あれがトウマ・ライナスか
“青の国”の都アオルタは、彩王朝末期の混迷した時代から各国が覇を競った5年もの間、戦火にさらされることもなく、豊かで平和な町だと知られている。戦後の今日、噂を聞きつけて仕事や食を求めて人が集まり、町の勢いは年ごとに盛況さを増している。
――だが、光も強い分、闇もまた深い。
建物の陰から目抜きの大通りを眺めながら、男は心の中で嘆じていた。
男は破れた竹笠を被り、乾いた黒い髪が時々風に揺られている。身にまとうローブもローブというより、汚れ切ったぼろ雑巾をローブのように使っているだけのようにしか見えず、その下の衣服も粗末な麻でできて、そこかしこが破れている。しかし一見、痩身だが手足が異様に長く、祈りのために立てた右手と、小銭の入った鉢を持つその手の拳頭には石でも埋め込んだような拳ダコができている。肌は黒いが、それが地黒なのか汚れによるものなのか、彼を見た通行人も判断できなかったろう。
全身がひどく汚れきった男ではあったが、笠の下から覗く瞳だけは、夜空に浮かぶ星のように輝いていた。
男の視線が多くの人が行き交う街並みから、後方の狭い路地へと移る。
男とさほど身なりの変わらない人間たちが、無気力や無力感を漂わせながらそこかしこに座り込んでいる。その中には子供たちや乳飲み子を抱えた女の姿もあった。
――“黒の国”の闇を、ここアオルタでも抱えているわけか。
豊かな生活を求めようと国内外からアオルタへと流れてくるため、アオルタの人口は増加傾向にあったが、仕事にあぶれる者や異国に文化に馴染めず、道から外れる者もまた増加していた。彼らを国内の魔物や野盗退治、道路などインフラ整備に当てるという案もあり、実行されてはいるが、過酷な労働や軍紀を嫌がったり怖気づいたりして逃走し、野盗化するなど思うようには成果がなく、流民は“青の国”で新たな悩みの種となってしまっている。
「おや、坊さん。托鉢かい」
明るく声を掛けられ、振り向くと若い男が立っている。
若い男は修行頑張ってよと、銅貨二枚を鉢に入れて去っていった。皮の帽子に膨らんだ肩掛け鞄や腰に下げた刀の様子から、若い男は“配達士”のようだった。似たような格好をした少年が隣に歩いていて、少年が何事か話しかけている。金を恵んでくれたおかげというべきか、男がなんとなく二人の様子を気にしていると、少年が会話の中でトウマさんと呼ぶのを耳にすると、男は弾かれたように顔を向けて“配達士”の背を視線で追った。
――トウマといったな。あの男がクロンの言っていたトウマ・ライナスなのか。
男はじっとトウマらしき若い男の後姿を凝視していたが、やがて間違いないと確信した。足の運びや腰の位置。柔らかな自然体でまるで隙が無い。融通無碍という武における境地を表す言葉を男に思い出させ、なるほどと納得しながら大きく頷いた。
――たしかに、ケフル・タッカー程度ではあの男に勝てそうもないな。
では、自分が戦ったらどうなるのか。
それを考えただけで、男は全身が粟立ち、急に震えを感じていた。恐怖からなのか武者震いといったものなのかは自分でもわからなかったが、激しい死闘になるのは間違いないと直感していた。
しかしと男は嘆息した。
自分はトウマと戦うために、このアオルタの街に来ているわけではない。“彩花衆”リーダーのシーリング・ローゼットからも、これまでの二度も苦い経験をしていることから、トウマをはじめとしたアオルタ郵便局の“配達士”に関わるなと厳命しているのだ。
「ねえ、おじちゃん。タコみたいな顔してる、そこのおじちゃん」
不意に袖を引かれ、見ると小さな女の子が笑みを浮かべて男を見上げている。普段なら振りほどくところだが、相手が子供という点と少女の青い髪が男の目を惹き、そのままにしておいて言葉をやわらかくして答えた。
「タコみたいな顔とは、私のことかね」
