白百合の祈り Ⅲ
冷えた鳥籠の出入り口に、リーンは再び立った。懲りもせずに現れた姿を警固番たちは半ば呆れたように見下ろし、手に持つ槍の柄を交差させて行く手を阻む。
「何度申し上げても、ここからはお通しいたしかねます」
唇を引き結ぶ少女は、一枚の紙札をおもむろに取り出し、そっと囁いた。
「其は冥府へ誘う冠――エンコード:『ヘンベイン』」
「――ッ」
警固番の体躯がその場に崩れ落ち、すぐに安らかな寝息が聞こえ始める。そこを大股で横断し、回廊の奥へと真っ直ぐ眼差しを注いだ。
「……ヨッカ、無事でいて」
回廊の突き当たりまで進めば、そこから伸びる螺旋階段を早足で降りていく。途中、巡回中の兵鳥二名と鉢合わせになった。ぎょっとした顔をしながら、少女に迫ってくる。
「困ります、勝手に出歩かれては……!」
「其は遥か歩みゆく旅路の守り草――エンコード:『マグワート』!」
唱えた傍から脚が軽やかになり、捕らえようとする兵鳥の手をひらりと躱す。一歩強く踏み出せば、脚がバネのように大きく飛び跳ねた。
そのまま階段を何段も飛ばし、素早く駆け下りていく。距離がみるみると引き離されていき、兵鳥は困惑しつつも後を追った。
「嘘だろ、どうしてこんなすばしっこく……!?」
狭い螺旋構造の中では、飛翔して追うのは容易ではない。一人は焦りの表情を見せ、もう一人は、少女の行き先を見定めてから冷静に声を張り上げた。
「うろたえるな、階下の扉は封鎖されている! そこで追い詰めれば……!」
鉄製のいかつい錠前で施錠される扉。塔の出入り口となるその目前まで辿り着いたリーンは、カードケースから再び別の解呪符を取り出した。
「其は祭司の清らかな魔杖――エンコード:『ヴァーヴェイン』!」
紙札から伸びた草蔓が、鍵穴に入り込む。
「ちちんぷいぷい、開けゴマ!」
唱えた傍から呆気なく錠が外れた。少女は力を込めて扉を開け放ち、その合間を縫って飛び出していってしまう。
「な……!? 嘘だろう……」
絶句するしかない兵鳥は、ふと膝をついて倒れ込んだ。彼らもまた穏やかな寝息を上げていく。
甲高い靴音を鳴らして階段を降りてきたのはアルテミシアだ。その手には解呪符があり、うんざりとため息を吐く。
「まったく、小娘共は人遣いが荒い……」
「すごい……ちっとも疲れない……!」
脚を必死に動かしながらも、リーンは興奮を隠しきれなかった。解呪符を何度使っても、息切れ一つしない。魔法がかかったかのように身体が軽く、吹き抜けの回廊を風のように、踊るように、軽やかに駆け抜けていく。
コートの中に忍ばせた解呪符から、マーガレットの得意げな声が上がる。
『変則方式にしてあるの。周囲のマナを取り込んで、自分の力に出来るのよ。この解呪符を通して、あたしたちから地熱式のマナも送ってる。これなら出力を無限大まで引き延ばせるわ。ま、言わばこれも吸呪状態。……兄さんにも、無事届いてるといいんだけど』
『――嬢ちゃま、そこの突き当たり、気を付けて』
プリムローズが鋭い声音を上げた途端、前方の奥から人の気配を感じる。リーンは柱の物陰に一旦身を隠した。そこを巡回中の兵鳥が、ゆっくりとした足並みで回廊を進んでいく。
柱を通り過ぎようとする寸前でさっと飛び出し、大柄の背中に紙札を張り付けた。
「其は喜悦と苦艱の夢幻――エンコード:『オピウム』」
「……ッ」
兵鳥はたちまち蹲り、身体を痙攣させた。その耳元に、密やかな声を落とす。
「ヨッカ――ヨークライン・ヴァン・キャンベルの拘束されている場所を知っていたら、教えてください」
「キ……キャンベルは……っ、屯所の……留置所に……」
「ありがとうございます」
わななく唇から聞き出した後は、別の解呪符を使って眠らせた。
『兵鳥の屯所なら、枢機部からさほど遠くない筈よね』
「うん、エルに何度か連れてってもらったことがあるから、迷わずに行けると思うわ」
マーガレットの声に頷きながら、リーンも道順を思い返す。
歩を進めようとした矢先、目の前を俊敏な速さで何かが横切った。真横の壁に突き刺さったのは鋭利な小刀。少女の背後から姿を現したホスティアが、冷たい眼差しで見据えていた。
「こんな真夜中に夜遊びなどとは……感心いたしませんよ、公主」
リーンはためらいなく解呪符を差し向けた。
「ヨッカに会いたいの。もう止めないで」
ホスティアの唇に冷笑が浮かぶ。
「本当に、何処までも手のつけられない御方だ……」
飛翔装をたなびかせ、ふんわりと舞い上がった身体が、次の瞬間、少女に向かって突進してきた。
