」と、冷たいものだった。
どのくらい眠ったのだろう。
いつの間にか本降りになった雨が窓を叩いている。
部屋の中はすっかり暗くなり、天井の木目も見えなくなっていた。
引っ越しからちょうど1週間目の真夜中、僕は男の怒鳴り声で目を覚ました。
時計を見るとまだ3時を回ったばかりだ。
『金返せー! この野郎! ドロボー!』などという怒鳴り声と、何かをドンドン叩く音が聞こえる。
初めは喧嘩か借金取りかと思っていたが、どうやら男は酔っていて、ただ1人でわめいているようだ。
となると、おそらくあの販売機にお金を入れたのに何も出てこなかったんだろう。
僕はすぐにそう思った。
呂律が回っていないので何を言っているのかほとんど聞き取れなかったが、しばらくすると諦めたようで、わめきながらも男の声は遠ざかっていった。
おかげですっかり目が冴えてしまった僕はカーテン越しの月明かりを頼りに、テーブルの上に置いたタバコを見つけて火を点けた。
そして何とはなしに通りに面した窓のカーテンを少しめくって外を見た。
辺りに人影はなく、階段の隙間にあの販売機が見える。
夜になっても商品を照らす蛍光灯が点かないので、そこに販売機がある事を知っている人以外はその存在に全く気づかずに通り過ぎるだけだろう。
『ん?』購入ボタンのランプが光っているように見える。
もしかすると、さっきの酔っぱらいが入れたお金が今頃になって認識されたのかもしれない。
僕はすぐにサンダルを突っ掛けて外に出た。
連日の蒸し暑さはなく、空気が冷たくて少し肌寒かった。
玄関を出て左にある販売機の前に回り込むと、やはり購入ボタンが点灯している。
『やっぱし! ラッキー!』
僕はABCコーヒーのボタンを押した。
ガタン、、カラン、、、チャリ
『これはこれはご丁寧にお釣りまで、ありがとうございます』と、僕はふざけて販売機に手を合わせ、お釣りをポケットに入れてから缶を取り出した。
いつも通りキンキンに冷えたコーヒーを手に部屋に戻ろうとした時、僕は何ともいえない気持ち悪さを感じた。
‥誰かが見ている?
体中の産毛に何かがそっと触れているような、ゾワゾワとした感覚だった。
街灯が遠く、ほぼ月明かりのみを頼りに奥の方を窺うと、縁側にたくさんの植木鉢が並んでいるのがわかった。
緑色の如雨露が転がっている。
白い花の咲いている鉢は、この暗闇の中では花だけがぼうっと宙に浮いているように見える。
そしてさらに奥の方は、隣家との境にある木が建物に向かってアーチ状に枝を伸ばし、その葉っぱが月明かりを遮って暗いトンネルのようになっていた。
あのトンネルの中に誰かいるのだろうか…
しばらくして暗さに目が慣れてくると、突き当たりにある物置の前に白いプランターが乱雑に積み上げられ、竹箒や植木鉢が散乱しているのがわかった。
物が散らかったその様子は廃墟のようでちょっと不気味だったが、人影などは見当たらなかった。
誰かの視線を感じたのは気のせいだったのだろうか。
コーヒーをずっと握りしめていた手が冷たい。
部屋に戻ろうと踵を返した時、やっとその視線の主に気がついた。
「うわっ!!」
少しだけ開いている雨戸の隙間、ガラス窓の向こうから老人が僕を見ていた。
驚いた僕はよろけてそのまま後ろに転倒してしまった。
老人の顔は通りの方に向いているのに、視線だけはまともに僕に向けられていた。
ナツメ球のオレンジ色の光がうっすらと照らしているだけなので、男なのか女なのかもわからなかった。
『お…大家さんかな…?』
あたふたと立ち上がろうとする僕を、怒りを含んだような横目でじっと見ている。
こんな真夜中に敷地内を覗き込んでいるんだから、当然不審に思うだろうし実際に怒っているのかもしれない。
僕はズボンの泥を払いながら立ち上がると、その老人に対してあまりにも驚いてしまった申し訳なさと、転んだ照れ臭さを紛らわそうと苦笑いをしながら頭を下げた。
笑ってくれたらどんなに良かっただろう。
老人の表情に変化はなく、やはり怒っているような顔で僕を見ている。
これは早く立ち去った方が良さそうだ。
