ホワイトデイズ - blank black back again -
人は死んだらどうなるのだろう――きっと恐らく、空っぽになるだけだ。
黙然と立ち尽くすのは、凪いだ夜海のような暗黒の世界。辺りを隈なく巡らそうにも何もない。むしろ何も見えないし、何も感じない。この手に何もなくなるのだから当たり前だ。この暗闇は、当然なまでに空っぽだ。
空っぽになってしまったのなら、息をするのも億劫なのは納得だった。このまま凪ぎの暗闇に溶けていけばいい。この身の些末さなどとうに知っている。
――ヨッカ。
それでも誰かに呼ばれた気がした。
その切ない音色に応えたくて、自然と手を伸ばす。
誰かが呼んでくれるのなら。こんな自分でも必要としてくれるのならば。
まだ己は目を覚ましていられるのだ。
黒曜石のような瞳が瞬きを数回繰り返した。そこに光を差し込ませるのは、ベッドサイドに置かれたガスランプ。不安定に揺らめく灯火が、木壁を暖かな橙色で染め上げている。
ようやく漏れた低い声音は、酷く小さく掠れていた。
「……――ここは」
「古都トリスタンメーラよ」
はっきりした応答が聞こえ、緩慢に首を捻る。近くの暖炉で鍋の番をする少女と、すぐ傍らのテーブルで芋の皮むきをする中年の男がヨークラインを柔らかく見下ろしていた。
「タッジー……マッジー……」
「どうです、起き上がれますか、坊ちゃん」
「ああ……」
寝かされていたベッドから上半身を起こし、改めて部屋の様子を探った。窓は木戸で隔たれており、漏れ入る陽光は僅かなもの。手狭な隠れ家といったところだろうか。
落ち着かない素振りを見せるヨークラインに、タッジーが肩を揺らしていく。
「レディ・カラミティのご命令でね。さしあたっての騒動が静まるまでの、ひとまずの寝ぐらでさぁ」
「ここにはお前たちと俺だけか。……他の皆はどうした?」
「それぞれの縁のある別場所で保護されてます。天空都市も立ち入れない不可侵領域なんで、安心してくだせえ」
口に出された都市の名に、ヨークラインは大層深く眉間のしわを寄せた。だが淡々と問いを重ねていく。
「カタリナは?」
「ヨークちゃんの代わりに、闇狩りにイチャもんをつけられてる頃合いね」
「闇狩り……そうか、まだいたのか……あのハイエナ共は」
嘆息しながら奥歯を噛み締めれば、マッジーも顔をしかめつつ、鍋の中身を掻き回す。
「討伐隊としての戦闘力は抜きん出ているから。――王の庇護から外れた途端、金のためならかつてのよしみも一族郎党根絶やしにして……。あの我利我利亡者の手から、ヨークちゃんはホント良く生き延びたわね」
「お前たちが逃がしてくれたからな。感謝している」
マッジーは満更でもないと身体をくねらせる。
「うふふん、ヨークちゃんのためならたとえ火の中水の中ってね! 可愛い子には旅させたいけど、お守りだってしたいのが親心ってもんよ」
「……ならば、キャンベル伯爵の本来の狙いは……」
タッジーがへらりと苦笑を浮かべた。
「伯爵は無益なことをなさらないお人です。坊ちゃんやお嬢様方のお命は、あの人にとって無駄ではないってことでさね」
「成程、それでカタリナが代行を。……ならば、何故素直にそう言わない」
「ま、日頃の行いってモンをレディ自身もご存じですから。たとえ素直に伝えたところで、おままごとを続けたがる子供たちがその筋を貫き通したがるのは明白でしょうに」
今にも噛み付きそうな表情のヨークラインだったが、押し黙った。マーガレットもプリムローズも恐らくはジョシュアも、キャンベル家を明け渡さないと躍起になる可能性は高かった。
「まったく、本当にあの人たちは……。振り回されるこちらの身にもなってくれ」
げんなりと肩を落とすヨークラインの傍に、マッジーが出来立てのクリームスープを片手にやって来た。器の中身を木さじで掬って、青年の口元へと寄せる。
「そういうワケで、ヨークちゃんはしばらく引きこもって療養ね。解呪されたらしいとはいえ、術後の経過観察はしっかりやらなきゃ。はい、あーんして」
「だから幼子扱いはやめろと言うに……」
