the halcyon harvest Ⅰ
暖められた室内が、シンと冷たい沈黙に包まれる。色味をなくし、強張った複数の視線がマッジーに集められていた。リーンだけが何も把握出来ずに、目を瞬かせながらただ小さく呟く。
「おままごとは、お終い……?」
「……何よ、いきなり。ちっとも意味分かんないのよ」
いきり立って椅子に乗り上がったプリムローズがぴしゃりと言う。
「いくらじじさまの言うことでも、それだけは絶対に聞かないから!」
マッジーが幾分肩を縮こまらせた。
「あ、アタシに言われてもねえ。本当に伝言を預かっただけなのよう。これはホントにホントのマジなのよ?」
弁明するように唇を尖らせる様からして、プリムローズの癇癪は余程恐ろしいらしい。
ヨークラインも鋭い視線で投げかける。
「それ以外の伝言は?」
タッジーも出すものは全て出したと言わんばかりに両手を上げる。
「ないですな。ホントに、それっぽっちです」
「何か事情でもあるのか……? 伯爵と話がしたい。連絡は取れるのか」
畳みかけられて、マッジーも純粋に困り顔となる。
「うーん、どうかしらねえ……。今度は南の方へ遠征と洒落込みたい、そんなことは言ってたけれど」
ヨークラインとジョシュアは同時に頭を抱えてため息をつく。
「性懲りもなく、訳の分からん物見遊山か……」
「忙しいお人だね、お変わりなく」
だが、もう振り切ったのかヨークラインは明朗に告げた。
「ならば手紙で構わん。『断る』と、そう伝えてくれ」
「へい、承知いたしました。確かにお伝えしやしたし、伝言も賜りましたよっと」
そして魔導士の二人はご馳走様でしたと頭を下げてから、ソファから腰を上げた。
「言いたいことは伝えたし、美味いもんもたらふく食べたし、とっととずらかりますよ。明日の祭り用に、出店の準備もせにゃならんですしね」
「村長に許可は得ているんだろうな?」
ヨークラインから睨まれるが、タッジーはにっこり歯を見せて笑った。
「ただの行商人として、滞りなく。時間があれば見に来てくだせえ。面白い余興もやりますんで」
「じゃあね、ヨークちゃん! また明日!」
その場に魔法陣が浮かび上がり、中へと飛び込んだ二人は淡い光と共に掻き消える。
嵐の過ぎ去った後の脱力感にも似た心地のまま、ふとマーガレットが疑問をぶつけた。
「結局あいつらって……物語通りに双子なの?」
「知らん」
「知らんじゃないのよ。にいちゃまの元下僕でしょ」
投げやりにも聞こえる言葉にプリムローズが即座に反発したが、ヨークラインも渋い表情だ。
「……俺の幼少期から変わりなくあの姿だし、先代、先々代クラム家当主もあの姿しか知らんらしいからな。魔法使いなのは確かなようだが」
姉妹は苦々しい表情で薄ら笑いを浮かべた。
「……そもそもおっさんと幼女の双子って存在自体が、バグってるのよ」
「魔術師やスノーレット女史然り、不老でレトロでレアな人種の遭遇率が高過ぎだわね……」
*
天高い街の、白い籠の中に住まう少年はワクワクとした面持ちで食卓に置かれた陶器の蓋を開ける。そこから柔らかな湯気がふんわり立ち昇り、キノコやジャガイモ、カリフラワー、鶏肉の入ったミルクスープが姿を現した。
「わあ、美味しそう!」
顔いっぱいに輝くような笑みを綻ばせて感激の声を上げると、傍らに控えるホスティアが菫色の目を優しく細める。
「火傷には充分お気を付けください。ゆっくりで構いませんから、沢山召し上がってくださいね」
「うん、いただきます!」
少年は木匙に目一杯スープを掬うと、大口で頬張ろうとする。けれど、「あちっ」と慌てて舌を出し、たちまち涙目になっていく。
「……ホスティア、舌がひりひりする……」
「ああもう、申し上げた傍から」