僕は落ちていたコーヒーを拾い、もう一度その老人に向かって頭を下げ、そのまま目を合わさないように足早に部屋に戻った。
『きっとあれが大家さんだよな… 引っ越してきてすぐ挨拶に行っておけば良かった』
自分と同じアパートの住人には挨拶して回ったのだが、向かいの家までは思いつかなかった。
そしてタイミングも悪かったのか、引っ越してきてから1度も向かいの人とは顔を合わせた事がなかったのだ。
もしお互いの顔を知っていれば、あそこまで睨まれる事もなかったような気がする。
『明日、挨拶がてらさっきの事を謝りに行こう』
そんな事を考えながら電気を消して、布団に入る前に何となくカーテンをめくって外を見ると、前歯のない老人がすぐ目の前に立って笑っていた。
「うわっ!!」
のけぞった僕は布団に足を取られて後ろにひっくり返ってしまった。
『えっ!なんで!? なんで僕がここに住んでいるとわかったんだ!? それになんで…なんで笑ってるんだ!?』
光の加減なのか、さっきは80才くらいの老人に見えたが、もう少し若そうな男の人だった。
『さっきは怒っていて、今は笑っていた。許してくれたのか? いや、それにしてもこんな夜中にうちまで来る意味がわからない。そもそもカーテンを開けなければそこにいる事さえ気づかなかった。それにカーテンを開ける前からあの人は笑っていた…』
敷地に入り込んだ事で文句を言われるのなら納得はいくのだが、あの人は笑いながら僕の部屋の窓の前に立っていたのだ。
妙な薄気味悪さを感じながら、カーテンの隙間からもう一度外を見ると、老人の姿は消えていた。
『きっと、あの酔っぱらいが騒いでいたせいで大家さんも目が覚めて、それで外の様子を伺ってたんだ。そこに僕が現れて庭を覗き込んでいたから、不審に思って僕を監視していたんだろう。もしかしたら大家さんも100円を狙っていて、僕がそれを取っちゃったから怒っていたのかも… それにしても、どこで会ったんだろう… 』
そう、落ち着いてくるとさっきの人がどこかで会ったことのある人に思えてきたのだ。
とりあえず家の前で会ったことはない。
いつも乗る電車、駅前の八百屋、スーパー、図書館…
最近の記憶の中からは思いつかない。
ただ道ですれ違ったことがあるだけなのか、それとももっと昔の記憶なのか…
しばらく考えたが、結局思い出すことはできなかった。
新聞配達のバイクの音が聞こえる。
電気を点けっぱなしのまま布団の上に転がり、天井の木目を眺めているうちに僕はいつの間にか眠っていた。
上の階の子供が走り回る音で僕は目を覚まし、その日は仕事が休みだったので、のんびりとトーストと目玉焼きの朝食を作った。
熱いコーヒーが飲みたい気分だったが、引っ越し前に残り少ないインスタントコーヒーを捨ててしまったので諦めるしかなかった。
生ぬるくなったABCコーヒーでパンを流し込むと、簡単に身支度を整え、まだお店は開いていない時間だが僕は外に出た。
どこかでお煎餅でも買って、向かいの家に挨拶に行くつもりだ。
アパートの陰から通りの様子をうかがうと、向かいの玄関は閉まっていて人影もなかった。
僕は販売機のある方とは逆に、とりあえず駅に向かって歩き出した。
引っ越してきてからまだ周囲を散策していないので、大通り沿いにあるスーパー以外この辺りにどんなお店があるのかほとんど知らなかった。
いつもなら大通りを越えてすぐの細い裏道を抜けて駅に向かうのだが、今日はまだ通った事の無い商店街を歩いてみる事にした。
裏道に入らずに、大通りを右に折れて進めば商店街の入口があるはずだ。
大通り沿いには色んな自動車メーカーのショールームが乱立していて、その業界の激戦区のようだ。
国内メーカーだけでなく、クラシックカーや、いわゆるスーパーカーと呼ばれる車が並べられたショールームもあった。
もしブームの真っ只中にいた小学生の時の自分が見たら、きっと大興奮していただろう。
いや、実際に今でも心ときめき、僕は1台ずつじっくりと眺めながらそのショールームの前を歩いた。
そのまま進むと程なくして商店街の入口にたどり着いた。
道の両脇に赤黄緑ピンクオレンジのしだれ飾りがあり、いかにも商店街といった雰囲気だ。
