Decision Bell Ⅱ
灰煙る曇天から降り注ぐ寒雨はやがて凝固し、柔らかな雪へと姿を変えた。日ごとに厳しくなる冷え込みで、融けずに深々と降り積もり、赤茶けた荒野も深緑の草原も全て真っ白に染め上げていく。
凍てついた冷気が支配するキャンベル伯領の最北端。高い山脈が壁となるそのふもとに、古びた聖堂があった。白漆喰で塗り固めた外壁、屋根の上の小塔には大きな鐘がぶら下がっている。仕掛け時計の作動で鳴り渡るのは、冬至を迎えるその日のみ。年の越える真夜中に、また一つの歳月を刻むように荘厳な音色を奏でていく。
入ってすぐに目を引くのは、真正面の最奥部を飾り立てる七彩のステンドグラス。すぐ手前の祭壇をほのかなきらめきで満たしている。その壇上に登ると、中央の窪んで炉床となる部分が覗き込める。神聖な火をくべるためのものだ。
火打石によって生まれた火花が、乾燥させた薬草を火種にしてちらちらと明るく揺れる。そこに細い木枝を重ねて、ゆっくりと炎に変えていく。踊るほどに大きく燃え盛ったものを祭壇の炉の中に収めて、一晩絶やさずに巨大な炎を守っていく。冬を穏やかに越せるように。途絶えぬ時の流れの中で、新しく来訪する一年を祝福で満たせるように。
聖堂を暖かな橙の光で染め上げていく傍らで、外では雪片が舞い狂っていた。
夜の迫る猛然と吹雪く世界を、窓にへばりつくプリムローズが目を輝かせて見やっている。
「めちゃくちゃ寒そうなのよ~。でもかまくらは作ってみたいのよ~」
ミニドレスを纏う身体をそわそわと揺らして、外出に心をうずかせいている妹をマーガレットが苦く笑う。
「どうしても作りたいなら冬至祭の後になさいな。……はぁ、あたしは一歩も出たくない気分よ。ここから出た瞬間に身も心も凍るわね」
そう言いながら、吹雪に当てられるように手を思わずさする。
「寒いかい、メグ。必要ならもっと温かくするけれど」
ジョシュアが手の中の解呪符を掲げた。焚き火だけでは心許ないからと、聖堂の中はすでに人工的な暖気で満たされている。
マーガレットの纏う真紅のドレスは肩が剥き出しになったデザインで、薄着であるのも心配なのだろう。毛皮のマフラーを首に纏っているので、実際はそこまで寒くない。
「充分よ、ありがとう。それでも温かい紅茶は欲しい気分ね」
「美味しいお菓子もあると嬉しいのよ」
姉妹からの甘えた声に、ジョシュアがくすりと笑う。
「了解。すぐ支度するよ」
聖堂の奥間へ向かっていったジョシュアを見やりながら、ヨークラインは二人に苦言を向けた。
「ジョシュアをいつものように扱ってくれるなよ。あいつの衣装は汚れが目立ちそうだからな」
ジョシュアの身を包むのは、やたらきらびやかな衣装だった。オフホワイトの装束にはスパンコールや硝子ビーズがふんだんに散りばめられ、肩飾りにはフリンジと真っ白な羽まであしらわれている。白馬に乗れば、お伽話に出てくる王子だと勘違いされるかもしれない。
プリムローズが愉快そうにきゃらきゃらと笑う。
「んふふ、王子様に給仕させるって、なかなかのボートク感なのよ」
「どっちかっていうと背徳感でしょ。ま、確かに世の乙女たちの解釈違いを起こしそうよね」
「だいじょぶなのよ、だがそこがいいっていう層だって紛れもなくいるのよ」
「一体何の話をしてるんだ、お前たちは……」
呆れたように言い零すヨークラインを、姉妹は仰ぎ見た。
ヨークラインもこの日のために衣装を新調しているが、普段と似通うすらっとしたシルエットの黒い礼服姿だ。違いがあるとすれば、上着の裾が多少長くなったくらいだろう。
「にいちゃまのにも遊び心のひとつやふたつ、あつらえたら良かったのに」
「一応聞いてみたけど断られたのよ。相変わらず物欲も洒落っ気もないんだから」
「なくても別に困らん。祭礼に相応しいかどうかだけでいい」
関心が微塵も湧かないらしい青年は、あくまでも生真面目だった。
「それはそうと、にいちゃまってば体調はどうなのよ」