慌ててピッチャーからグラスに水を注ぎ、少年に与えていく。世話焼きに甲斐甲斐しい若者と、無邪気な少年の穏やかな夕餉を魔術師は近くのソファに座って微笑ましく眺めていたが、やがて視線を庭園へ続く硝子戸に向ける。その外側では、ピックスが一人背もたれて夜空を見上げていた。口には紅ハッカの根を咥えて、徒に噛み潰している。腰を上げた魔術師も、その隣で星空を見上げた。雲は一片もなく、月も姿を見せない宵闇の中、慎み深い濃紺には数多の砂金のきらめきが絢爛に散らばっている。
「星でも見上げて、願い事?」
揶揄うように投げかけられるが、ピックスは片眉を僅かに跳ね上げるだけする。
「……ちっと考え事してただけだ。先だっての、夕暮れでの会話を噛み砕いてるんだよ」
そう言いながら、ほのかに赤い根を奥歯で磨り潰すように噛み締める。
「キャンベルは呪われていると、お嬢は言った。自分のせいで――ガーランド家の因縁でだと。だが、あの野郎の身には神の如くの力が秘められている。その正体が、王家に連なる一族から奪った力だってんなら、色々と納得がいく」
魔術師へ横目を流し、淡々と続ける。
「夏の騒動ではテメーの聖呪を凌ぎ、解呪をしてみせたあの馬鹿みてえな威力……。林檎姫の呪いの保呪者だってんなら納得するしかねえだろ。テメーが目星つけてるってのは、……あいつの身体なんだな」
「流石、相変わらず頭の回転が速いね」
魔術師は肩を揺らし、深々とした笑みを広げていく。
「そう。金の林檎は、あのキャンベルの若様の土壌から生る。後はどう実らせて捥ぎ取るかなんだけど」
しかめ面のピックスは、硝子戸の内側の温かな室内へ向けた。少年が、スプーンに一生懸命息を吹きかけて熱いスープを何とか飲もうとしている。
「お嬢を……白百合を悲しませる真似はすんなよ。アイツもそれは望んじゃいねえ」
魔術師はケタケタと愉快そうに笑った。
「自由気ままな鳥である筈の君も、何だか守護者のような口振りだね。雪のお嬢さんに、よっぽどの忠義か恩義でも感じているのかな」
「は、クッソうぜえ野次馬根性野郎だな」
好奇心旺盛な眼差しをピックスは迷惑そうに手でしっしと払い、不遜に見下ろす。
「恩だとか、そういう区域はとっくに超えてんだよ」
ぶっきらぼうに言い返し、気を紛らわすように新たなハッカ根を一本口に咥えた。やがて、静かに目を伏せて神妙な声色を落としていく。
「……二度と後悔はしたくない。ただそんだけのこった」
*
夜も更けて入浴を済ませ、寝間着姿のマーガレットは息をたっぷりと押し出した。
「なーんか、騒々しい一日だったわね……」
首を左右上下に捻ってほぐしながら、自室の広い寝台に座って就寝前の手入れを行っていく。
手の平に香油を落として体温で温めると、華やかな香りが辺りに立ち昇った。目の前に流れるシェリーカラーの柔らかな巻き髪に含ませて、波打つ髪の合間をブラシで梳って香りを丁寧に馴染ませる。梳かれるその感触にプリムローズが気持ち良さそうに目を瞑った。
「ホントなのよ。カウス君とお外でたのしくデートしようと思ったのに、はなったれ坊やのおかげでまたまたややこしいことに巻き込まれたのよ」
そう愚痴を垂れ流しながら、同じく香油を手に馴染ませる。それを、目の前の真っ直ぐと流れる黒髪に滑らせていく。ぺたんと足崩して座るリーンの萎れた後ろ背に、マーガレットは苦笑を向けた。
「ま、一番ショックなのはこの子でしょうけどね」
「ねえ嬢ちゃま、とっても良い香りでしょ」
プリムローズから呼びかけられ、俯いて考え事をしていたリーンはゆるゆると顔を持ち上げた。後方へ振り向き、少しだけ笑みを形作る。
「うん……とても優しくて、穏やかな気持ちになれそう。花の香りなのかしら、フラウベリーの大通りを歩いている時と似ている気がする」
的を射た発言だと、マーガレットが口元を得意げに綻ばす。