まだシャッターの下りている店が多かったが、魚屋 八百屋 豆腐屋 花屋など、準備をしたり営業を始めている店もあった。
シャッターやひさしに書かれている文字を見ていくと、その他には婦人服店や時計店などがある昔ながらの商店街だ。
《青栁》という和菓子屋さんがあったので、他に何か見つからなければ、ここでお団子でも買って大家さんに持って行こうと決めた。
その隣の肉屋さんは店先で焼鳥を焼いて売っているようで、『これは今度自分のために買おう』などと考えているうちに商店街は終わり駅前に出た。
踏切を越えた反対側は極端に店が少なく、電気屋さん床屋さん不動産屋さんくらいしかなさそうだった。
家を早く出すぎた自分が悪いのだが、和菓子屋さんの開店時間が10時だとしてもまだ30分以上ある。
どうやって時間を潰すか考えて、いつも電車から見える小さな川まで歩いてみる事にした。
線路に沿って細い砂利道があったので、そこを真っ直ぐ歩いて行くとそのまますんなり川に辿り着くことができた。
すぐそばに架かっていた橋の上から水面を覗き込むと、大きな鯉がたくさん泳いでいた。
きっとみんながここからエサをあげているんだろう。
水面を覗く僕の姿に反応して、鯉が次々に水面に顔を出し始めた。
そして更にそれに気付いたたくさんの鯉がどんどん集まってきて、さっきまでは川底が見えていたのに、すぐに一面が黒い鯉で埋め尽くされてしまった。
ものすごい数の鯉がひしめき合い、重なり合って絡み合う様子は、子供の頃にテレビで見た蛇の大群を連想させ、ちょっと気持ち悪くもあった。
何もあげる物が無くて申し訳ないので、僕は顔を引っ込めて、近くにあったベンチに腰を下ろした。
そして頭の中で、この後大家さんと対面した時のシミュレーションをしてみた。
『先ずは引っ越しの挨拶が遅くなった事を謝って、それから昨夜の事を謝ろう。相手の反応次第だけど、昨夜の事はあまり堅苦しくならずに、できるだけさらっといこう。庭の奥に猫がいたから気になって見てた とでもしておこう。まさか怒ってないよな… 笑ってたし。いや、でも、本当はそれが1番気になるんだよな。何で笑ってたんだろう… そもそも何しに来たんだろう…。向こうからその話しをしてくれればいいんだけど… こっちからはちょっと聞きづらいな。でも何だかんだ、結局は向こうの出方次第だな。』
考えていても結論は出ない という結論を出して、僕は和菓子屋さんに向かった。
「いらっしゃいませ!」
元気な店員さんのとても気持ち良い挨拶に迎えられて、僕は店内に入った。
商品はまだ出揃っていなかったが、買おうと思っていたお団子は山になって積まれていた。
一通り他のお菓子も見回したが、やっぱりお団子が無難かなと思い、みたらし2本とあんこ2本を注文した。
包んでもらっている間に店内を見回していると、和菓子屋さんにしては珍しくサイン色紙が何枚も飾ってあった。
『こんな所に芸能人が来るのかな?』と思いながら、誰のサインなのか解読しようとしていると、その視線に気づいた店員さんがニコニコしながら1枚ずつ教えてくれた。
知らない名前もあったが、かなり大物の芸能人もいたのでちょっとびっくりした。
特にみたらし団子が人気で、撮影現場への差し入れなどで100本単位の注文が入る事もあるらしい。
そこから口コミで広まったのか、芸能人がプライベートでわざわざ買いに来る事もあるそうだ。
包装が済んで240円を支払った。
そしてどうしてもその人気のお団子が食べてみたくなり、包まなくていいからと、みたらし団子を1本買った。
「ありがとうございました!お気をつけて!」
再び気持ちの良い挨拶で送り出され、僕はアパートに向かって歩き出した。
歩きながらお団子を一口食べ、すぐに『なるほど』と思った。
そもそも出来立てのお団子を食べるのが初めてだったので、だから尚更なのかもしれないが、今まで食べたどのお団子よりも美味しかった。
自分からお団子を買った事なんて今まで一度も無かったけれど、これは機会があったらまた買おうと思った。
『大家さん、玄関先の掃除でもしててくれないかな。そしたら今このままの流れで挨拶しやすいんだけど…』
