誰だって、触れられたくないものがあるけれど
大広場を離れて、北の大通り――ブルッフェマン通りと呼ばれている大通り――をアルとパウラが疾駆している。
通り沿いにはそこから名付けられたブルッフェマン劇場や映画館などが建ち並び、普段は中心部とまた違った華やかな賑わいを見せているのだが、今は通りに人気もない。まだ片付けられていない死体が道端に転がり、破壊された建物の無惨な光景からは、かつての華やかな賑わいというものは想像できないほどである。
“彩花衆”と軍との衝突の影響で劇場も映画館も破壊され、焼け焦げた黒い柱だったものが不気味に乱立しているだけとなっている。
シーリング・ローゼットが戦闘を回避させようと思えばその手配もできたのだが、人や映像があれば建物などどうにでもなるということと、少しは文化財的なものが破壊された方が、世間への衝撃が大きいだろうというふたつの考えから、放置しておいたのだった。
――しかし、まいったねえ、こりゃ。
アルは駈けながら思った。
連なるように積み上げられた瓦礫の山々を飛び越え、時折、頭上に落下してくる建物の破片を巧みに避けながら駆けているが、ギオンとの戦闘で受けた負傷による影響で、痛みと疲労を訴え続けるアルの体は疲労回復のための休息を求めてくる。休めと言わんばかりに、次第にアルの足が重くなっていった。鉛の枷でもはめられたようで、息も切れて激しく喘いでいるのが自分でも認識できた。
次第にパウラとの距離も開いていく。
視線も落ち、ちくしょうと自分の足を叱りつけた時、ぐっと体を引き寄せられる感覚があった。地面から体が離れて宙へと上がっていく。顔を上げると、伸びた鎖が戦災から免れた建物の屋根と繋がり、すぐ隣にはパウラ・ウラの横顔があった。
「リイサを探すためには、お前も必要だ。負いてきぼりにするわけにもいかんのでな」
「ありがたいけどね。俺の“召喚興図”は、魔力が残ったモノがないと、探知できないよ」
「お前は魔法だけの男ではない。私に欠けている部分も補える」
「へえ、珍しく殊勝だねえ。さては、俺に惚れたな?」
直後、アルは自分ひとりが宙に浮いていて、なぜ頭上にベルファネスの街が見えるのかわからなかった。
「へ?」
落下しているのだと我に返った頃には、悲鳴もあげることもできない速さで頭から落下し、ぐんぐんと荒れたベルファネスの道路が視界いっぱいに拡がっていくところだった。激突寸前でアルの体が静止すると、“蛇甲連鎖”によって、するすると元の位置へと引き上げられていった。血の気が引いたまま呆然とするアルに、パウラが睨みつけてくる。
「二度とおぞましく淫らな軽口を口にするな。竜には触れてはならない逆鱗というものがあるのだ。人にもその逆鱗があるはずだ。お前もそうだろう」
「俺の義眼のこと、言っているのかい?」
「だとしたら、貴様はどう思う。どうしたのかと訊かれて」
「まあ、気持ちはわからなくもないけれどな。だけど、あんたが関心があるなんて驚いたな」
「トウマとギオンの因縁。これらに貴様も関わっているくらいは想像できる。私は巻き添えになったようなものだからな。関心程度なら、持つのは当たり前だろう」
「……」
「関心はあるが、話せとは思わん。私の逆鱗に触れてくれるな、というつもりで言っただけだ」
「……」
「単に貴様の実力を見込んでの話だ。もう一度言うぞ。おぞましく卑猥な軽口を二度と口にするな」
「あのねえ……」
呼吸を整え、ため息でも吐くような声でアルが言った。
「卑猥だとかそんなつもりで言ったつもりじゃなくてね。随分と俺を買ってくれるから、理由知りたくて、くだけた感じで話しやすいようにもっていっただけなのよ」
「……」
「おぞましいとか大袈裟な。そんなに、怒らなくていいじゃないの」
私にとっては大袈裟ではないと、パウラが鋭い口調で返してきた。頬が紅潮している。
「私が想う人間はこの世でひとりしかいない。それなのに誰かに心を揺り動かさせようとする言葉など、卑猥であり不純不潔。考させるだけでもおぞましいことなのだ」
「……」
「いいな。もう、この話を口にするな」
「まあ、そうね。わかりましたよ」
若いねえとアルは内心、苦笑いしていた。ひとりというのはルーク・ターレスを指すのだろう。たしかに見込みのある少年で、パウラが一方的に惚れ込んでいる様子だが、パウラと並ぶと歳の離れた姉と弟にしか思えない。恋人というには多少の違和感があった。
――まだ子供なんだな。
パウラ・ラウラは風貌や雰囲気こそ成熟した女性に見え、一都市の警備隊長に任じられるほどに、その言動にも外見に見合った落ち着きがある。だが、パウラの年齢は16歳である。