「御明察。我がキャンベル領の村々で咲き零れる花木から香りを抽出したものよ。ラベンダー、ゼラニウム、ジュニパーベリー、ケーヴローズ……他にも様々な種類をブレンドした特別製よ。ま、貴重品には違いないから、とっておきのおめかしする時だけこうして使うのよ」
「そうなのよ。あたしたち、明日は女神さまになりきらなきゃいけないからね」
「女神さま……?」
何処かうきうきとしている姉妹から零れる言葉に、リーンは不思議そうに瞬いた。甘く爽やかな花の香りを纏った少女たちは更に笑みを深くする。
「明日はたのしいたのしい収穫祭。豊穣の神さまに感謝を捧げる日なのよ。ご馳走も沢山出るし、催し物もたっぷりあるし、賑やかになること間違いなしなしなのよ」
「そしてね、村の乙女たちが年一番に気合いを入れる日でもあるのよ」
*
透き通るような蒼空の、清々しい秋晴れの下では可憐な花々たちが舞い踊っている。
白いワンピースドレスのポケットにいくつもの生花を差し込み、日の出と同時に詰んできた草花を手で編んだ拵えた花冠を頭に被せる。花の妖精のような装束を身に纏うのはフラウベリーの村娘たち。その手にあるのは、この日のために丹精込めて作り上げたもの。
一つ目は、古きより伝わる恋物語を手書きの美しい書体で綴った冊子。
二つ目は、草花や大輪の花、鳥や月星といったモチーフを一針ずつ丁寧に縫い上げた細やかで愛らしい刺繍模様。加えて、薄明の白露を纏った小蜘蛛の巣のような――儚く繊細な編み目が美しいレース。それらが施された多くのハンカチーフやテーブルクロス、手袋やポーチといった布小物。
そして三つ目は、フラウベリーの野に咲く花々で編んだ自身の被る花冠。
それらは全て、村を見守る神々へと献上される。一番の出来栄えとされるものは、花の女神から祝福を授かる。女神に扮する領主キャンベル家の美しき姉妹が、村の広場のテーブルに広げられた数々の献上品から取り分けて良き物を選ぶのだ。
「レベッカ、あなたのこの麗筆、去年よりずっと伸びやかで荘厳さもあって、物語の情景がより映えるわね。素晴らしい傑作よ」
「メグお姉様のために心血注いで頑張りました!」
「マリー、このちみちみねちねちとした熟練の職人技、なかなか会心の出来栄えなのよ」
「プリムお嬢様のお点前には敵いませんが、光栄です!」
姉妹から祝福のキスを頬と額に贈られて、一位の栄誉を授かった乙女たちはきゃあと黄色い声を上げてはしゃぎ、心からうっとりとした心地に浸っている。
「リーンおじょうさまも! はやくきめて!」
「あたしのがいいよね!」
「ううん! あたしのこそがかわいいよね!」
プリムローズよりももっと幼い少女たちから花冠の選定をせがまれて、リーンはおろおろと困り顔になる。
「ええと、その、みんなの全部が素敵だから、選べないわ……」
その場に居た少女たちが全員、一斉に首を横に振った。
「そういうのは、ジョシュア様だけでいいの」
「そうよ、お嬢様。ちゃんと選んで」
「ええ……?」
何故いきなりジョシュアが出てくるのか。理由が分からないまま、迷いながらもようやく決めて、目一杯に顔を綻ばす小さな乙女に祝福のキスも贈る。
女神の役目を無事にこなせてリーンが内心ホッとしていると、背後から低い声に呼びかけられた。
「授与は終えたか、お前たち。次の見せ物があるから撤収してくれ」
そう言いながら、ヨークラインはてきぱきとテーブルを片付けて広場の隅に押しやってしまう。
「あら兄さん、丁度良かった。女神へのお供え物、運ぶの手伝ってくれるかしら」
「元よりそのつもりだ。他の者は酒ばかり呑んで当てにならんしな」
手近に準備してあった花かごを装う荷車に、丁寧にだが手早く収めていく。花ばかりで溢れる華やかな祭りの中で、今日もヨークラインはいつもと変わらない全身真っ黒な装いだった。