そんな願いを込めながら最後の角を曲がったが、大家さんの家の玄関は閉まっていて、外には誰も出ていなかった。
僕は一旦自分のアパートに戻り、靴を脱ごうとしたのだが『いや、きっと後回しにするほど気が重くなる。今このまますぐ行こう。』と決めて、再び外に出た。
今さら迷っていても仕方ないので、躊躇せずに呼び出しボタンを押した。
《ビィーーー》
押している間だけ鳴り続けるタイプのボタンだ。
外にいても、家の中で結構大きな音で鳴っているのがわかった。
今の僕の気持ちとしては《ピンポーン》と、もっと軽い感じの音で鳴って欲しかった。
数秒で中から返事が返ってきた。
「はーい」
女性の声だ。
「先週向かいに越してきた者です。ご挨拶させていただきたくて伺いました。」
ガラガラっと引戸が開き、お婆さんが顔を出した。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。先週向かいのアパートに引っ越して… あれ?? あれ? さっきお団子屋さんに… 」
お婆さんは、僕が手に持っている包みを見て笑い出した。
「妹なんですよ。 双子のね。」
「あっ なんだ、そうだったんですか! いや、びっくりしたぁ!」
つられて僕も笑った。
そのまま雰囲気良く簡単に自己紹介などをして、実は昨夜庭に入ってしまって、ご主人を怒らせてしまったかもしれない という話しもする事ができた。
その話しをすると「あの人は元々そんな顔なのよ。全く無愛想で、ニコニコしてるとこなんかもう何十年も一度だって見たことないわ」と、お婆さんは笑った。
そして「ちょっとお茶入れるから、どうぞ 」と、奥に入っていってしまった。
「えっ!? いや、結構ですよ もう失礼しますんで… 」
その声はお婆さんに届いていないし、どうにも抗えない空気を感じ、僕は諦めて玄関に入り引戸を閉めた。
『なるほど、さっきのお団子屋さんのお婆さんにそっくりだ。人懐っこくて明るい元気なお婆ちゃん。』
そんな事を思っていると、
「どうぞ! 遠慮しないで! 年寄り2人でいつも退屈なんだから! さぁ!」と声がする。
僕は靴を脱いで奥へと進んだ。
居間に通されると、そこでお爺さんが新聞を読んでいた。
老眼鏡をしたまま上目遣いでチラッと僕を見て、またすぐ新聞に戻ってしまった。
挨拶のきっかけを逃してしまい、所在なく立ち尽くしていると、お婆さんがお茶を持って戻ってきた。
「ほらあんた! なに新聞なんか読んでんのよ! お客さんが来てるのに失礼でしょ!」
「あ、いえ ぜんぜん、そんな… 」
「ほら、あなたもそんなとこに立ってないで、こっちにお座りなさい。」
僕がお爺さんの正面に座ると、お爺さんは新聞を畳んでテーブルに置いた。
「先週向かいのアパートに越してきた者です。 昨夜は驚かせてしまってすみませんでした。」
僕が頭を下げると、お爺さんの口元が少しだけ上がった。
どうやらさっきお婆さんが言っていたのは決して大袈裟な話しじゃなくて、本当にほとんど笑わない人なのだと気がついた。
でも今は間違いなく笑ってくれた。
目がとても優しい。
「私達はこれもう飽きるほど食べてるから、どうぞおあがんなさい。」
お婆さんが、僕が買ってきたお団子をお皿に乗せて出してくれた。
手をつけないのも失礼だと思ったので、僕は遠慮なくごちそうになった。
「実はさっきこれを買った時に、どうしても自分でも食べたくなって1本買って食べながらきたんですよ。本当においしいですね! このお団子!」
「みなさんにそう言っていただいて、ありがたい事です。」
そこから小一時間、ほとんどお婆さんが1人で喋っていた。
僕は「そうですね」とか「そうなんですか」と相槌を打つだけで、お爺さんも同意を求められた時に「ああ」と低い声で答えるだけで、他には何も喋らなかった。
お婆さんの話す勢いを見ていると、お爺さんが無口になるのもちょっとわかる気がした。
それでもお婆さんの話しは決して退屈ではなく、とても面白かった。
和菓子屋さんは妹夫婦がやっていて、このお婆さんもたまに店番をする事があるらしい。