「――ッ」
口を開く隙間も与えられなかった。頬を叩かれたと思うと、横髪を思い切り掴まれ、痛みに顔が歪む。よろめいた脚は、すぐにふっと宙へ浮いた。ほぼ同時に首にも衝撃が走り、息が止まる。次いで背中と頭にも激痛が走った。壁に押し付けられ、張り付けにされたのだ。
「……う、……ぁ……っ!」
鍛錬された腕を必死になって掴むが、びくともしない。
「あなた様の存在は……御前の何もかもを惑わせ、狂わせて、脅かす……ッ!」
菫色の冷徹な瞳には、もはや情の欠片もなかった。細い首を捕らえる片手が、徐々に力を込めて締め上げていく。
「神の花嫁など、神そのものであるあの方に、ただ付き従っていれば良い。それが出来ぬと言うなら、今ここで……!」
「とりあえずは、塔に戻って安否確認か? ……いや、そっちじゃねえな」
天空都市に戻ってきたピックスは、胸騒ぎを覚える方角――枢機部へ飛翔を続ける。
キャンベル家が己を足止めさせたのは、十中八九にヨークラインが動き出したからだろう――リーンを取り戻すために。
勘が告げるのはそれだけではない。こめかみが鋭く苛み、背筋を冷ややかに立ち昇る得体の知れない焦燥感。それを嫌々抱え込みながら、屯所と枢機部を繋ぐ回廊を突き進み――横目で捉えたのは、喘ぐ少女の姿。
瞬時に頭が沸騰した。旋回し、矢の勢いでホスティアに迫る。
「何やってんだ、てめぇは!」
少女を今にも殺めんとする身体を、脚で横から蹴り飛ばした。吹き飛ばされたホスティアはすぐさま体勢を整えて、ピックスを睨み上げる。
「邪魔立てをするな……! この娘は、御前には相容れぬ異物……ッ!」
「頭のネジかっ飛ばしてんじゃねぇぞ、この偏執狂が」
鳩尾へ容赦のない拳を突き入れた。難なく気絶させた身体は回廊の端に転がし、少女の様子を確かめるように傍らへ身を寄せる。
「ったく、トチ狂いやがって。……怪我はねえか、お嬢」
咳き込みながらも、リーンは大丈夫だと頷いた。ピックスは安堵しつつ、しかめ面で周囲を見回していく。気遣うようにではあるが、複雑な口調が滑り出た。
「つーか、マジでどういう状況だ。……お前さんは、てっきりキャンベルと一緒なんだと踏んでたんだが」
リーンはピックスの外套を掴み、ひたむきに訴える。
「エルが……! 早く止めないと、ヨッカが死んじゃう!」
「くそったれ、あのガキ。先走りやがったか……」
ピックスは目をそばめ、苦り切ったため息を落とした。どうやら悪い予感が当たったらしい。
「だったら屯所の留置所か? 俺が様子を見てくるから、お前は部屋で大人しく……」
「駄目! エルとヨッカをこのまま放ってはおけない。……それに、私はなさなくちゃいけないことがあるの。本当に、今度こそ、林檎姫の呪いを解いてみせたいの」
そう言いながら、コートのポケット部分にそっと手を添える。そこに忍ばせるものを悟り、ピックスの眉が跳ね上がった。
「そのチンケな魔女ごときの小細工でか?」
「……でも、ガーランドの一族である私にしか出来ないことなの」
凛と張る声音から揺るがない覚悟が見てとれ、ピックスは密かに歯噛みする。冷ややかな嫌な予感は、どうやらこちらが本物だったようだ。
「……まさか死ぬ気じゃねえだろうな」
「そうはならないつもりだけど、絶対って約束は出来ない。ヨッカのためなら、私は呪われても構わないのだから」
気付けば少女の両肩を掴んで、苛烈に吠えていた。
「お前なあ……っ、命あっての物種だろうが! そんなくっっだらねえ奉仕精神なんざ、キャンベルだって望んじゃいねえぞ!」
リーンは唇を硬く引き締めたまま、小さく首を横に振る。
「奉仕じゃないわ。これは、単なる私のわがままなの。……ヨッカにはなるべく長く生きてほしいっていう、ただそれだけの」
「この、一辺倒の頑固娘が。すっかり小賢しい口車を回しやがって……ッ」
「……あなたも立ちはだかるというのなら、無理にでも押し通すしかない」
リーンはピックスから距離を取ると、解呪符を取り出して掲げた。少女の好戦的な態度は珍しく、思わず口端が吊り上がる。
「……俺様は強いぞ、お嬢」
回廊の中央に陣取り、その行く手を塞いだ。背後には屯所へ続く経路。少女から決して目を離さぬまま、腰元からナイフを抜き、威嚇するように構える。
「懐に入ったら、一撃だ」
「……ッ」
リーンはつい後ずさりつつも、解呪符をかざしつつ唱える。
「其は路傍に風化せし名もなき小石――エンコード:『ストーン・クラウド』!」