「んもう、自覚のない子。病人扱いでもあるのよ」
――そんな扱いなんてしてない。ほら、ヨッカ、あーんして、ちゃんと食べて。
少女の面影がよぎり、目前の木さじを思わずねめつけてしまう。
無言でマッジーの手から器とさじを奪うと、スープを黙々と口に入れた。ゆっくりと喉奥に押し込んでいけば、身体が自然と温まってくる。冷たく昂っていた神経がようやく宥めすかされ、強張りが解けていくようだった。次いで漏れる吐息に、自然と悩ましさが入り混じる。
「解せない……。彼女は、何故あんな真似を……」
不服そうな物言いが珍しいのか、マッジーが目を丸くする。
「日和っこちゃんのこと? 何故って、そりゃあヨークちゃんを助けたかったからでしょ?」
「そうじゃない、何故俺に黙って、あのような方法を取ったのかが分からん」
「言い出して聞かないヨークちゃんが、日和っこちゃんのために無理を重ねるのを、それこそ黙って見ていられなかったんでしょ」
「だからとて、俺はこんな裏切るような……」
マッジーがとうとう呆れたように肩をすくめる。
「はぁ、もう駄々を捏ねくり回しちゃって、ホントに手のかかる子ねえ。じゃあもっとちゃんと言ってあげるけど、ヨークちゃんの不甲斐なさに、日和っこちゃんがとうとう見切りをつけたんでしょ」
「見切り……?」
信じられないように目を瞠るヨークラインに、マッジーはにっこりと微笑んで追い打ちをかける。
「つまりヨークちゃんは、あの子にフラれたってこと。ご愁傷様♡」
「フラれ……?」
台詞を唖然と反芻するヨークラインの肩を、背後からタッジーが支えるように抱き留めた。
「やめたげて、マッジー。坊ちゃんこう見えて繊細なんだから。ただでさえバッキバキにひび割れたメンタルをこれ以上抉らないであげて!」
ヨークラインは僅かにかぶりを振った。
「いや、問題ない。きちんと分かっている、事実だしな。……必要ない、と言われたからな……」
「ああああすでに抉られまくってるう! 坊ちゃんしっかり!」
「んもう、たかが小娘一人にフラれたからって何だって言うのよ。ジメジメと鬱陶しいわねえ」
マッジーがやれやれと吐き捨てるが、タッジーは不満げに睨み返した。
「昔から可愛がってた姫君なの! 坊ちゃんにとってはお家のための初任務だったし、情も思い入れも人一倍あるってもんでしょ!」
「だからって任務の完遂に勇んで、聞かん坊姿勢なのはいただけないわよね。むしろ、日和っこちゃんの方が大人だったし、弁えを持ってるわ。ヨークちゃんをいつまでも自分の言いなりなんかにさせたくなかったのよ。だって気持ち悪いだけじゃない、自分にヘイコラと尻尾振るだけの犬みたいな男なんて」
「気持ち悪い……犬……」
「坊ちゃん、あくまでマッジーのシュミのハナシです。本気で受け取めんでくだせえ。俺も好いた女には平伏するタイプでさあ」
「……ま、日和っこちゃんの本音はどうだか知らないけれど」
男二人がうなだれる様子をマッジーは淡々と一瞥しながら、鍋の番に戻っていく。
「ともかく、これにて守護者はお役御免。逆に言えば、ガーランド家から解放されて、晴れて自由の身となったのよ。だから、これからヨークちゃんは、自分自身のことだけに気を向けていればいいの」
「俺自身のこと……?」
ヨークラインは呆けた声音で零し、何かを躊躇うように視線を逸らす。
「……俺のことと、いきなり言われても……」
「そんなの、ヨークちゃんの好きなことや、したいことをすればいいじゃない。療養をする前提での話だけど」
「好きなこと……したいこと……」
言葉を繰り返しながら、やがて途方に暮れたように表情が強張っていく。幼子さながらの迷い惑う眼差しを、マッジーは何処か懐かしそうにしながら柔らかな苦笑を浮かべた。
「相変わらず、ホントに世話の焼ける子ねえ。じゃあ外でお散歩でもしてらっしゃいな。――今のヨークちゃんに本当に必要なのは、何もしないことかもしれないわね」
古都トリスタンメーラ――かつての王家が居を構えた、長き歴史を刻む城郭都市。