リーンは自分のドレスに飾られた花を数本抜き取り、ヨークラインの背広の胸ポケットに差し入れた。青年は目を丸くし、それからじっとりと睨む。
「……何のつもりだ」
「ヨッカも今日ぐらいはおめかししたらどうかなって。せっかくの楽しいお祭りなんだもの」
純粋無垢に微笑まれて、ヨークラインは少々呆れた風に言い返した。
「女神のように着飾り装うのは、君だけで充分事足りるだろう」
きゃあと黄色い声がそこかしこから沸いた。周りの乙女たちが頬を染め上げて、二人を惚れ惚れと見つめている。
「ヨッカですって」「気心知れたご関係なのね」「女神のようですって」「君だけですって」「やっぱりそうなのね、お似合いね」
小鳥のさえずりのように嬉々と口ずさまれて、リーンは自分の無自覚な振る舞いが周りからどう見えているのかを、ようやく意識した。片やヨークラインの方は、口走った言葉の迂闊さを内心で舌打つ。
「あ、あの、違うの……! 私は……っ、ヨッカは……っ」
悩まし気な表情のリーンが何をか言う前に、ヨークラインはわざとらしく大きな咳払いをした。荷車の柄を掴んでさっさと歩き出していく。その後ろ姿をリーンが慌てて追いかけていった。
キャンベル姉妹は肩をすくめ、麗しい微笑みを浮かべていく。
「まあそういうことだから、遠くから生温く見守ってやって頂戴な」
「二人共恥ずかしがり屋さんだから、あんまりデバガメしちゃだめだめなのよ」
それとなく説き伏せられて、ほうと甘いため息を落とす村の乙女たちは素直に頷いたのだった。
荷車に収められた美麗の冊子や刺繍とレースの布雑貨は、そのままキャンベル家へ引き取られていく。
「今年も大収穫ね」
「村の皆のおかげなのよ」
喜色満面の姉妹を見やりながら、リーンも知れず嬉しい気持ちになる。花車に収められたものを改めて見下ろし、ふと尋ねてみた。
「こんなに沢山のものを引き取って、どうするの?」
「売るわ」
「売る!?」
あっさり返されてぎょっと目を瞠るリーンに、マーガレットがからからと笑う。
「七大都市の大富豪や、お貴族を相手にね」
ヨークラインも淡々とだが言い添えた。
「全て売り払って、我がキャンベルの貴重な財源とする。これでまた領内の整備が行える」
プリムローズが含んだ笑みで「にいちゃまもほくほくしてるのよ」とリーンにこっそり耳打ちする。いつもの仏頂面ではあるが、機嫌は良いらしい。眉間に刻まれる皺も剣呑な眼差しも、確かに今だけは鳴りを潜めている気がした。
「『常花の村の乙女たちが一年の手間暇をかけて作り上げる珠玉の一品』って銘打つと、高値や言い値で飛ぶように売れるのよ」
「ま、それは真実だものね」
姉妹の言葉に納得しながら、リーンは花車に収まった花冠にも視線を移す。
「花飾りも売り物にするの?」
「ううん、売るのは元より冊子と刺繍とレース小物だけなのよ」
「ま、花冠は今年からの、女神リーン=リリーに捧げる急ごしらえのお供え物だから」
「え……」
「あなたもキャンベル家の一員なんだから、どうせなら一緒に祝いたいと思ったのよ」
「嬢ちゃまだけ仲間外れにしちゃうのは、キャンベル家の家訓『一蓮托生』の意に背くことになるのよ」
姉妹なりに、リーンにも祭りを楽しんでもらいたい。その気持ちを真っ直ぐ感じ取るリーンは、背後にいるプリムローズの手を後ろ手で掴み、前方を歩くマーガレットの片腕目がけて、斜め後方からぎゅっと抱き付いた。
「あら、なあに、いきなり」
「嬢ちゃまがとっても甘えんぼさんなの」
姉妹の間に挟まれ、くすくすと妖精のような囁きを両耳に与えられながら、リーンは俯いたまま泣きそうに微笑む。お化け屋敷だと思って初めて踏み入れた時は、別の意味で涙が滲むとは思わなかっただろう。
(……私、やっぱりとても良いところに引き取ってもらったんだわ……)