妹さんとはさっきお店でサインの話しをしただけだったが、喋るのが大好きな人だというのはすごく感じ取れた。
お正月に親戚一同が集まったら一体どんな騒ぎになるんだろうと想像すると、おかしくもあり、お爺さんがちょっと気の毒にも思えた。
お婆さんの話しが途切れたタイミングで「それでは…長くお邪魔してしまって失礼しました」と僕が腰を浮かせると、お昼を食べていくよう勧められたが、さすがにそこはきっぱりと断った。
正直ちょっと疲れたのもあるが、ある事がとても気になってきて、それを考えてみたかったのだ。
「またいつでもいらっしゃいね」とお婆さんが玄関口で見送ってくれた。
「ありがとうございます 失礼します。」と頭を下げ、僕は引戸を閉めた。
「ふーっ」
僕は普段ため息は絶対につかないよう心掛けているのだが、この時ばっかりは無意識に音を立てて息を吐き出していた。
そしてABCコーヒーを買って部屋に戻ると、ずっと我慢していたタバコに火を点けた。
『やっぱりタバコにはコーヒー、コーヒーにはタバコだな。』
多くの喫煙者に同意を得られると確信している僕の持論だ。
そして『何だかんだ理由をつけて、喫煙者はタバコを吸う』と、世間には思われていることだろう。
『さて… 』
さっきから気になっていた点、それはあのお爺さんの事だった。
今日会ってみた印象で、お爺さんは決して怒っていたわけではなく、怒っているように見えただけだという事がわかった。
その点については安心した。
しかし気になったのは別のところだ。
昨夜庭に入り込んだ僕を雨戸の隙間から怒ったような目で見ていたのは、間違いなくさっき会ったあのお爺さんだった。
しかし、うちの窓の前に立って笑っていた人、あれは全くの別人だ。
あれは一体誰なんだ。
どこかで会った事があるような気がするのに、それが思い出せないのがやはり気持ち悪い。
改めて学校の先生や駅員さん… 年齢的にその辺かなと思う人達の顔を思い浮かべたが、やはり出てこなかった。
いつまで考えていても埒が明かないので、あの人は知っている人でも何でもなく、たまたまうちの前を通りかかっただけの人だった と思う事にした。
笑っていたのは、ちょうど思い出し笑いでもしていただけだろう。
そんな風に自分なりに納得しておかなければ、気味が悪くて仕方がない。
僕は残りのコーヒーを飲み干した。
それから数週間、特に何事もない日々が続いた。
お婆さんとはアパートの前で何度か顔を会わせたが、挨拶を交わす程度で済んでいる。
しばらく気になっていたあの謎の人物とは、あれから1度も会うことはなく、もうほとんど気にならなくなっていた。
ただ、暗くなってからカーテンを開けるのはどうしても気味が悪くてできなかった。
7月の最初の日曜日、実家から電話があった。
家のリフォームをするから、自分の必要な物があるなら持っていけ という内容だった。
僕が4年前に家を出て、妹も去年から1人暮らしを始めたから、その2部屋をつなげて広く使いたいらしい。
もちろん反対などしないが、これはちょっと面倒くさい事になった。
いると言えばいる、いらないと言えばいらない、僕が実家の部屋に残してきたのはそんな物ばかりなのだ。
小さい頃大好きだった絵本や、全30巻を揃えたマンガ、まぁこの辺は持ってきてもいいだろう。
壊れたラジカセや、ミカン箱いっぱいのメンコ…
こういう物だ。
使うのかと聞かれたら、使わないとしか答えようがないが、なかなか捨てられない物達だ。
だから実家の部屋を倉庫代わりにしていたのだ。
再来週の月曜には工事が始まってしまうらしいので、とりあえず今日の午後に荷物を確認しに行くことにした。
両親は出かけるみたいだが、実家の鍵は持っているので、「勝手に入って勝手にやっておくから」と言って僕は電話を切った。
今度のアパートと実家は同じ沿線なので、40分もあれば行くことができる。
いつでもすぐに行けると思えばなおさら足は遠退き、実家に帰るのは正月以来だった。
たまにはお土産でもと思い、みたらし団子を買ってから電車に乗った。
乗客が少なく静かで、心地よい揺れにうとうとしかけたところで最寄り駅に着いてしまった。
