白百合の祈り Ⅳ
ひらりと、窓辺から入り込んだのは光の欠片。軽やかに舞い踊る雪のような幻光は、ヨークラインの身体に触れては消えていき、みるみると身体の芯に熱を灯していく。
――マーガレットからか。密かに横目で確認しつつ、ヨークラインは胸元を這う指先を見下ろした。エマニュエルが形ばかりの哀れみの目を向けている。
「君はもう、林檎姫の呪いの器としての度量はない。……可哀想だね、せっかく僕が貰ってあげたのに」
「……そんなことをしてどうなる。彼女が人殺しを、自らの傍らに置くとでも?」
「白百合は、どうあろうと僕を見捨てたりしないよ」
少年は薄暗く微笑んだ。
「守護者だったからって、思い上がりもいいとこだ。白百合にずっと焦がれる僕の気持ちが、お前なんかに分かるものか」
「……そうか。お前のくだらん言い分は、一応分かったがな」
ヨークラインは簡素な息をついて、にべもなく返す。
「話は終いだ。これ以上、小童の駄々捏ねなんぞには付き合いきれん」
「何を偉そうに――」
「防護エンコード:『ネトル』」
呟いた途端、青年の懐から突如何かが飛び出した。鞭のように弾み、エマニュエルの指先に突き刺さるような痛みが走る。
「……ッ」
思わず一歩退いて、驚愕のまま見つめる。ヨークラインを守るように覆ったのは棘の蔦だった。
「その技……ッ、どうして!? 何処に隠し持ってたの……ッ!?」
独房へ押し込めた際に、解呪符は全て押収済みの筈だった。棘は拘束具にも絡み付き、鎖の合間をこじ開けるようにして破壊してしまう。
重い金属を剥ぎ取ったヨークラインは、淡々と少年を見据えた。
「忘れたのか。俺の血筋は、元を辿れば王家に連なる一族。手持ちの札がなくとも、俺の身体そのものが源泉機構なのだから、コードの起動は容易い。林檎姫の呪いの負荷が少なくなった今となってはな。――拘束エンコード:『ソーン・バーネット』」
ヨークラインの手から顕現した蔦が、エマニュエルの四肢に絡んでいく。だが少年の唇は不敵に吊り上がった。
「甘いよ、クラムの生き残り!」
エマニュエルの身体から閃光が燐と迸った。蔦を伝ってヨークラインの身体を蝕み、関節を痺れさせる。そこに潜む黒点――林檎姫の呪いの残滓が、少年の力と共鳴し始めた。
「……ッ」
「守護者だからって居丈高に……! こうやって繋がったまま、呪いの底上げをしてあげる。その器、ぶっ壊してあげるから!」
「俺はもう、彼女の守護者ではない……ッ!」
ヨークラインはよろめきながらも、唸るように吐き出した。
「元より、ガーランド家に敬服していたかも疑わしい。神の花嫁ではなく、泣き虫で弱虫の少女に頭を垂れていただけだ。そのことに、ようやく気付けたところなんだ。なれば……、おめおめとここで死ぬ訳にはいかない……ッ」
そう言いつつも、身体がその場に崩れ落ちる。苦痛に歪む表情を、少年はすぐ傍らで悠々と覗き込んだ。
「立派なのは口だけだね?」
「……見つけた、そこか――金の林檎は」
「え……?」
「俺の身体を暴くということは、貴様もまた暴かれるということだ」
ヨークラインは素早い動作で指を少年の腹部に当てた。
「其は邪気を祓う誉れ高き剣――エンコード:『エル・グラン』」
天から落下する稲妻のような閃光が、エマニュエルの鳩尾めがけて貫いた。
「……ぁッ……!」
身動きが取れなくなったエマニュエルは、その場で膝を突く。ヨークラインは指をあてがったまま、冷ややかに告げた。
「お前が奪ったその呪い、返してもらおう。元々は、俺がエマ=リリー・ガーランドから賜ったものだ」
「なっ……、正気……ッ!? そのぼろぼろの器で……ッ」
「俺の家を――我がキャンベルの技術をなめるな」
蔦が掻き消えた隙に、少年は逃げるように身を捩った。
「それでも、白百合はお前なんかのものじゃない……ッ!」
「だとしても、この宿命は、俺のものだ……!」
「――いいえ、これは元よりガーランドの……私のものよ」