「最近は寝てばかりだからな、安定している」
「ま、こんな吹雪じゃ外には出ていけないものね」
「サイケデリック・アルカディアの患者もぱったり来なくなったしね」
紅茶の支度を整えたジョシュアが穏やかに話に交じってくる。
「天空都市が目を光らせているんだし、こんなに雪が積もってるなら、招呪師も家で大人しくしてるんじゃないかな」
「ま、それもそうね」
マーガレットがティーカップを手に持ちながら、遠くへ呼びかけた。
「リーン、こっちにいらっしゃい。お茶の支度が出来たわよ」
「ありがとう、今行くわ」
物珍しさからずっと炎を見上げていた少女は、呼びかけに振り向くと祭壇から降りてきた。そろそろと慎重に歩み進めるのは、髪飾りが重いからだろうか。頭全体を覆う造りの純銀製で、艶やかな長い黒髪に添う玉飾りが一歩進むごとに煌々と揺れ動き、しゃらり、しゃらりと細やかな音を立てる。
プリムローズとマーガレットがにんまりと微笑んだ。
「嬢ちゃま、やっぱりお姫様みたい」
「間違いなく今年の優勝よね。昼間の祭儀でも大好評だったし」
今日の昼間は、フラウベリーの聖堂でも儀式を執り行ってきた。村人も参加が許されるものなのだが、実態はほぼ衣装お披露目会みたいなものである。何度もフラッシュが焚かれ、大勢の人に囲まれながら沢山の記念写真を撮った。
もっとも、リーンと一緒に映りたがるのは主に歳の老いた農夫や村娘たちだったのだが。
「ま、馬に蹴られるのは避けたいってところよね」
「今にも誓いの言葉を囁かないのかって、むしろ皆うずうずしてたもんね」
「だから何の話をしている……?」
姉妹から生温い目を向けられて、ヨークラインは訝しげに片眉を跳ね上げた。
ジョシュアが別途のトレイに支度したティーセットを、気付いたリーンが持ち上げた。
「これって、カタリナおばあさまへのものよね」
「そうだけれど、レディ、僕が持っていくよ。その格好だと裾を踏んづけてしまわないかい」
「大丈夫。見かけによらず、意外と歩きやすいの」
そう微笑んで、礼拝席の隅の窓辺に腰掛けるカタリナの傍らへ寄っていく。差し出された紅茶を飲むカタリナの隣でリーンも腰を落ち着け、そのまま二人は何やら会話を始めてしまった。
姉妹が気に食わないと、不審な視線を向ける。
「……嬢ちゃまが、妙に懐いているのよ」
「あの子ってば筋金入りの能天気……じゃなくて、お人好しなのかしらね」
ヨークラインから密かな鋭い眼力を感じて、言い改めるマーガレットである。
「むしろ、嬢ちゃまが絆されてるってとこに注目すべき? ばばしゃまの狙いがちっともちんぷんかんぷんだもの」
「そうね……本当に、何を考えているのかしら。おじいさまの伝言役っていうけれど、意図が曖昧だわ」
「『おままごとはお終いにしなさい』だもんね」
肩を下げる妹たちに、ヨークラインは明朗に声を放った。
「今更、終いにする謂れはなかろう。俺たちは十二分に、キャンベル家にもこの土地にも馴染んだんだ」
「そうだよ、レディたち。伯爵のトンデモに真面目に付き合っていたら、心臓がいくつあっても足りないよ。レディ・カラミティには、伯爵の名を使った別の狙いがあるのかもしれないし」
「確かにそうよね、出稼ぎなんて今更って感じだし。それに、こんな雪じゃあ女学校にも行けないわ」
マーガレットは再び窓の向こうの猛吹雪を見やった。そしてハッと瞠目する。
「……まさかあの人、アレコレ理由付けて、単にウチで冬ごもりしたかっただけなんじゃあ。基本的に根無し草の筈よね」
「いくらなんでも、それは悠長な考えじゃないかなあ」
思わず苦笑するジョシュアだが、プリムローズも真面目に食いついてくる。
「ううん、ジョシュアちゃんの美味しいゴハンが三食昼寝付きで味わえるんなら、ありえなくもないのよ」
「絶対そうよ。いいえ、むしろジョシュが本命かもしれないわ。……防犯用の解呪符、改良を加えるべきよね」
「ジョシュアちゃんの貞操が守れるかどうかは、あたしたちにかかってるのよ」