花々で満ちる素敵な村の、温かな家で暮らせて本当に良かったと心から想う。ずっとここにいたいのだと、願う。胸に広がる高揚感と愛おしさ、そして不思議な切なさが苦しくて上手く言葉に出来ないけれど、どうにか小さくも「ありがとう」とだけ振り絞った。
プリムローズがひらめいたと手を打った。
「最後の夜には火祭りがあるのよ。大きな焚き火の中に魔除けで作った草杖を投げ込むから、一緒にそこへお供えしてもいいと思うのよ」
「あ、皆と一緒に踊るっていう……」
大きな焚火を取り囲んで、一晩中踊り明かす。その際、意中の相手とのダンスを申し込める。ウィリアムからも教えてもらった魅力的な催しだ。踊ってみたいと思うけれど――前方の荷車を引いて道を進むをヨークラインを、リーンは寂しそうに見つめる。
主従の繋がりを頑なに保とうとする彼から、踊ってほしいと誘われる筈はない。こちらからお願いしてみたとして、ガーランドの姫のわがままとして頷いてはくれるのだろう。元より、リーンの言い分には余程のことがない限り、断られたことはなかったのだ。今更になって、そんなことさえもやっと気付く有様だ。あくまで命令として従うだけの彼に、そんな不本意な真似はしたくなかった。
黒々とした大きな背中を見つめ、小さなため息が零れていく。そんな胸中を気付く筈もないマーガレットが、少女の横で朗らかに笑う。
「今年もジョシュは大人気でしょうねえ」
「というか、昼夜関係なく大人気なのよ」
玄関前のポーチではジョシュアが出迎えてくれた。花車に収まる数々の献上品を喜んでくれる。
「やあ、美しき花の女神たち。今年も大変ご苦労様だったね。ヨークもお疲れ様」
「労いは結構だが、そんなに悠長にして大丈夫か?」
ヨークラインから尋ねられ、ジョシュアは外出用のジャケットから取り出した懐中時計を見やり、いけないと慌て声を上げた。
「そろそろ出番だから行ってくるよ。一応昼食は用意しておいたから、レディたちもまずは家でくつろいでおくれ。勿論、外の広場で食べてくれても構わないけれど」
「あー……あたしは遠慮しておくわ。ジョシュを見てるだけでお腹いっぱいになりそうだもの」
マーガレットが幾分たじろぎながら答えた。
「そうかい? じゃあ行ってくるよ。ヨークもまた後で」
「ああ、さっさと行ってこい」
『出番』だと早い足取りで出かけてしまうジョシュアを、リーンがきょとんとしながら見送っていれば、隣のプリムローズがいたずらっぽい笑みを向けてくる。
「んふふ、嬢ちゃま。お昼食べたら見に行こっか? ジョシュアちゃんを取り巻くものその全部が面白いから」
再びフラウベリーの大通りの広場に戻ると、会場は主に女性で溢れ返っていた。その手に収まる包みの中身を、何本もの細長いテーブルに一つずつ置いていく。包みを広げれば数々のご馳走が姿を現した。それらは全て、自家製のプディングである。メインイベントの一つ、手作りプディングの品評会の始まりである。
パンとバターのプディング、ナツメヤシのプディング、アップルクランブルといった甘いプディング。ステーキとキドニーのプディング、チキンとリークのプディング、血と肉の腸詰めプディングといった料理のメインとなるもの。他にもライスプディング、肉料理の付け合わせであるドリッピング・プディング。そのプディング生地にソーセージを入れて焼くトードインザホールなど。それぞれの家庭で守られて受け継がれていた渾身のプディングが会場で振る舞われるのだ。
「プディングってこんなに種類があるのね……」
リーンが驚きと物珍しさで目を白黒させているのを、プリムローズがくすくすと微笑ましげに窺っている。
「煮たり焼いたり蒸したりしたらプディングになるらしいのよ。結構ざっくりしてるのよ」