主をなくした城は現在天空都市の管理下にあり、警固の兵鳥が錆びた鉄門の前で見張りをしている。それを遠目に、ヨークラインは昼下がりの街をゆったりとした足取りで巡った。
天空都市の艶やかな大理石の建造物とはまるで真逆の、灰を被ったような石造りの街並み。中心部の食料で溢れる市場は賑わっていたが、街外れまで足を進めれば人気は随分とまばらになってくる。少々の砂利の混じる素朴な石畳は、故郷となる街の風合いと似通うものを感じ、知れず郷愁を運んでくる。
鬱蒼とした深い森と幾つもの湖、雄大な山々に囲まれたクラムの土地。
クラム家は自然物を神と崇拝し、その力を使役・制御することで栄えた一族だった。中でも、山から採掘した鉱石を用いた製鉄技術はクラム家独自のものであり、製造された武器は特殊な力を帯びる。高エネルギー体となる自然物に注視し、そのエネルギーを抽出する開発も行っていた。
解呪符の秘儀――マーガレットに授けたのはその基礎となる源泉機構であり、開発に勤しむ兄から聞きかじった程度の知識に過ぎない。
クラム家を永代まで栄えさせること。その使命を負っていた兄たちは、その役割をヨークラインには決して強要しなかった。
――俺の責務は俺だけのものだ。お前のすべきことは、己が心の赴くままに見つけるものだ。
――別にお前は何にも背負わなくていいって。お前にはお前の人生があるんだからさ。
生真面目で努力家の長兄と、気さくで器用な次兄だった。不愛想でこれといった取り柄もない末弟に、勿体ないくらいの大きな心を寄せてくれた。仕事で忙しくしている両親に不満を覚えたことがなかったのは、兄たちが可愛がってくれたおかげなのかもしれない。
何も出来なくても構わない。何をしていても構わない。そのままでいいと言われても、ちっとも嬉しくなかった。だからこそ役に立ちたかった。ここぞと言うところで頼られたかった。
遠く南の果てから来た負の遺産のような手紙に飛びついたのは、ヨークラインにとって奇貨だったからだ。
「思えば、実につまらん理由だな……」
神の呪いは、使命欲しさに奪っただけ。廃滅を余儀なくされたガーランド家を口実に、重責を勝手に担って、やりたいことがなく頼られたいだけの自己本位な犠牲行為だ。
それでも、遠からぬ死を予見させる呪いを受け入れることに、躊躇いがなかったと言えば嘘になる。
誰かのために役に立つとしても、その誰かが尽くす価値に見合う者でなければ心は動かない。誰かのためと言いながら、必ずしも誰でも良い訳ではないのだ。
けれど、少女は違った。
――どうしたの? どこかいたいの?
――いたいのいたいのとんでいけ。いたいのとんで、どうかわらってくれますように。
傅くに値する少女は、誰でもない誰かのために、対価も求めず願ってくれたのだ。
「……俺とは、何もかも大違いだ」
あの日と同じの燃え尽くす西日がヨークラインの頬を染め上げていく。山の向こうに沈まんとする斜陽を臨みながら、ため息と似通う声が口零れてしまう。
全てを見通すというあの澄んだ蒼い瞳に、とうとう己の性根の安っぽさを見透かされてしまったのだろうか。なら見限られるのも無理はない。
(だからとて、俺に断りもなく勝手に呪いを奪うなど……しかも素性の怪しい者の手を借りてまで……)
己が一方的であるのなら、少女も一方的なのだ。聞く耳を持たないと思い込ませたこちらの落ち度があったとしても、多少やりようがまだあった筈だ。こちらの信頼が足りなかったのか。それとも、あの少年に著しくたり得るものがあったからなのか。
――僕は林檎を食べて生き長らえて、白百合の賢者の呪いも解けて、これにてめでたしめでたし。
全てが一切の不都合なく取り計らわれ、幸せな物語のように幕を下ろした。誰の犠牲も出さずに命は救われて、しがらみは解かれて、この身はとうとう自由となった。
(……だからとて)
炎々と燃える空に煽られたのか、言いようのない苛立ちが胸の奥からじりじりと燻り上がる。胸の前に置いた手が、ぎゅっと硬い拳を形作った。
「……何がめでたいものか」
