“政道復古(リアクタンス)”へ
万年筆を把持するシーリングの左手がわずかに震えた。
“星羅連環”によって全てが静止された世界の中で、自分が遂行するべきことは、充分わかっている。
無防備状態となった難敵アルフレッド・フォークナーの喉元に、鋭利な万年筆を突き立てる。体力を奪われた自分でも、ふざけた名探偵に致命傷を負わせることが可能なはずだった。
しかし、勝負を決める肝心の左手は、小刻みに震えている。
シーリングは、自身の震える左手を睨みつけて舌打ちした。
——やはり、苦手なものは、こんな時でも苦手なままか。
かつて、シーリングは育ての親であるホルソ・コードを刺殺して、事実上、組織を乗っ取ったのだが、恐怖の反動と培われた恨みのあまりに出来た行動で、シーリングは刃物を苦手としていた。
度胸試しという名目で、裏切った部下や敵対組織の人物に対し、解体用のナイフや包丁で始末するようホルソから何度か命じられたことがあったものの、その経験も深い心の傷を与えただけで何の成長にも繋がっていない。強力な魔法を身に着けて始末する術は憶えたものの、結果的にはホルソへの怨恨を強めただけだった。
アルは乗り越えなければならない相手ではあったが、体の反応からすると、ホルソほどの感情を向ける相手ではないらしい。
——しかし、今は震えている場合ではないだろうが。
自身を叱りつけながら、シーリングは一歩一歩近づいていく。
アルとの間で止まっている銃弾を左に避けて、シーリングはそのまま進んだ。
時間を静止させる直前に放った銃弾は、角度から正確にシーリングの心臓へと向かっている。
これで決着だと、シーリングは左手に力を籠めた。少しでもシーリングの行動を阻止しようと顎を引き構えた両肩で喉元を防御し、腹部にも力が入っているのがわかる。しかし、時間が止められた世界では、無意味な行為でしかない。後ろの首筋はまるで無防備で、たかが万年筆と言っても、頚椎に突き立てれば致命傷を与えられるだけの鋭さはある。
シーリングはアルの背後へとまわっていった。
——これで、終わりにするぞ。
自分に言い聞かせるかのように、心の中で呟き、万年筆を振り上げようとした刹那、左手がまた震えたのを感じた。
思わず、上がらない右手で左手の震えを抑えた。
無理な動きをしたために、尋常ではない激痛が右肩を中心にシーリングの全身に拡散していく。一瞬、視界が歪んだ。
それだけではなく、体が地上に向かって傾いていく。
何とかこらえようとしたものの、足に力が入らず、シーリングはそのまま地面へと突っ伏すように倒れ込んだ。
「な、なんだと……。こんな時に!」
風がシーリングの熱くなった体を優しく撫でつけ、鳥のさえずりが耳元に届いた。
「……どうやら、精も根も尽き果てたってところですな」
シーリングの頭上からアルの声が響いた。その声にはどこか厳粛な響きがあって、裁判官に死刑宣告をされた気分になっていた。
完敗。
絶望。
自身のトラウマを抑えきれずに動揺してしまったことで集中が途切れ、余計な魔力と体力を消耗してしまったことで“星羅連環”の効力の失われてしまった。不運でもなく、自分の心の弱さ——。
圧倒的な敗北感がシーリングの心を支配していた。
「あんたとはこんな形になるのは残念だけどね。もう終わりにしよう」
「……」
シーリングは無言のままだった。
アルが自分に銃口を突きつけていることくらいは容易に想像できる。抵抗どころか顔を上げる気力さえなく、シーリングは死を迎えるつもりでいた。死にたくない気持ちはもちろんあるが、もはやどうにもならないことぐらいはわかっている。全てが億劫になり、“彩花衆”や“政道復古”についても頭から消えていた。
「さよなら」
アルがそういったのは確かに耳にした。
だが、発砲音はいつまで経っても聞こえない。それきり、沈黙の間が続いている。
実は既に撃たれていて、自分の魂が宙を漂っているのかもしれないとも思ったが、鳥のさえずりや風に靡いて、草花の揺らぐ音もまだ聞こえる。横転した機関車の不吉な悪臭と燃え盛る音も風に乗って届いてくる。
——生きている、のか?