テーブルに並ぶ数多のプディングを眺めながら歩んでいると、目の前の女性とふと目が合った。
「あら、リーンちゃん! さっきの女神の姿、とっても綺麗で素敵だったわよ」
テーブル越しに声をかけてきたのは、村で初めて友人になったジャム屋のリコリスだ。濃いブラウンの髪を今日は編み込みにして結い上げている。
「ありがとうございます。リコリスさんも品評会に?」
「ええ、勿論。良かったら一口いかが?」
そう言って小皿にプディングの一切れを乗せて差し出してくれる。礼を言って口に入れれば、頬が自然と緩んでいく。
「わ、強い甘味……! でも、すぐにさらっと口の中で消えちゃう……美味しいです」
「んんん、なかなかオツでクセになる味なのよ」
昼食を沢山食べた筈のプリムローズだったが、悪くないと相好を崩してするすると口に入れ込んでいる。
「うふふ、ジョシュア様に褒めてもらいたいから頑張っちゃった」
「でも、これだけ全部食べるのは難しいんじゃあ……」
リーンは気を揉むように長蛇の列の如きテーブルを見やった。遠目から見ても、百はくだらない皿が並んでいるのだ。
「勿論一皿丸ごとは無理だけれど、一切れずつきちんと召し上がってくださるの」
ほら見てと、リコリスが指さす方向には、女性に取り囲まれたジョシュアの姿がある。
「このしっとりと柔らかな口当たり……素晴らしいね。腕の中に閉じ込めてもするりと逃げてしまう儚き湖水の妖精のような味わいだね」
「ジョシュア様……ッ」
独特な言い回しで褒められた女性は頬をバラ色に染め上げて、感激の涙を浮かべている。
「ほら、ああやって一人ずつコメントも仰ってくださるの!」
リコリスが声を弾ませると、プリムローズは得意げにくすくすと笑う。
「ジョシュアちゃんはファンサービスにすこぶる定評があるのよ」
「ジョシュアがどうしてすごくモテるのか、少しだけ分かった気がするわ……」
リーンはそれでもハラハラした気持ちが止められない。テーブルには、未だにプディングが増え続けていくのだから。
「フラウベリーだけじゃなくて、キャンベル伯領の村々からも押し寄せてるのよ」
「……食べ切れるものなのかしら」
「祭りのこの三日間ずっと食べれば消えるのよ、問題なしなしなのよ」
「なんだかもう、冗談にしか聞こえないわ……」
女性に囲まれながら、紳士の笑みを浮かべ続けるジョシュアは心から幸せそうにプディングを食べている。それだけは良かったと、リーンは苦笑を浮かべるのだった。
ジョシュアのプディング品評会を冷やかした後は、村のあちこちで開かれる催しを見て回った。
大道芸人の曲芸、騎士を装う農夫たちの騎馬戦、射的、チーズ転がし競争、花筏占い、パンケーキのレース。見ているのも、参加するのも楽しかった。それぞれの家から持ち込まれたご馳走はどれもこれも美味しかった。一日目も二日目も、夜が更けてくたくたになっても遊び続けた。
三日目の晩にもなると、流石に眠気が強くなってくる。広場の隅に休息用として設置された木製のテーブル席に、リーンは幾分眠たげに腰掛けていた。半ばうとうとする視線の先では、女性に取り囲まれるジョシュアが未だに淀みないペースで食べ続けている。
「延々と……とても嬉しそうに食べているわね……」
「祭りの期間だけは、朝から何も食べずに臨んでいるわ」
呆然とした声色のリーンの正面反対の席で、マーガレットは苦笑で返す。
「吸い込まれるように口に入っていきやがるな……アイツの腹、底なし沼なのか?」
呆れとおぞましさを加えて口零す若者の声が、頭上から降りてくる。リーンは顔を仰いでその姿を捉えると、口元に笑みを綻ばせた。
「ピックスさん……」
「よ、お嬢。良い夜だな」
軽快にそう言って、ニッと口角を上げる。
「お仕事は終わったんですか?」
「ちょっぱやでな。俺様が本気出せばすぐに終わるってもんだ」