「うん。たらこ唇に丸いお目目がタコみたいだもん」
そうかと、タコ顔と評された男が苦笑いした。
「……で、そのタコ顔の私に何か用かな」
「切った爪をちょうだい」
「私の爪など何に使う」
「特にないけど集めているの。もうこんなにたくさんあるよ」
ほらと瓶を男に見せると、そこには人の爪がびっしりと詰まっている。
いったい何の目的でどれだけの人間から集めたのか。幼少期に貝殻集めやセミのぬけがらを集めた記憶が男にもあったが、今、女の子が見せている行為からは、井戸の底のように暗い狂気に似たものを感じて全身が粟立っていた。
「……すまんな。昨日切ったばかりなのだ。お前にあげる爪はない」
「なあんだあ、つまんない」
少女は口をとがらせていたが、すぐに虫歯だらけの歯を見せて破顔してみせた。
「おじさんてさ、もしかしてお坊さん?」
「よくわかるな。その通りだ。どうしてわかった」
「だって、雰囲気からお坊さんて感じだもん」
少女はそういうと、男の手をとってしげしげと見つめた。
「おじさんの手て、革の手袋みたいに分厚いし、岩みたいに拳が硬そうだよねえ」
「これでも鍛えている。多少は腕におぼえがあるぞ」
「座ってお祈りしてばかりのお坊さんが、どうして鍛えているの」
「私は修行も兼ねて旅をすることが多い。旅をするとな、身を守る術が必要となる。……まあ、こんなものは末技に過ぎんがな。祈りも祈りで意味があるのだが、祈りだけでは我が身を守れない」
「身を守れないなら、祈りてどんな意味があるの」
「なかなか鋭いところを突くな。お前は」
男は小さく笑うと、少女も釣られるように笑みを大きくした。
タコ顔と幼少期からからかわれてきたことであるが、長じてからは、たらこ唇のタコ顔には愛嬌があり、人の心を解かすとも奇妙な褒められ方をされた経験もある。
「欲望、怒り、不安や焦り、恐怖……。人が持つ負の感情を抑制させるために祈りは存在すると考えている。だが、凡夫の者たちは祈ることで利益を享受し、楽をして安寧を得ようと欲望に捉われている。それでは祈りは届かず、声は空しく宙に消えてしまうのだ」
「おじさんは何に祈っているの」
「私の場合、その祈りは“闘神”ラムザを鎮魂させるためにある。だが、その祈りがわが身を守るためではないために、身を鍛え、心を静かに保たねばならんのだ」
「ラムザて、童話に出てくる闘いの神様でしょ。変なのお」
少女は自分の言葉が気に入ったらしく、変なの変なのと踊るように連呼しながら、男の周りではしゃいでいる。男としては信実の言葉ではあったが、無知で無垢な少女がどう受け取ろうとかまわなかった。穏やかな笑顔を湛えたまま、少女を見下ろしている。
「わたしは生まれてからずっとアオルタなんだけど、おとうさんたちは西の“紅の国”からきたんだって。いつか行ってみたいなあ」
「お前の両親は、今は何をしている」
「わかんない」
「わからない、とは?」
「お父さんどっか行っちゃったし、お母さんは知らない男の人連れてくると、わたしを家から追い出すの。今もそうだよ」
唸るように呟く少女に一瞬、暗い影がその表情に過ったが、すぐに汚れた歯をみせた。
「でも、大きくなったらおとうさんたちがいた“紅の国”まで行ってみるんだ。どんなとこか見てみたい」
「そうか……。ところで、お前のその青い髪は珍しいな。エルフ族の者か」
「お母さんがそうだけど、青い髪なんてぜんぜん珍しくないでしょ。あそこにもいるよ」
ほらと指差した先に、人ゴミに紛れて青い髪をした若い女が通り過ぎていく。その女だけではなく、男の視界にぱっと映っただけでも2、3人の青い髪をした男女がいた。青い髪はこの大陸におけるエルフ族の特徴のひとつだが、深い森に住むエルフ族が珍しかったのは数百年以上前の話で、開拓や交配の進んだ現在ではそれほど珍しいものではなくなっている。男もそれは承知していたが、男や仲間が捜しているリイサ・ペンシル王女が青い髪だという共通点や少女への哀れみから何となく訊ねたにすぎない。目の前の少女は、“彩花衆”のリーダーから聞いている年齢や特徴も異なる。