細身の姿が、ピックスの視界からうっすらと掻き消えた。それでもその気配が消えた訳でない。横切る瞬間は、空気の僅かな揺れで分かるだろう。
所詮は目くらまし程度で、耳を澄ませば、密かな足音も拾える筈――だが、軋む音が響いたのは、予想外の方向。月影が漏れる窓辺、鉄製の格子窓からだ。
「は? ……まさか、」
「解錠エンコード:『ヴァーヴェイン』……ッ!」
少女が強く叫んだ瞬間、格子窓が両開きに解放される。外から勢い良く入り込んだ突風で姿が露わになり、その伸びやかな黒髪を強く煽った。
そこから見渡す標高の高さに一瞬怯みつつも、窓辺に足をかけて、思い切り身を乗り出していく。
「飛び降りる気かよ……ッ!? ……っの、マジでじゃじゃ馬……ッ!」
すぐにピックスも跳ね飛んだ。その手が伸びきる前に、リーンは鉄窓を閉じる。が、その表情が痛ましげに歪んだ。
「っ……!」
風に煽られたせいで、長い髪が扉口に挟まってしまったのだ。ピックスはすかさず格子の合間から片腕を伸ばし、少女のふらつく足元を支える。
どうにかの捕獲に胸を撫で下ろしつつ、もう片方の手にあったナイフを腰元に戻した。顔を左右に捻って呻く少女に、呆れを滲ませながら呼びかける。
「無理に引っ張るとハゲるぞ、いいのか」
細い腰回りを両腕で囲えば、リーンは懸命に身じろいだ。
「離して! ヨッカに会わせて……!」
「離さねえよ。エルの癇癪も、キャンベルとの因縁も、お前さんにゃ荷が重い」
「でも、このままじゃあ……!」
悲痛な叫び声がピックスの鼓膜を揺らし――その瞬間、それは唐突にやって来た。
――いやだ、白百合だけ残さない。だから離さない。
――でも、このままじゃあ、全員捕まっちゃう。私は大丈夫だから、……ごめんね、さよなら。
――やめて、切らないで! お願いだから、白百合!
呼び起こされるのはかつての記憶。現実と重なり合いながら目まぐるしくよぎる残像。己と少女を阻む鉄格子。引き留めたくて、隙間からどうにか掴んだ長い黒髪。
その揺るぎない、まっさらに澄んだ蒼い瞳。
いつも誰かのためにその身を捧げる、きれいな白百合の少女。
「……ッ」
未だこびりつく追憶が、ピックスの行動を一瞬だけ鈍らせた。気が付けば、少女の手札が、ひたりと腹部に撫で付けられていた。
「其は雨を乞う西風の花――エンコード:『レインリリー』」
稲妻を浴びたかのような痺れが全身を突き抜けていき、ピックスは声なき絶叫を上げる。
「ぐ、ぁ……ッ!」
強張った体躯を、ほっそりとした指が撫でるように滑って、その腰元へと辿った。そこに収まるナイフの柄を、ためらうことなく掴む。
ピックスは瞠目し、無性に寒々しい予兆を凝視してもなお、四肢は痙攣して動くことはままならない。
「おい……、何を……ッ!」
抜かれた白刃が月影を弾いて、淡い銀色の光を零した。黒真珠のような光沢を纏う長い髪に、ゆっくり宛がわれていく。
「やめろ……やめてくれ……ッ」
痺れて硬直したまま囲う手に、僅かにでもどうにか力を込めていく。
「神の花嫁としての覚悟を決めたんじゃなかったのか! キャンベルとの因縁は、そうやってケリをつけた筈だろ!? だったら、その決意を最後まで貫き通してくれよ……!」
不意に手が動きを止めた。そのすぐ傍らで、ピックスは窓越しに額を押し当てる。祈るように目を伏せて、嘆願を静かに重ねていく。
「頼むから……白百合……!」
引き絞るような切なる声音に、――少女は小さくかぶりを振った。
「ごめんなさい」
切れ味の良い刃先は、漆黒の髪束を鮮やかに切り落とした。
髪を肩先で不揃いに揺らしながら、リーンは毅然と言い放つ。
「私は、神さまの花嫁にはならない。ただ、一番大好きな人の傍にいたい……!」
ナイフをその場に放り、少女はまた新たに解呪符を掲げた。
「其は全てを蹴散らす荒野の烈風――エンコード:『トルネード』!」
嵐に乗って一層軽やかに舞い上がった身体は、力のない腕から難なく逃れ、風を切って空中を駆けていく。まるで自由を得た鳥のように。
その姿が消えるまで、ピックスは呆然と見送るしかなかった。やがて窓辺に背を預けて、ズルズルと座り込んでいく。
「……畜生、ダっセェ……」
顔を俯かせ、行き場のない拳を遣る瀬なく振るった。
「……過去に一番こだわってんのは、俺じゃねえか……」
扉を力なく開け放つと、吹き荒れる突風が取り残された黒髪を攫っていく。それは行く当てもなく遠く天を翔け、捥がれた花びらのように呆気なく散っていった。