「普段からそうしてくだされば良いものを……」
マーガレットの隣に座るカウスリップが複雑そうな非難の目を向けたが、ピックスはそ知らぬふりでリーンの隣に座った。片手には小柄な酒瓶があり、テーブルに置く。マーガレットが露骨に顔をしかめた。
「うわ、あんたと一緒に酒盛りとか勘弁」
「酒は飲めねえんじゃなかったのか、ご令嬢」
「飲めないんじゃなくて、飲まないのよ。我がキャンベル領の飲酒はハタチになってからよ」
「ま、酒なんざなくてもオツムは充分めでたくデキ上がってるよな」
見えない火花を散らすのが挨拶代わりなのだろうか、二人の剣呑な応酬を見かねたリーンが何とか口挟む。
「あの、お注ぎしましょうか」
「だめよ、嬢ちゃま」
カウスリップの膝に乗り、遊び疲れて舟を漕いでいたプリムローズが途端に瞼を開けて冷ややかな色を送る。
「ゴミ屑箱を調子に乗らせない」
「はは、プリムローズちゃんに言われるまでもねえよ。勝手に一杯やってるだけだ、気にすんな」
片指で栓を抜くと、瓶口にそのまま口咥えて中身を呷っていく。焦げ茶の半透明の瓶の中身がしゅわしゅわと音を立てていた。どうやら発泡酒らしい。
ピックスはテーブルにあったチップスも摘まみ、和らいだ声を落とす。
「ご馳走いっぱいで、良い祭りだな」
「そうですね……」
若草の穏やかな眼差しにつられて、リーンも広場全体を見つめる。焚火の前では農夫や若者たちが心から楽しそうに酒を酌み交わしている。物珍しいものばかりが並ぶ出店では、多くの人だかりが出来ていた。
中でも取り分けて大賑わいなのは、タッジー・マッジーの出店だった。荷馬車の前では、大勢の子供たちが取り囲むように占領している。
「さぁてここでどうする、どう立ち向かう、初代の王フェルディナンドッ!」
「林檎姫の教えに従い、今はただ突き進むべしッ!」
魔法使いの二人の迫力ある紙芝居劇を、水飴を舐めつつ夢中になって見物していた。
「子供たちもあんなに楽しそう……いいな」
「お前さんも、まだかろうじて子供だぞ」
少女の声音が少し寂しそうに聞こえたのだろうか、ピックスがちらりと見やって何でもないように告げる。リーンは目を丸くすると、今度こそ苦笑を浮かべた。
「どうしてなのかしら、子供だって言われても安心することなんてあるのね……」
『泣き虫リリ』と呼ばれる情けない自分からはいい加減卒業したいのに。ピックスにはそのままで構わないと言われるのは、不思議と心が落ち着くのだ。
会場がいつになくワッと歓声が上がった。ジョシュアが全てのプディングの試食を終えたらしく、きっちりとクロスで口元周りを拭いてから広場の舞台に上がっていく。付近にひしめく女性たちが、その姿を固唾を呑んで見守った。
舞台の中心に立ったジョシュアは優美な微笑みを形作り、両手を伸びやかに広げていく。
「今年も絶え間ない愛と恵みをありがとう、親愛なるレディたち。全て美味しくいただいたよ。どれもそれぞれのレディたちの気持ちと個性に溢れていて……、そんな心こもった力作に、果たして甲乙付けて良いものだろうか。……無粋じゃないだろうか」
愁いを帯びた瞳を伏せがちにするジョシュアに、女性たちも哀しそうに、けれど悩ましげにほうと恍惚のため息を落としていく。
「だからこの場に集う全てのレディに、優劣なき、隔てなき祝福を授けるよ。どうかこの気持ちを受け取っておくれ――忘れられない熱い夜にしてあげる」
投げキッスを飛ばし、片目を瞑ってそう言い切った瞬間、つんざくような黄色い悲鳴が広場全体を轟かせていく。
「キャアアアア!」
「イヤアアアア!」
「はぁあああジョシュア様ぁぁぁ!」
「今年も尊い貴き愛をありがとうございますうう!!」
数多の女性が我を忘れて狂喜乱舞とする光景を、鼻で笑うことすら出来ずにいるピックスが口角を僅かに痙攣させながら半ば呆然と呟く。