東西の歴史書によれば、若年で一国の将となる例など珍しくない。既に抜刀隊の部隊長だったトウマ・ライナスやクロン・ステイシアを初めて目にした時も、彼らはルークのような少年の雰囲気を残していた。
16歳が子供と呼べるか複雑なところではあるが、少なくとも恋愛に関しては、世間一般的な娘たちたちより初心なところがあるようだった。他愛もない軽口に対して受け流せず、おぞましいだの卑猥だの過剰に妙に潔癖なのも、初心であるが故の反動かもしれない。これが探偵事務所に出入りしているカホリとナンシーだったら、適当に流してしまうところだ。
しかし、今のやりとりで、これまでは一緒にいても息苦しさしか感じられなかったパウラから、なんとなく好感を持てそうな部分を見つけ出せそうな気がした。ただ、好感などと余計なことを言ってまた落とされてはたまらないから、そこは心の中に留めておくことにしたのだが、ついでだからあのことは話しておこうかという気分になっていた。
女絡みだよ、と少ししてからアルが不意に言った。
間が空き、あまり唐突だったからだろう。
パウラがきょとんとした顔をしている。
「俺の逆鱗の話さ」
アルは自身の義眼を指差した。
「さっきも言ったが、関心はあるが無理して話してくれとは思わんぞ。第一に急ぐ」
「俺が話をしたくなったのさ。それなら良いだろ?それに、そんなに長い話でもない。それとも、押しつけがましいかな?」
「……まあ、いい。お前が話したいなら好きにしろ」
「二番隊に配属されてしばらくして、ある町を占領した時に俺は女の子をかくまったんだ。女の子と言ったけれど、歳はよくわからない。身なりも薄汚れていたし、随分と痩せていてね。10代後半とも言えるし、20代半ばとも言えた」
※ ※ ※
部隊に欠員が出たためアルが抜刀隊二番隊に配属された当時、一般部隊の兵士の中で、ギオンの二番隊が最も人気があった。
見上げるほどの体格と、迫力に威圧感。
豪壮無比な膂力の持ち主であるギオン・ダグオンは、当時の“青の国”の軍では注目の的であった。
トウマやクロン・ステイシアやゼノ・クライヴといった面々は、すでにその指揮能力や圧倒的な腕前も評価されていたものの、まだ少年の面影を残しており、一般部隊の兵士たちの目からすれば、堂々たる体格をしたギオンの方が、なんとなく頼りなく見えていたのも事実だった。
「俺が新兵の頃から、あの2人て活躍していたんだけどねえ。ゼノ隊長はやること違うから見てないけど。派手に目に飛び込んでくるのが、ギオン隊長だったなあ。頼もしく思ったもの」
アルが言った。
ギオンから頼もしさだけしか映らなかったのは、抜刀隊内の問題が外に伝わってなかったからで、一般部隊の兵士たちの評価とは正反対に、ギオンへの顔色伺いするだけで団結力のない二番隊は、抜刀隊内では評判が悪かった。外部に伝わらなかったのは、それが外に漏れれば戦況を不利にさせる恐れがあったからで、上層部がひた隠しにしていたからだった。
独断専行しがちなギオンによって、作戦を台無しにされるどころか危険な目に遭うことが度々起き、抜刀隊から外すよう各隊長からも苦情が出ていた。
しかし、既にギオンからの贈賄によって抱き込まれた上層部の一部による擁護と、降格によってプライドを傷つけられたギオンが他国へ逃走するのを恐れたその他の上層部の意見が「飾り物にする」という点で一致し、隊員の質は問わず体裁だけは部隊として整え、依然として二番隊では王のように振る舞っていた。
隊長という立場からしてみれば、質の悪い隊員や部隊など恥辱であったろうが、ギオンにしてみれば、自分が気持ちよく戦え、太鼓持ちか憂さ晴らしできる相手が身近にいれば満足だったのかもしれない。
そんな事情を何も知らないアルは、豪傑の雰囲気を漂わせるギオンの下で働けることに、当初は誇りに思っていたものだった。地図を描く魔法は存在していたものの、応用して編み出した“召喚興図”は、所属していた部隊でも仲間や上官から頼りにされていた。
それを上層部が認めてくれた。
アルもそう思っていたし、当時の戦友たちも話していたことだ。だが、入隊して3日も経たないうちに誇りは消え失せることになる。
二番隊の悪評も、入隊してようやく知った。
先達の隊員たちはギオンの機嫌を伺うばかりで、憂さ晴らしに理不尽な暴力によって顔を腫らすなど珍しくもない。何かあれば懲罰を課せられ、奴隷以下のような扱いだった。“召喚興図”など、「俺様が蹴散らせばいいだけだ」とギオンから鼻で笑われた。二番隊の男はギオンへの阿りと威張り散らすだけで、大した実力もないのは入隊当初からわかっていたが、軍という組織にいる以上、逆らうことは許されない。
