その男の名は〝クロバナ〟
男から〝クロバナ〟という名前を耳にして、老爺は顔色を変えた。
大きな目をさらに見開いて、息を呑むごとに尖った喉ぼとけが上下に揺れている。
「なに? 野郎はいつも夜にならねえと動かねえだろ」
「し、知らねえよ。それより早く店じまいしな」
そう言い捨てると男はどこかに駆け出していった。
「なんだいじいさん。何があった」
「今、話に出てたクロバナだよ。おめえの馬も裏に隠しときな。一頭なら何とかなる。裏口は開けておくからよ」
「……」
「早くしろ。大事な馬を試し斬りで斬られたかねえだろ」
老爺の剣幕に押され、トウマは急いで表へと飛び出した。見ると建ち並ぶ建物とは次々と閉じられ、通りには人の気配がまるでない。異様な事態にトウマが周囲を見渡すと、通りの奥から複数の影が並んで歩いてくる。その数は六つで体つきから男のようだった。
「……」
「ほざっとしてんじゃねえ!」
目を凝らして影を窺うトウマに、小窓から老爺の鋭い声が刺してきた。
言われるまま、トウマは〝トマリギ〟の裏に周り馬を納屋の柱に繋ぐと、ベニヤ板に申し訳程度の取っ手をつけたような、薄い勝手口から店内へと戻った。
戸締まりがされた店内はわずかな光が差し込む以外は真っ暗で、飯台や椅子もぼんやりとした輪郭を闇に浮かび上がらせている。老爺は先ほどの小窓から、じっと通りを凝視している。光はそこから差し込んでいた。老爺の近くに少女の影が浮かんでいる。暗がりで表情まではわからなかったが、息を潜めているのは気配でわかる。
「あいつだ。あの野郎がクロバナだ。真ん中の奴」
「……」
老爺に促され、トウマは小窓に近づいて、隙間からそっと覗きこんだ。左手から6人の男たちが周囲を睥睨しながら歩いてくるのが見えた。ほとんどの男たちは不快な笑みを浮かべているが、その中で一人、腰に刀を差した痩身の男だけは表情を変えない。体から尋常ではない殺気を漂わせ、まるで一本の刃が歩いているようだった。
「あれだ。あれがクロバナだ」
老爺からわざわざ教えられなくても、トウマは一目で見抜くことができた。かなりの使い手だと腰の据わりや足の配りからでもわかる。ぎらぎらした目つきには狂気じみた光が宿っている。危険な男だと思った。
「あれ……?」
ふと目に飛び込んできたものに、トウマは自分の目を疑った。クロバナの左目下と右の耳たぶに点のようなほくろがある。
――右耳たぶと左目の下にほくろがあるんだ。
イクツノで聞いた“キンザ”という男の話が、トウマの脳裏を過っていた。再び注視して確認すると、やはりその場所にほくろがある。
――しかし、まさかな。
あの研屋の話では優しい青年だという。前を横切る刃のような男とイメージが結びつかなかった。
「おい、どうした」
トウマの様子に老爺が声を掛けた時、不意に入口の戸が荒々しく叩かれる音がした。
「やい、“トマリギ”! 兄貴が酒を所望だ。どうした、首でも括ったかあ!」
「……仕方ねえな」
「待てよ」
出ていこうとする老爺の袖をトウマが掴んだ
「じいさん、大丈夫か」
「大丈夫だ。下手に逆らわなきゃいい」
言いつつも明らかに強がっているのはこの暗がりの中でもわかる。声がかすれて震えていた。
老爺は大きな深呼吸を何度もすると、よたよたとした足取りで戸のところまで歩いて行って、建てつけの悪い戸を十センチほど開けた。その途端に表から怒声が飛び込んできた。
「おい、じーさん。ぼさっとしてんじゃねえよ。酒ひと瓶よこしな。うちの兄貴が所望だ。逆らうとどうなるかわかってんだろうな」
「わ、わかってる。ま、まあ待てよ。今持ってくるからよ」