「……なぁ、何だよこのクッソ馬鹿馬鹿しい茶番……」
「茶番で結構よ、毎年恒例の行事だから」
見慣れているマーガレットはしれっと受け答える。
舞台にあらかじめ用意されていたピアノをジョシュアが弾き始めると、その甘い調べや麗しい弾き姿にあてられた女性の幾人かがふらりと倒れていった。
「……死人が出ねえか?」
「我がキャンベル領のトップアイドルを悲しませるマネする訳ないでしょ。皆、節度を持ってファン活動を行っているわ」
マーガレットが告げた傍から、倒れた女性は手伝いの男たちがせっせと診療所へ運び込んでいった。
「節度ねえ……」
ピックスが物言いたげな顔でぼやく隣でリーンも口をぽかんと開け、ただただ圧倒されていた。昼間の女神になりきった場面を思い返し、納得の声を落とす。
「『選べないのはジョシュアだけでいい』っていうのは、つまりこういうことなのね……」
演奏がテンポを上げて激しい曲調に変わると、農夫たちが焚火を取り囲むように揚々と踊り出す。子供たちも手を繋いで輪になって、くるくると回る。
身をソワソワさせるプリムローズは、たまらずカウスリップの膝から降りた。
「嬢ちゃま、カウス君、あたしたちも踊りにいこうよ」
「え、でも私踊ったことは……」
「僕もあまり……」
「んふふふ、いいからいいから」
無邪気に微笑むプリムローズは二人の手を取ると、輪の中に混じっていく。その中で少女の繰り出す滑らかなステップを、慣れない二人がわたわたと見よう見真似で踊る。その姿を、ピアノを奏でるジョシュアが目を細めつつ眺め、更に麗しく軽快なメロディで場を盛り上げていく。
鍵盤を巧みに操る青年を、マーガレットもシードル片手にうっとりと見やり口元を綻ばせた。
「本当に、良い夜ね……」
「へっ、まったくだな」
ピックスは肩をすくめると、懐からシガレットケースを取り出した。そこから覗く紅ハッカの根っこに、マーガレットが僅かに眼の色を変えた。
「あら、イイもの持ってるじゃない。ちょっと頂戴な」
「あ? こんなもん好きなのか、お前」
気に入りの嗜好品と言えど、思わずそう問いかける。ピックスの周りでは、『辛い』だの『スースー感がキツくて無理』だのと酷評ばかりだったのだ。
「コレ、たまに無性に噛みたくなるのよ。結構頭スッキリするのよね」
「……しゃあねえな……」
数本取り出して、マーガレットの前の小皿に投げ置いた。少女は嬉しそうに摘まみ始める。
「悪いわね。研修中に良く食べてたのよ。ウチの領内でも採れたらいいんだけれど」
機嫌良く微笑まれて、ピックスの背筋はどうしてだかうすら寒い。
「口卑しいのは、欲求不満の証拠らしいぜ」
マーガレットは素知らぬふりで、真向かいの向こうずねを硬い革靴で蹴飛ばした。ピックスは小さく絶叫し、テーブルに俯せたまま泣き所の凄まじい痛みに身悶える。おかげで、うすら寒さは立ちどころに消えてくれた。
テンポの速い曲調が、やがてひどくゆっくりとした調べに変わっていく。
それを合図に、とある若者が気恥ずかしそうにしながらも隣の少女に手を差し伸べる。それに少女が頬を染めて頷き、応じる。若夫婦も老夫婦も仲睦まじく手を取り合って、焚火の周りを楽しげに踊り始めた。お互いを見つめ合いながら、緩慢な甘い調べに身を任せて寄り添い合っている。
再びテーブル席に戻ってきたリーンは、暖かな光景を眩しそうに眺める。
(いいなあ……)
「よっしゃ、俺もいっちょ火祭りに混じってこようかね」
両膝に手をついて仰々しく腰を上げたピックスは、軽々しい仕草でリーンの手を取った。
「え? あの……」
驚き満ちた少女の表情を、ピックスは飄々と見下ろす。けれどその眼差しや声音は、いつになく柔らかい。
「――俺と踊ってくれるか、お嬢」