少女の凜とした声が、薄暗がりの部屋全体に響いた。真冬の張り詰める外気のような、冷然とした音色だった。
歩を静かに進める度に、真白のコートが花びらのようにふわりとなびく。アイスブルーの瞳は、宝石のように硬い光を宿している。雪のような淡い幻光を纏う滑らかな黒髪――それは、肩先で短く揺れている。
その有様に、青年と少年は思わず動きを止めて、唖然と見やってしまう。
「……リリ? 何故、一体……」
「白百合……その髪、どうしたの……!」
「いらなくなったから、切ったの。それだけのことよ」
リーンはそうあっさりと返し、エマニュエルの傍まで歩み寄った。蹲る身体をぎゅっと抱き締めて、静かに、けれど力強く声を落としていく。
「エル、ヨッカに酷いことするのはやめて。そんなことをするなら、私は決してあなたを許さない」
エマニュエルの虹色の瞳に、涙が溜まっていく。
「白百合……やだよ……だって……だって……っ」
少女の背中に手を回し、泣きじゃくるようにしてしがみついた。
「いやだよ、そんなの……。ねえ、だったら、何処にも行かないよね。僕の傍にいてくれるって、約束したもんね?」
「……エル。あの時は、酷い別れ方をしちゃってごめんね。こうしてまた会えて嬉しかった、それは本当よ。私のわがままなお願いも、沢山聞いてくれてありがとう」
「当然だよ。僕は、強くて頼もしい白百合のことが、ずっと昔から大好きなんだから」
リーンはふと瞬きし、エマニュエルの顔を覗き込んだ。
「……ねえ、もしも私が白百合じゃなくて、ただの泣き虫弱虫なリーン=リリーでも、好きになってくれる?」
「白百合が、白百合じゃなくなる……?」
エマニュエルはきょとんとしながら言葉を繰り返し、やがてくすくすと無邪気に笑った。
「何言ってるの? そんなことありえないよ。白百合は、まごうことなき神の花嫁なんだもの。それで神の子たる僕は、神の花嫁と添い遂げるのが運命じゃないか。そう教えられたよね?」
「教えられたって、……塔で?」
――『お前たちは特別だ』。
――『神の子と神の花嫁を添い遂げさせれば、運命の輪が廻るだろう』。
大人たちから繰り返し聞かされるお伽話の一説のような言葉。塔で暮らす大義名分、つまりリーンたちを言いくるめるためのもの。けれどこの少年は、今でもずっと純真に信じ続けているのだ。
「これはね、神さまが決めた運命なんだよ。だから、僕と君は、ずっと一緒にいなきゃ」
「……それが、エルの見えているもの。見ていたいものなのね」
リーンは悲しげに揺れる目を伏せた。やがて瞼をゆっくりと開け、その眼差しを静謐な色に染め上げていく。
「……でも私は、エルとは違うものを見ていたいの」
「白百合……?」
首を傾げる少年の全身に、視線を巡らせる。そして見定めた場所――鳩尾に、人差し指を向けた。
「――この手は神に倣いし浄化の御業。苦しみよ、浮き上がれ。歪みよ、我が身に呼応せよ。絡まる苦難を相容れたまえ」
「……え、――あ……っ?」
唱えた傍から、黒い種が浮かび上がった。そこから新緑の双葉が芽吹き、伸びて、幹となって、枝先から蕾が膨らみ花が咲く。やがて実るのは、黄金色の林檎。それに手を伸ばし、ためらうことなく捥ぎ取っていく。
「あ……うそ……」
エマニュエルの虹にきらめく眼差しが、大きく震えながら瞠る中で、その輝きがくすんでいく。
「何で……? どうして……?」
「ごめんなさい。エルとは、ずっと一緒にはいられないの」
「僕は、神の子なのに? 白百合は、神の花嫁なのに?」
「あなたは神の子じゃないわ。私たちと一緒の、ただの人間よ。それにあなたには私だけじゃないし、魔術師やピックスさんたちが、あなたを一人にはしないでしょう?」
無垢に強張る眼差しから、涙がほろほろと零れていく。
「ひどいよ……約束……したのに……」
「……うん、ごめんね……」
嗚咽を上げ続ける少年の頭を、ごめんなさいと言いながらしばらく撫で続けた。そして間もなく、幼い子供のような面差しは、泣き疲れたように目を伏せる。