改札を出て歩き出すと、たった半年ぶりなのに、歩き慣れた地元の商店街がまた一段と古くなったように感じた。
古いだけでなく、道幅も狭くなり、お店も小さくなったように感じられる。
自分の身長が伸びたわけでもないのに、少し日にちを開けるといつもそんな感覚になるのが面白かった。
実家に着き、僕は鍵を開けて中に入った。
去年までなら、飼っていた犬が喜んで飛びついてきたのに、それがないのが淋しい。
家の中はしんと静まり返っていた。
早いところ済ませてしまおうと、僕は自分の部屋に入った。
まるでここだけ時が止まっていたかのように、僕が出ていった時のままだ。
全体にうっすらと積もるホコリだけが、ここにも時が流れていたという事を証明していた。
本やマンガなどを読み始めてしまうと終わらなくなるのが目に見えていたので、絶対に開かないと誓ってから選別を始めた。
それでもやはり、懐かしい表紙などを見つけると、誘惑に負けてパラパラとめくってしまった。
もしかしたら半日ぐらいかかるんじゃないかと思っていたが、意外とすんなりと、1時間程度で全ての物を別ける事ができた。
やはり捨てられない物が多く、持って行く物は多くなってしまった。
後で宅急便で送ってもらおうと、分かりやすくまとめたが、ダンボール4箱くらにはなってしまいそうだ。
狭いアパートだが何とか工夫して収めよう。
喉が乾いたので、僕は台所に行き冷蔵庫を開けた。
麦茶があったのでコップに注いで飲み干したところで、隣の和室の仏壇が目に入った。
いつもなら実家に帰ると1番最初におばあちゃんにお線香をあげるのに、今日はうっかり忘れていた。
お線香をあげ《チンチーン》と鈴を鳴らし、『いい事ありますように』と手を合わせた。
おばあちゃんは一昨年、肺炎をこじらせて亡くなってしまった。
僕は顔を上げ、じっとおばあちゃんの遺影をみた。
僕が叱られた時、いつもかばってくれるのはおばあちゃんだった
お菓子もたくさん買ってくれた
夕方おばあちゃんがお相撲を見てる時、その膝枕は僕の特等席だった
遠足の時は、いつも家の前で僕の帰りを待っていてくれた
クワガタ取りにも連れていってくれた
いつも優しかったおばあちゃん
『もう一度会いたいな 会いたいよ おばあちゃんにもう一度会いたいよ… 』
僕の目からは涙が溢れていた。
写真のおばあちゃんは笑っていた。
気持ちが落ち着くまで、僕はしばらく目を閉じていた。
『うん、もう大丈夫だ』
僕はゆっくりと目を開けた。
おばあちゃんは笑っている。
泣いちゃったのが恥ずかしくて、僕もちょっと笑った。
そしておばあちゃんの写真からちょっと視線をずらした時、僕は思わず「あっ!」と声を出した。
そこにはまだ若い時のおばあちゃんと、僕が生まれる前に亡くなってしまって、一度も会ったことのないおじいちゃんが並んで写っている写真があった。
『あの人だ!! 僕の部屋の前に立ってたあの人だ!!』
僕は心臓の鼓動が早まるのを感じた。
『写真のおじいちゃんは笑ってないけど、間違いなくあの人だ!』
『あれは… あれは僕のおじいちゃんだったんだ… 』
『でも、でもなんで… おじいちゃんはもう死んじゃってるのに…』
答えなど到底思いつかなかった。
心臓はドキドキしていたがそこに恐怖心は無く、ただただ不思議だった。
その夜、僕は夢をみた。
僕は大家さんのうちの居間にいた。
だけどそこに大家さんはいない。
テーブルの角を挟んで、僕のおじいちゃんとおばあちゃんが座っていた。
おじいちゃんはランニングを着て団扇で扇いでいる。
縁側に吊るされた風鈴が涼しげな音を奏で、おばあちゃんは葡萄を食べていた。
おばあちゃんがおじいちゃんに言った。
「あなたもしっかりこの子を見てあげてくださいよ」
「見てるよ なぁ」
おじいちゃんが僕に向かって笑った。
僕も笑った。
おばあちゃんも僕を見て笑った。
目が覚めると涙が溢れ出した。
目を閉じていても涙はずっと止まらなかった。
「お届け物でーす!」
3日後の夕方に、実家から例の荷物が届いた。
どうやらダンボール3箱に収まったようだ。