不可思議な感覚の中、シーリングの頭上に声が響いた。
「危ないところだったな」
アルとは違う者の男に反応して、シーリングは跳ね起きそうになった。と言っても、跳ね起きたのは心の中だけで、実際には緩慢な動作で見上げるのが精一杯だった。だが、視界に飛び込んできた光景に、心が激しく震えた。
澄んだ青空を背にして、アルとその背後にひとつの人影が浮かんでいた。
呆然とした表情のまま、アルは目を見開いて佇んでいる。
拳銃を手にした右手はだらりと垂れ下がり、ついには拳銃を地面に落としてしまっていた。足も膝の力が抜け、今にも崩れ落ちそうになっている。見開いた瞳には生気はなく、虚ろに宙を見つめていた。
それでも、アルが立っていられるのは、腹部を貫通しているがっしりと太い人の腕に支えられていたからだ。アルの腹部から流れるおびただしい血が、腕を伝って地面へと流れ落ちていく。
「時間が何度も止められ、随分と手間取っていると思って急いできたが、私の勘は正しかったようだな」
腕がアルの腹部から引き抜かれると、アルは重い音を立てて地面に倒れていった。
「そうやって這いつくばっている姿は、私が地上に戻ってきた時以来だな」
「……」
「だが、今日の貴様はあの時よりも随分と無様に思えるぞ」
「まったくですよ。……ラムザ様」
シーリングは微笑した。
もうひとつの人影——ラムザ——には、シーリングの返答が予想外のものだったらしい。一瞬、驚いた表情をした後、誤魔化すように顔を背けてアルのシャツを引き裂き、付着した血のりを拭っている。その姿勢のまま、ラムザが口を開いた。
「どうした。随分と素直ではないか」
「もう諦めていましたから。本当に神様はいるんだなって実感しました」
「何を言うか。私は神。闘神ラムザだぞ」
「それに、そこにいるアルフレッド・フォークナーという男」
憮然とするラムザを横に、シーリングはふっと息を吐いた。
「彼は私の全てを上回っていた。経験や戦術も。“星羅連環”を前に、凌駕するなど考えられなかった。自分なりに全力を尽くしていたつもりでしたが、及ばなかったというのが正直な気持ちです」
「……」
「言い訳ができません。負けです。完敗。これ以上は、表現が思い浮かびませんよ」
「貴様が自らの非を認めるのは、大切なことだろうがそこまで卑下する必要はないぞ」
「……?」
怪訝な面持ちでラムザを見上げると、ラムザはやにわにアルの内ポケットに手を入れた。引き抜くと、手のうちには熊のようなぬいぐるみが握られている。しかし、それがただのぬいぐるみではないことは、ラムザから逃れようと必死にもがく姿で一目瞭然だった。
そのぬいぐるみ——ナタデ——は、魔法で脱出をしようとしているのか、体から稲光が発せられても、ナタデの魔力が微弱もあって、ラムザは意にも介していなかった。
「見た目は熊のようだが、こそこそ隠れているところはねずみだな。どうやらトウマたちは、精霊を召喚していたようだな」
「くそ、離せ……!」
「力は大したものではなさそうだが、元々、魔法というものをつくりだすためには、呪文によって精霊たちの力を借りて発現される。精霊は人の意思に反応しやすい傾向がある。その辺りをトウマたちは利用したのだろう。これまで送り込んだ刺客を倒せたのも、こいつらの助けがあったからだろうな」
「……」
「見たところ下級の精霊のようだが、これまでのことを考えれば1対2の戦いだ。貴様がそこまで落ちこむ必要はないぞ」
ラムザは右手に力を籠めると、ナタデの体から黒い煙が立ち上っていく。
やがて、ナタデの体のあちこちに小さな火が点いたかと思うと、瞬く間に強烈な炎と化してナタデの体を包み込んでいった。
「アル……、トウマ。みんな……!」
「消え去れ」
「う、うあああぁぁぁ————」
ナタデの絶叫が不意に途切れた。
綿と麻で構成されていたナタデの肉体は、ラムザの灼熱の炎によって、あっという間に焼き尽くされた。ただの細かな塵と化したナタデだったものは、風の流れるまま、空の中へ消えしていった。