「ありがとうレディたち、心強いよ」
姉妹の迫真な表情を、ジョシュアは照れくさそうに見下ろしている。
ヨークラインはそれを冷めた目で見やっていたが、炎の灯る祭壇へ上がっていく。
「……カタリナの意図がどうあれ、今は冬至祭のことだけ考えろ。キャンベル領主として必ず成功させねばならん」
「ま、一晩眠らずに、ここでまったりするだけなんだけどね」
「火は決して絶やさずに、だ」
そう言いながら、若き領主は炉床に燃料の薪をまた一つ置き重ねた。
夜半に近付くにつれて、斜めに吹き荒ぶ吹雪は勢いを弱め、今は音も立てず天からまばらに降り落ちてくるだけとなった。
眠らないようにと、皆は炎の踊る祭壇の周りを囲むようにして座っていた。
一時ほど前は各々他愛のないおしゃべりに花を咲かせていたが、段々と自然に黙り込み、今は神聖なものを見つめるように橙の火柱を仰ぎ見ている。ぱちりぱちりと小さく弾ける火花の音が、快い律動となって聖堂全体に響き渡っていた。
リーンのすぐ隣では、こっくりこっくりと小さな頭が舟を漕いでいた。先ほどまではリーンに明るくしゃべりかけていたプリムローズだった。
寝入る直前の蕩けるような表情は、リーンが肩に毛布をかけるととうとう瞼を下ろしてしまう。そのまま、懐へ甘えるように寝転がってきた。穏やかな小さな寝息につられて、お互いの鼓動が暖かく共鳴するようだった。
瞼を伏せがちにしながら、弱々しい微笑みを浮かべるリーンはかすかに囁く。
「……今までありがとう」
瞬間、ぱちりと瞼が開いて、長い睫毛に縁取られる紅玉色の大きな瞳がリーンを映した。
「ご、ごめんなさい、起こしちゃったかしら」
それでもその眼差しは、夢の中を揺蕩うもの。
けれどその声音は、悲痛なもの。
「……やっぱりだめ。何も言わないままは、だめなのよ」
「プリム、あの、」
強張った表情のリーンは思わず身を引いてしまうところだったが、小さな手がドレスの裾を強く掴んできた。小柄な身を乗り出して、密かな声がリーンの耳元で囁かれる。誰にも聞かせることのない、内緒話のように。
「……だからお願い。せめて、約束して。――『絶対に食べない』って」
「え……?」
蒼い瞳を瞬きしながら見下ろせば、幼い少女は妖精のような神秘の声音で更に言い募る。ひたむきに、歯痒そうに。
「神さまの木の実は、絶対に食べちゃだめなのよ」
「プリム……?」
巨大な鐘の音が響き渡った。身体全体を震撼させるように重々しく、厳かな音色。気高く何度も鳴り渡っていく中で、腹の奥底から膨大な昂りが込み上がって指先の果てまで広がっていく。
それは真夜中を報じるもの。冬至を迎えたのだと告げるもの。決して止まらずに、次なる歳月を呼び込む無常の合図。
そしてこれより、神の花嫁である少女は、否が応でも大人になる。
硝子の砕け散る甲高い破音が耳をつんざいた。聖堂の最奥にある巨大なステンドグラスが突き破られたのだ。
ぱっと跳ね起きたプリムローズは瞬時に解呪符を掲げる。
「其は魔を鎮める司祭の聖草――エンコード:『ビショップ・ワート』!」
大きな半透明のヴェールが頭上で展開し、祭壇とその周囲を覆った。砕け散ったステンドグラスは弾かれて、炎の光が乱反射しながら辺りに散らばっていく。
「な、何なの一体!?」
寝ぼけ眼を擦って、マーガレットも仰ぎ見る。そして瞬時に目を吊り上げた。
「あんた、真冬の真夜中にどういう迷惑千万……!」
無遠慮に破壊されたステンドガラスの向こう側には、空中にはためく大柄な黒いシルエットがあった。雲間から差し込む酷くぼんやりした月明りを背景に、高慢な笑みを浮かべて見下ろすピックスだ。
「よ、儀式中に邪魔すんぜ」
破片の散らばる窓辺に降り立つと、その傍らにもう一つの黒い影が静々と浮かび上がった。
「派手派手しいなあ、もう。目立ちたがりの身内なんて持つもんじゃないね」
そうため息をつくのは、淡色に波打つ髪と、長い指爪を持った古の魔法使い。プリムローズが歯を剥き出しにして唸った。