「そろそろ行かねばな。達者で暮らせよ」
「おじさんも元気でね」
男は身を翻すと、足早に大通りへと足を運んだ。ちらりと後ろを振り向くと、少女は男この存在などもう忘れたように、熱心な表情で瓶の爪を眺めている。再び少女への憐憫の情がわいてきたが、少女のように陰惨な暮らしをしている子供など数えきれないほど存在するのだ。それに、救済活動のために“黒の国”からこのアオルタまできたわけではない。大事の前に障子に拘るなと、男は自らを戒めていた。
男は大通りに入ると北の三番街区に向かい、途中の靴屋がある十字路の角を右に曲がって細い路地へと入った。人気が少なく、町のざわめきも家屋に遮断されたように、急速に遠のいていく。果物屋や雑貨店など2つ3つ店はあるものの、平屋の民家が軒を連ねている裏町といったところでひっそりとしている。男が無言のまましばらく歩くと、唐突に木造二階建ての建物が家屋から突き出したように現れ、表の看板には“お宿ミカン亭”と文字が彫られてある。男はためらいのない足取りで建物の戸を開け、中へと入っていった。
「よお、ルノーマ・ベンド。どうだったい、アオルタの街は」
受付の気弱そうな宿の店主が声を掛ける前に、がらの悪い声が薄暗いロビーの奥から飛んできた。ルノーマと呼ばれた男が声のした方向に目を向けると、丸坊主で派手な衣服をした男がテーブルに足を乗せる格好でワインを飲んでいる。今しがた飲み始めたというわけではなく、テーブルにはすでに空となったワイン瓶が二本転がっていた。
ルノーマは銅貨の入った鉢をロビーのカウンターに置くと、静かに口を開いた。
「……なかなかの賑わいだ。“黒の国”とも引けをとらん」
「こんな安宿でも、良いワインを出せるんだからな。驚いたぜ。貧乏な“紫の国”とは雲泥の差だ。“紅の国”だとワインはともかく、飯がまずいしよ」
「まだ夕暮れには遠い時刻というのに、お前さんも結構な身分だな」
「当たり前だろ」
皮肉を込めたルノーマの視線と声にも動じた様子もなく、丸坊主の男はくくっと小ばかにしたような笑みを見せた。
その笑みでルノーマの感情が一気に沸騰していた。元々が傲岸のケフルに対して好感情などなかったのだが、トウマ・ライナスを見掛けた件など頭から吹き飛んでいた。もっとも、トウマら“配達士”の連中に関わるなとは、シーリングからケフルにも指示があるのだが、軽率で独断専行の癖があるケフルは、当時の屈辱から指示など忘れて暴走しかねない。シーリングにこっそり話すとしても、聞き耳を立てているような男なので、元から話すつもりはなかったのだが。
「何がおかしい。ケフル・タッカー」
「お前も彩王朝から続く家なのに、意外とモノを知らねえんだな。“黄の国”や“紅の国”じゃ昼食にワインとチーズをつけるのが日常だ」
「……」
「“闘神ラムザ”なんて、ろくな偶像さえもない自己陶酔野郎への無駄なお祈りばかりしているから、世間知らねえまま、つまんねえこと口にするんだぜ」
「なんだと?」
古から“闘神ラムザ”は誇り高く、似てもいない像をつくれば怒り狂うため、魂を鎮めるためにも像などはつくってはならないと伝えられている。ケフルの「自己陶酔野郎」とはそれを言っているのだが、ケフルの言動にはルノーマだけではなく、数百年以上にも及ぶ祭祀に携わってきたベンド家への侮辱が感じられた。
気色ばむルノーマを気にした様子もなく、ケフルはグラスに残ったワインを一息に飲みほした。
「それに教えてやるぜ。タッカー家はおめえんとこより古い名家なんだ。そのタッカー家の末裔である俺は、結構な身分に決まっているだろう」