1つ目の箱を開けると、『こんなにたくさんあるなら、自分で箱につめとけ!』と母からのメッセージが入っていた。
僕は笑いながら、僕なりの宝物達を取り出していった。
最後の箱まで全て出し終わった時、大切にしていた懐中電灯が入っていない事に気がついた。
夏休みの夜に隣駅の神社にクワガタ採りに連れていってもらった時、懐中電灯を持っていくのを忘れてしまい、その時におばあちゃんに買ってもらったやつだ。
近くに電気屋さんがないので、小学校の前にある文房具屋さんにダメ元で聞いてみたら、その懐中電灯を売っていた。
持つところが黄色でランプの周りが青色の懐中電灯だ。
その時クワガタがたくさん採れたのもあって、僕の中では一番のおばあちゃんとの思い出だ。
その懐中電灯が入っていない。
確かに実家で別けている時も見かけなかった。
小物をごちゃごちゃとまとめている箱に入っているかと思い開けてみたが、そこにも入っていなかった。
「あっ! 仏壇のとこだ!」
前に停電になった時に僕がその懐中電灯で室内を照らし、電気が付いた後に仏壇の隙間に置いたのを思い出したのだ。
『こないだ気付けば持ってきたのになぁ…』
そう思いながら、僕は実家に電話をかけた。
「もしもし、仏壇の横に黄色い懐中電灯あるでしょ、それ今度行った時持って帰るから、そのまま置いといて」
「懐中電灯? あれ電池無くなってたし、汚いからもうだいぶ前に捨てちゃったよ?」
「えっ!!?」
「懐中電灯欲しいなら、新しいやつ持ってっていいよ」
「…… いや、いらない」
僕は電話を切った。
ショックだった。
一人暮らしを始めた一番最初から持って出るべきだった。
ここにあるダンボール3箱、この全てと交換してでも取り返したかった。
その後は片付けをする気にもなれず、そのまま夜になり、僕はガラクタに囲まれたまま眠っていた。
子供の声が聞こえて目が覚めた。
時計を見ると3時06分。
『子供?こんな時間に?』
どうやらうちのすぐ前にいるようだ。
あの時の酔っぱらいが販売機を叩いていたのも、今頃の時間だった。
こないだまでは気味悪くてカーテンをめくれなかったが、おじいちゃんとおばあちゃんの夢をみてからは、恐怖心は消えていた。
こんな時間に子供の声というのが気になったので、僕はカーテンをめくって外を見た。
小学3年生くらいの男の子と、小柄な女の人があの販売機の前に立っていた。
何か違和感があると思ったら、販売機の蛍光灯が点いている。
いつも真っ暗だったのに、いつの間にか大家さんが蛍光灯を替えていたらしい。
「これだよ! これちょうどいい! 2本だし! これ買って!」
子供がそう言うと、女の人がお金を入れた。
ガタン
「ねぇ見て! ジュースの中に入ってるよ!面白い!」
その声を聞いて『なるほど、電池を空き缶の中に入れて売ってたのか!大家さん頭いいな』と関心した。
その時、こちらに背を向けていた女の人が体の向きを変えて、横顔が見えた。
『おばあちゃん!!』
『おばあちゃんだ!間違いない!僕のおばあちゃんだ!』
『ということは、あれは… あれはもしかして僕なのか?』
男の子をよく見ると、黄色い懐中電灯に一生懸命電池を入れようとしている。
そしてパッと灯りが点いた。
「やったー! おばあちゃん、早く行こう!」
男の子がおばあちゃんの手を引っ張って歩き出すと、窓からは二人が見えなくなってしまった。
僕は急いで部屋を飛び出した。
10メートルくらい先に二人の姿があった。
二人は柔らかい光に包まれていた。
「おばあちゃん!!」
僕は叫んだ。
おばあちゃんがゆっくりと振り向いた。
いつもと同じ優しい笑顔で僕を見ている。
「待って! おばあちゃん! 行かないで!」
おばあちゃんはニコニコしたままゆっくり頷いた。
そしてまた前を向いて歩き出してしまった。
「待って! おばあちゃん! 待って!」
僕が走りだそうとした時、二人を包む光はゆっくりと消え、二人の姿は見えなくなってしまった。
いつの間にか販売機の蛍光灯も消え、僕の周りには暗闇だけが広がっていた。
優しい霧雨が僕を包んでいる
涙は溢れ
頬を伝い流れた
いつまでもいつまでも流れ
そして1つの水になる