「またのうのうとウロウロと現れやがったのよ、このくそったわけの古ぼけ天外魔ッ!」
解呪符をもう一枚出そうとした時、すかさず魔術師は黒いローブの隙間から指爪を向けた。瞬間、石床に巨大な魔法陣が展開していく。
「『パスリセージ・ロズマリアンタイン、これは断ち切らぬ麻衣、針なしの宿命を君に』!」
硬質な床から突き破ってきたのは荊の蔓だった。キャンベル姉妹とジョシュアの手足に素早く巻き付いて、その場に拘束していく。
「小癪ッ、焼き払ってくれるッ!」
プリムローズは背を折り曲げて、腰元の巾着袋から紙札を器用に咥えて取り出した。
「其は焼け野が原に棲む貴人――エンコード:『サラマンダー』!」
絡み付く蔓が瞬時に焦げ付いて朽ちていく。が、後方から伸びた別の太い蔓がプリムローズの手首と胴体に巻き付いて、全身を宙に持ち上げた。
「くっそが~~! 離すの~~ッ、ぶちのめしてやるの~~ッ」
小柄ながらも猛獣のように暴れる様子を、魔術師はやれやれと見やって息をつく。
「あーやだやだ、極寒だってのにこの妖精は血の気が多くて嫌になる」
後ろ手に縛られ、足元を捕まえられた拍子に蹲ったマーガレットが、嫌悪を露わにして吐き捨てた。
「あんたたちグルだったってワケ? このド腐れ外道の二枚舌がッ!」
「まぁそうカリカリすんなよ。俺様がゲスいのは前から分かってたことじゃねえか」
ピックスは鼻であしらうと、壁際に佇むリーンへとゆっくり振り返った。蔓の拘束からは免れているが、身を固くしてその場に立ち尽くす少女の元へ一歩、二歩と近付いていく。だがヨークラインが遮るようにして立ちはだかった。
「お前たちは、一体何が狙いだ」
リーンを背後に隠しながら、解呪符を構えて睨み据える。対するピックスは飄々とした面持ちで口角を吊り上げた。
「テメーの呪いを解きにきてやったんだよ」
「何だと……?」
ヨークラインの険相を脇にやり、ピックスは何処か寂しげな眼差しを少女に送った。やがて神妙な声音を落としていく。
「……お嬢、大人になる腹は決まったか?」
「だから何の話を――」
ヨークラインが苛立たしく眉をひそめた、その瞬間だった。己の背中に、ひたりと撫でつけられるものがあった。
「其は雨を乞う西風の花――エンコード:『レインリリー』」
ヨークラインの全身を電撃に相応する強い痺れが貫いた。数回痙攣を起こした身体は、低い呻き声と共にその場へ崩れ落ちてしまう。
「……ぐ、ぁ……ッ」
「にいちゃま!」
「兄さん……ッ!」
「ヨーク! ……っ、レディ、君は……」
身動きの取れないジョシュアは、ただ悲痛な眼差しを向ける。解呪符を両手に握り締め、青年の傍らに佇む少女へと。
翳りを落とした少女の瞳はそれでも綺麗に澄んでいた。硬い宝石のように、つめたい光を宿していた。
呆然と見上げるヨークラインが、唇をわななかせながら小さく喘ぐ。
「リーン……リリー……一体、何故……」
冷ややかな無表情をたたえる少女は一言すら応えずに、ヨークラインから視線を外す。そして窓辺にふいと顔を向けた。
いつの間にか吹雪はやんでおり、無残に砕けたステンドグラスの向こうに柔い月影を覗かせている。淡く青みがかる朧な満月を背景に、真っ白なものがひらめいた。真珠のようにまろやかな乳白の光彩を輝かせる羽根衣。
清白の翼を背に持つ少年が、軽やかに舞い降りてくる。
柔らかな新緑の髪、虹色の柔和な光を溜める大きな瞳。性別を問えぬ程に、未だ幼さが抜けきらない美しい顔立ち。
マーガレットの唇が驚きを紡ぐ。
「あの子って……天園鳥の……」
「……エル」
リーンは薄っすらと涙を浮かべながら、喜びを込めて呼びかけた。かつては世界の果てにあった塔で、一緒の時を過ごした大事な仲間の名を。
窓辺にそっと降り立つ少年は、純白の装束に身を包む少女へ眼差しを合わせると、天使の如く純な笑みを花咲かせていく。
「迎えに来たよ――愛しい僕の白百合」