林檎を失くし、ぐったりと動かなくなったその身体を横たえると、リーンはヨークラインに静やかな眼差しを向けていく。金の林檎を、胸の中に抱えたまま。
さっと背筋に降りるおぞましい予感は何を告げるものなのか。ヨークラインは息を荒くしながらも上半身を起き上がらせ、林檎に手を伸ばそうとする。
「リーン=リリー……。早く、それを離したまえ。林檎姫の呪いが君に……」
「――神さまの呪いは、人の術では絶対に解けない。けれど解けない代わりに、その運命を共にすることなら出来る」
リーンは林檎に口付けを落とした。黄金色の林檎は、真珠のように光り輝き、純白に染まっていく。
「何を……」
「ヨッカ――あなたの中の呪いも、一緒に貰い受けるわ」
「馬鹿なことを……ッ! そんなもの、俺が承知するとでも? 心から望んでもいないのにか?」
怒りを孕んだ鋭い声音にリーンはきゅっと唇を結んだが、ただ小さくかぶりをふった。それでも、傍らまで歩み寄り、ヨークラインの胸元――急所へと人差し指を向けていく。それから逃れようと後ずさるが、力ない身体は半ば倒れ込むだけだった。
「正気に戻れ! 君は、何をしようとしているか、本当に分かっているのか……ッ」
「分かっているわ。林檎姫の呪いを、私とあなたの間で巡らせるの。そうすることで、呪いの根源を……力の本質を、変えてみせる」
「だめだ、許さん。頼むから言うことを聞け。君には必要のないことだ」
「必要よ。ヨッカの幾ばくもない命を救えるのは、ガーランドの血を引く私しかいないのだから」
ヨークラインはとうとう泣きそうに顔を歪めた。
「リリ! 君が呪われることなんかないんだ! この絶望や恐怖は、決して耐えられるものではない……!」
「ううん、怖くないわ。だって、私はとっくに呪われているもの」
「何の痴れ言を、」
「――大好きよ、ヨッカ」
リーンはくしゃりと笑った。泣き顔と微笑みを混ぜ込んだ、あまりに歪な表情だった。
「あなたがくれたこの気持ちは、誰にも解けない呪いなの。でもそれはね、私が今まで諦めずに生きてこられた、大事なおまじないでもあるの」
「リリ……」
面食らうように瞬くヨークラインの胸部に、純白の林檎と解呪符が乗せられる。
「泣き虫の私に、いつもくじけない心をくれてありがとう。今度は、私があなたにこの気持ちをあげる。……諦めないで、どうか生きてって」
「……そんなのは……もう……、俺は君からとっくに……」
「ううん、ヨッカはまだちっとも受け取ってない。私の中の、雪嵐みたいに途方もなく荒ぶる心も、火祭りの炎よりも、ずっとずっと熱く焦がれる昂ぶりも」
歯痒く言いながら、寒気で冷えた白い頬へ唇を寄せていく。
「もっともっと届けたいの。だから、私にも頂戴。ヨッカの痛みや苦しみを、独りきりで味わわせない。一緒に分かち合いたい」
――痛くてもかまわないわ。
――お前がそうやって母のために泣いてくれるのだから。
――そうすれば、これは巡り廻って、お前と私の中で分かち合えるものになる。どんな苦しみも喜びも。
――私たちは、そうやって手を取り合って、生き長らえていくの。
――だから、どうか笑って、リリ。
(お母さんは私にちゃんと教えてくれていた。心から願うためには、どうしたらいいのかを――)
「……リリ……」
呆然としたかすかな声音を拾い、少女は唇をそっと離した。青年の胸元にある林檎と解呪符にも、同じ温もりを重ねて分け与えていく。そして、祈る。
「……其は血潮の赫きを奪い授ける花冠の言祝ぎ――エンコード:『ガーランド・ゲイン』」
強く想って、願って、自分の気持ちを解き放つための言葉。
それがおまじないであり、祈り。
昂ぶって打ち震える心を解放するように、少女の瞳からまたひとつ雫が零れていく。花が咲くように、唇を柔く綻ばせながら。
「どうか、私と一緒に生きて。ずっと、あなたの傍にいさせて」
それが、ただの泣き虫で弱虫な白百合の、心からの祈りだった。