隠れ家に戻ると、マッジーが夕食の準備をしながら出迎えてくれる。故郷で良く食べていた豆のスープだった。久しく食べていない味わいを懐かしみながらも豪快に口に入れていけば、マッジーが嬉しそうに相好を崩した。
「良い食べっぷり。それに随分サッパリした顔しちゃって」
「そうか? むしろむしゃくしゃしてる」
硬いパンをスープに浸しながら、これも大口で頬張る。
「リーン=リリーは、俺のことを何も分かってない」
「そりゃあそうよね、肝心なことを伝えてないんだもの」
マッジーは肩をすくめると、テーブルに頬杖をついてヨークラインを見据える。
「望みは言葉にしないと、伝わらないものよ」
「……人に縋って望んだところで、叶うとは限らん」
ガーランド家に半年ほど滞在し、クラム家へ戻った矢先に闇狩りから追われた。結局、命辛々生き延びたのは、生きる価値のない己だけだ。
頼りにしてほしかった。生き延びてほしかった。兄たちも、ガーランドの一族も。
――ヨッカ。
己をそう呼んで慕う幼い主を、この手で護り抜きたかった。
どうかどうかと願いを向ける者は、ことごとく無情にヨークラインの手から離れていく。
マッジーは柔らかな眼差しを向け続ける。
「だからこそ、人は人に希うものじゃないかしら。こうあってほしいって求める心は、生きていく限り当たり前にあるものよ。ヨークちゃんの、日和っこちゃんへの願いは一体何だったの?」
優しい声音で問われ、一瞬、逡巡したように視線を惑わせる。
「生きていてくれれば、それ以上に願うことなど……」
けれど、再び相見えた時の、相も変わらずの泣き顔にはどうにも弱った。だから笑ってほしかった。それだけだと思っていたというのに。
「……ただ、どうしても納得がいかないんだ」
そもそも、己がどうして呪いをこの身に受けて、幼い少女に忠誠を誓ったのか。彼女は知らない。何も分かっていないのだ。自然と吐き捨てるような声音になる。
「……ならばもう知るか。必要ないと言うのなら、こちらも好き勝手に、野放図にさせてもらう」
「あら、意外と立ち直りが早いのね」
「開き直ることなら得意だ。悩んだところで腹が減るだけだしな」
空になった器を差し出せば、マッジーが嬉しそうに笑ってお代わりを注いでくれる。
「そうそう、その調子よ。モリモリ食べて、ビシバシやっちゃいなさいな」
「ここぞというとこで思い切りが良いですよね、坊ちゃんって」
ケタケタと軽快に肩を揺らすタッジーに、ヨークラインは真っ直ぐ向き直る。
「キャンベル伯領に戻りたい。我がキャンベルを、闇狩りの手から取り戻す。お前たちも手伝ってくれ」
「モチのロンで助太刀いたしやすが、今すぐにはちょっと無理な話でさあ。ちっとばかし時期を見計らいましょうや」
「家も領地も何もかも荒らされるのを、黙って見てろと?」
剣呑に目を吊り上げるヨークラインを宥めるように、マッジーが入れ立ての紅茶を差し出してくれる。
「そんなに急がなくても大丈夫よ。伯領全体が冬ごもりなんだから、そう大した手出しはしないわよ。それに、レディ・カラミティが上手く立ち回ってくれるわ」
「だが、彼女一人だけでは……」
逸る気持ちを止められない青年の肩を、タッジーが数回優しく叩いた。
「ま、問題ありやせんて。何たってあの災厄を呼ぶレディ・カラミティですし。……ましてや王家の裏切者を、あのお方が許す筈もない――絶対に絶対にね」
声を神妙に低く落とされ、ヨークラインは訝しげな表情になる。
「今は赤茶けた縮れ髪と黄土色の瞳ですけどね、お若い頃はそりゃあもう美しい艶やかな赤髪と、星の輝きにも劣らぬ金の瞳、誰もが虜となる類い稀な美貌をお持ちでした。それはまさに、林檎姫の再誕とまで言われた程でしてね」
「林檎姫の? つまりそれは、まさか……」
俄かに信じがたいと瞠目するヨークラインに、タッジーは益々思わせぶりに含み笑った。
「初代フェルディナンド陛下の寵愛を受けし神の娘、林檎姫。その血を受け継ぐ王家の直系一族。王家が崩壊し、流浪の身となった一人の公女の辿り着いた果てが、辺境伯領キャンベルだった――これはね、そういう『物語』なんでさぁ」