老爺は戸から離れると急ぎ足に厨房へと入っていった。トウマは腰の刀を鞘ごと抜いて戸の隙間に厳しい視線を注いでいる。トウマの様子に気づいて戻って来た老爺が「よせ」と言わんばかりに一度だけ手を振ると、老爺は戸の隙間から瓶をそっと差し出した。
「これでいいだろ」
「ふむ……。どうですかい、兄貴」
表の男が誰かを呼んだ。状況から兄貴というのは〝クロバナ〟だろうとトウマは察した。
「……いいぜ。礼をしてやんな」
〝兄貴〟らしき低い声がすると、表から銅銭一枚が投げ込まれ、哄笑とともに男たちの笑い声が遠ざかっていった。老爺は急いで戸を閉めると、完全に聞こえなくなった後で老爺の陰から深々とため息の漏れる音がした。
「……どうだいクロバナてやつは。いかにもやばそうな奴だろう」
「あぶねえな。全身が刃みたいな奴だ」
「奴が腰に差している刀が由来だ。ハナノ組の連中の話じゃ、妖刀〝クロバナ〟つうらしい。若いやつだが本名は誰も知らねえ。とにかく狂暴な野郎よ」
そこまで言ってから何かを思い出したのか、老爺はぶるっと身を震わせた。
「ま、奴に遭ったら黙って道を譲って、隅に隠れていることだな」
差し込む光で老爺の顔が浮かび上がり、盗賊が悪だくみでもするように老爺が口の端を歪めると、トウマも苦笑いして腕を組んで宙をにらんだ。黙っていると先の男たちよりも悪人に見える。
「そうした方がよさそうだな」
〝クロバナ〟がどれほどの剣士かわからなかったが、抗争に巻き込まれるよりも〝クロバナ〟と呼ばれる用心棒と対峙する方がもっとも厄介のように思えた。
妖刀に憑りつかれると理性を失い、その呪縛から解き放つには自らその呪縛から逃れるか絶命する以外に無いと言われている。
その分、得られる強大な力は計り知れない。加えて〝クロバナ“は〝キンザ〟と呼ばれる男の特徴と似ている。だが、迂闊に近づけば、間違いなく刃を交えるだろう。戦士だった頃にはなかった「迷い」という感情を懐く自分に危機を感じ、トウマは〝クロバナ〟と関わることを本能的に避けようとしていた。
「この様子じゃ仕事終わるまでしばらく掛かりそうだな。しばらく厄介になるけどいいかい」
「いいけどよ。いつまでいる予定なんだ」
「千通の手紙を配る終えるのに、長くて三日くらいかな」
「手紙を配るだけで三日も?」
驚く老爺に、地理がわからないんだよとトウマは苦い顔をした。
「それとこの町で手紙を集めるよう言われている。早く終わらせたいから、できれば町の地理に詳しいやつに案内してもらいたいんだけど……」
「……わたし」
小さな声だが不思議と通る声に老爺とトウマは同時に店の隅を見た。さきほどの少女が細い手を挙げている。
「わたし、この町の地理知ってる。番地まで憶えた」
「案内してくれるなら、それはありがたいけど……。えと……」
「ハナ」
「花?」
「ハナ・ミズキ。私の名前」
「じゃあ、ハナ。案内を頼めるかな」
「うん。明日、来る。朝、何時」
「そうだな。七時でどうだ」
「わかった」
少女はそういうと衣類などを持って席を立った。老爺に礼を言うと、急ぎ足に店から出て行く。その足取りは最初に出会った頃よりも心なしか軽いように思えた。
「〝ポストマン〟さんよ。あんた、あの子に気に入られたみたいだな」
「俺が? 会ってまだ大した時間も経ってないぜ」
「理由はわからないねえが、あの子の機嫌が良いのは俺にもわかる。それなりの付き合いだからな。ワシの推測だが、おめえさんが悪そうな奴には見えねえからかもな。あの子がよろこんでくれりゃあな、俺も嬉しくなるんだ」
「……」
「寝る場所は後で用意しておく。馬は裏に一頭くらい繋いで置ける場所があるから、そこにつないどきな。とりあえず茶をいれてくるから、ゆっくりしてきな」
老爺は嬉しそうにトウマの肩を軽く叩いた。
どうやら顔がしわくちゃな老人にも気に入られたのかもと、トウマはちょっぴりぞっとしていた。