吠えて噛みつく、頭の悪い犬の面倒を見ている。
そう思って耐えるしかなかった。
「……そんな時、声を掛けてくれたのがトウマ隊長とクロン隊長でね。当時、隊長なんて人は雲の上の存在と思っていたから驚いたし、何か嬉しかったな。俺の“召喚興図”を使いたいからとか、依頼という恰好でトウマさんたちから色々と呼ばれてね。先輩たちからの丁寧なご指導から逃れられたし、何かと助けられたよ」
アルが眩そうに目を細めて言った。パウラは黙って、話に耳を傾けながら建物を飛び越えていく。
新隊員への酷使というだけなら、あそこまで気を遣わなかっただろうとアルは思う。程度の差こそあれ、新人がこき使われるのは当然だからだ。
だが、暴走するばかりで、隊長としての器を疑問視されているギオンと、ギオンを満足させるだけに存在する二番隊の男たち。
放置する上層部。
トウマたちの間にある不満や懸念が、無知な新隊員への同情の念となって、気にかけてくれたのだろう。年齢や性格が近いこともあったのか、すぐにトウマとも気が合うようになった。クロンは物静かで強面ではあったが、行動の端々に優しさを感じた。暴力という嵐を何とか凌げられた。
そんな折だった。
抜刀隊を率いた“青の国”が“紅の国”のクレニエスという小さな町を占領した際、偵察に出ていたアルは馬小屋に潜んでいた娘を見つけてしまった。
頬がこけ、着ている服もぼろぼろで起き上がることもできないほど衰弱していたが、アルに向ける瞳には敵意の炎を宿し、うかつに人を近づけさせない迫力があった。
「落ち着け」
と何度もなだめ、負傷している部位を魔法で治した。次第に落ち着きをみせたところで、一度、部隊に戻って異常なしという報告をすると、密かに自身の非常食や鍋などを持ち出して再び馬小屋へと戻った。そして米を柔らかく煮て粥にし、娘に与えた。スプーンで飲ませるとはじめは弱々しかった娘も力を取り戻したのか、貪るようにしてあっという間に完食させたのだった。
何故、あの時、娘にそうしたのかは、今になってもアルにはよくわからない。
他にも似たような人間はいただろうに、不意に憐憫の情がわいてきて、いつの間にかそうしていた。
「……ありがとう」
3日ほどし、娘が体を起こせるまでに回復した頃、それまで無言を貫いていた娘がボソリと言った。次の日から簡単なやりとりを交わすようになった。だが、娘の瞳の中に警戒や復讐を告げる光があり、シジナと名乗る以外には何も話さなかった。アルもシジナから話を聞こうとは思わず、元気になってくれればいいとだけ思っていた。自分でも不思議な気持ちだった。
一週間ほど過ぎた頃だった。
一昨日から降り出した雨がより強くなり、分厚い雲に覆われたせいで、昼にも関わらず外は薄暗い日だった。
アルが配給されたサンドイッチを持ってシジナが隠れていた馬小屋に向かうと、寝床はもぬけの殻となっていた。シジナは起き上がれるくらいには回復していたが、歩くまでには至っていない。歩けたとしても、そう遠くには行けないはずだった。アルはシジナが横たわっていた藁に触れた。まだ人の重みによる痕が残っており、時間はそれほど経っていないはずだった。
「あいつ、どこへ……?」
アルが“召喚興図”を使い、地面にクレニエスの町が描かれ、その中を小さな石が動いている。軍が滞陣している位置で、二番隊の営所がある位置だ。不吉な予感に胸がざわつき始めた。
「お手柄だぜ、アルよ」
不意に後方から声がした。
振り返ると、馬小屋の出入り口に兵士が、一人立っている。
同じ二番隊に属しているカペルという男だった。ギオンが気に入っている取り巻きの一人で、普段から不快に思っていたが、アルに近づいてくるにやにやと下卑た顔つきが大きくなってくると、さらに不快さが増した。
「女を囲むたあ、なかなかやるじゃねえか。最近、こそこそと出掛けるから妙だと思ってつけてきたが、案の定だ」
「シジナをどうした」
「ギオン隊長が女を探している。娼婦じゃ物足りねえってよ。だが、他の女を連れ込もうとしても、近頃、監視の目が厳しいだろ。俺が女の報告すると、隊長、喜んでい――」
突然、カペルの声が途切れた。
アルが立ち上がり様に放った強烈な右の拳が、カペルの頬を抉っていた。軍が主催するボクシング大会において、ミドル級で優勝をもたらしたほどの拳である。カペルの体は壁まで吹き飛ばされると、跳ねてそのまま地面に昏倒した。後は振り返りもせず、二番隊の営所へと駈けだしていた。焦燥感なのか怒りなのか判別つき難いものがアルの中で渦巻き、頭の中が熱くなっていた。