手のひらに残されたわずかな塵を軽く払い、ラムザはシーリングに向き直った。
「いつまで、組織のリーダーが無様な恰好のまま寝ている。気合を見せないか」
「お見せしたいのは山々なんですが……。どうも空っぽのようなんです」
「情けない奴だ」
舌打ちとともに叱咤の言葉を浴びせながらも、ラムザはシーリングの肩を担いで立たせると、そのまま宙に向かって飛び上がっていた。厳しい口調ながらも手を貸してくれるラムザに感動と感謝しながらも、その行動はどこか慌ただしく感じられ、疑念がシーリングの口から流れた。
「何か急いでいるようですが、あの探偵の息も確かめずによろしいのですか」
「時間が無い」
ラムザが言った。
「あの横転した機関車が、そろそろ大爆発を起こす。奴にまだ息があったとしても、ろくに意識もない植物状態だ。あのまま焼かれ死ぬ」
ラムザがそこまで言った直後だった。強烈な発光とともに、腹の底に響くような震動と爆発が地上で起きた。炎上した車掌車の火の手が横転した機関車のエンジン部に移って、積まれていた大量の軽油に引火したのだった。発火点がガソリンよりは高いために比較的安全とされる軽油ではあるが、管理上の話であって引火すれば爆発した炎上を起こす。既に機関車とは距離をとってはいたのだが、シーリングが思わず身をすくめたくらいに強大な爆発だった。
ラムザの方はいたって冷静で、空中で止まると振り返って静かに地上の様子を眺めている。
シーリングも目を凝らして、アルの姿を探した。
アルに特別な感情を抱いているからではなく、これまで煮え湯を飲まされてきた相手であったことから、もしかしたら死んだふりをして逃げているのではないかという懸念もあったからだ。しかし、そんな心配は杞憂で、距離があるためにはっきりとは確認できないが、草むらの中でアルは倒れたままでいる。ぴくりとも動く様子はない。
機関車を中心に炎の勢いはいよいよ激しさを増していき、不気味な黒煙が空に伸びあがっていく。灼熱の炎の波は原野に広がっていき、やがて、草むらに横たわるアルの体を吞み込んでいくのが見えた。炎とともに黒煙に覆われてしまったため、確認することは不可能となってしまったが、そこまで見届ければもう十分だった。
「終わったな」
ラムザは独りごとのように呟くと、背を向けた。
「終わりました。苦労はしましたが、奴が“黒の国”でうろつかれるよりは良い。仲間や部下もひとりも動かさずに済んだ」
アルの最期を見届けて安堵したのか、シーリングの声には勢いがあった。
ほんの少し前まで、負けだの完敗だの意気消沈していたくせに、忘れたように苦労などと言ってみせるシーリングを節操がないと可笑しく思ったが、ラムザは何も言わなかった。これから長い戦いが始まる。シーリングにも野心がある。節操がないほどに気持ちを切り替えられなければ、この先、生き残ることは難しいだろう。
実際に、シーリングはもう忘れていた。
渦巻いていた敗北感や、絶望という感情も消え去っている。
どんな形であれ相手は死に、自分は生きている。
アルフレッド・フォークナーという男に対し、難敵だったという感想以外は消え去っている。戦いでの反省点くらいなものだった。
——私には運が味方してくれている。
車両の火災と横転事故で死んでいてもおかしくなかった。もがいて足掻いて、覚悟を決めて引き寄せた幸運だ。相変わらず尋常ではない痛みがシーリングの体を襲い続けているが、自信をすっかり取り戻している。
シーリングの頭の中には、“政道復古”実現に気持ちが向かっていた。
ただ、ひとつ。気がつかなかったことがある。
朦朧とした意識の中で、アルはラムザとシーリングのやりとりを見つめていた。
大量の出血で脳に血が回らなくなっていたので、どこまで思考が働いていたのかはわからない。
だが、永遠に意識を失う直前、“念送流転”が発現していた。




