夏 天空都市 アフター・イン・ザ・ダーク
闇色ばかりがひしめき合う、夜明けにも近い時間帯にもかかわらず、最果ての塔の扉をノックする小さな音が響いた。
客間で茶飲みの支度をしていたエミリーは、思い当たる節があるのか嬉しそうに口元を綻ばせる。
「どなたでしょうか」
扉の向こうより、女性の冷厳な声が発せられる。
「ミルクシスル・ホーリー・アルテミシアですわ。拝謁賜りたく、御前に参上いたしました」
「どうぞお入りください」
エミリーが穏やかに呼びかけると、氷のような顔が現れた。楚々たる動作で一礼すると、注意深く辺りを見回す。他に誰の気配もないことを確認してから、その不機嫌な表情でキッと真っ直ぐねめつけてくる。
「エメラルダ! どういうことなのか説明して頂戴!」
「どうぞお静かに、ミルキィ。上にキャンベル家の方々が休んでいらっしゃいます」
アルテミシアはカツカツと靴音を鳴らして歩み寄り、忌々しそうに言い返す。
「その呼び方はおよしなさいと言ってるでしょう。小娘みたいで気に食わないわ」
「私にとって、あなたはいつまでも可愛い小娘ですよ」
さらりと告げられて、アルテミシアはその眉を増々苦渋にひそめた。八つ当たりするように、反動をつけてダイニングチェアに腰掛ける。エミリーが差し出してきた薄地の茶器を傾け、入れたての紅茶を口に含む。普段は滅多に口にしないが、自然とゆっくりとした息がもれていた。薔薇のつぼみと白茶の繊細な香りはアルテミシアが密かに好むものだった。
「……この茶がとうとう飲めなくなるかと思ったわ」
「ご無事で何よりでした」
「あの若造のおかげでね」
気に食わないようにふんと鼻を鳴らし、茶請けのブランデーチョコレートを一つ口に入れた。そして思い出したと、身を乗り出すようにしてエミリーに問いかける。
「そう、そうよ、エメラルダ。何なのよ、あのキャンベルの術法は。お前のもたらした情報では、実際に存在する物質と同等の力を引き出す小技だと聞いていたわ。けれど、あの若造がとっさに使ったのは、……そう、決して使うべきではなかったものだわ」
青年が言葉を発した途端のことだった。魔術師の呪術によって穢れた室内は完全に浄化され、呪いに侵された者は一人残らず解呪された。
重傷者はいれども、死者は現状ゼロ人だ。あの陰惨たる状況を裏返すには、人智を超えた能力なくして果たせなかっただろう。
「人の身では荷が勝ちすぎる隠し技ね。本人も酷く消耗していたもの」
「彼はどんな言葉を口にしたのですか?」
「万能花……神の創りし永遠浄土で咲き誇る、大輪の花。難病も瞬く間に治る伝説級の治癒草の名。神話上のありえない代物よ。今でも信じられないわ。キャンベル家は、この世にないものまで作り出せるの?」
「それをあなたは異端と称しますか?」
「異端でないのなら、神の奇跡と言わしめるべき末恐ろしいものね」
つい吐き捨てるような口振りになる。不機嫌なアルテミシアをなだめるかのように、エミリーはようやく内々を口開いた。
「コードを扱えるのは、元より神に連なる者だけ。……かつては王家で管理されてきた、古くからの一族の御業です」
アルテミシアは、訝しげに細める目をとうとう大きく見開いた。
「……生き残っていたのは、ガーランドだけではなかったというの?」
薄く微笑むエミリーの顔から察して、やがて大きなため息をついた。続いて苦々しげにぼやく。
「若いツバメでも飼い始めたのかと危惧したけれど、そこまでボケてはいないようね」
「私は午後のお茶を楽しむのが大好きな、無為徒食の木瓜老人ですよ」
「嘘おっしゃい、その方が何かと都合がいいからでしょう? わたくしみたく殺されそうになる確率は、格段に低くなるもの」
ふて腐れたようなアルテミシアを、エミリーは柔らかな眼差しで真っ直ぐ見やった。
「感謝していますよ、ミルキィ。あなたが矢面に立ってくれるおかげで、人知れず動くことが出来る。新たな情報も得ました。魔術師は、やはり我々天空都市と繋がっています」
「それはこちらも確認済みよ。商人が証拠を持って来たわ」
懐から手紙を取り出したアルテミシアは、エミリーに見せつけるようにしてテーブルに並べていく。
「これより猊下は天頂から失礼していただくわ。魔術師と手を組んで、王家を蹂躙した詳細も突き止められるかもしれない」
「あなたにその権限は与えられておりませんよ。嘆願は出来れど、実際の沙汰は兵鳥の真打である天園鳥が執り行います」
水を差された気分になり、アルテミシアの口調は自然と刺々しくなる。
「お前の力で何とかならないの、エメラルダ。あの鳥共は、猊下の息がかかっているかもしれない」
「彼らの仕事は確かです。どうか今は、引いてください。大事にして気付かれる訳にはいかないのです。林檎姫の呪いの在り処は、この天空都市でも内々に探られているのですから」
「魔術師が鳥の手に落ちれば、お前の立ち位置が崩れるとでも? 馬鹿をお言いなさい、あの外道が尋問如きで人の言うことを容易く聞く訳がない」
「いいえ、違うのです、ミルキィ。恐らく、魔術師はこの都市で見つけたのです――王に代わる契約者を」
女性の不躾な視線が、たちまち当惑に揺らいだ。ゆっくり瞬かせて、少女を見返す。
「王に代わる……? 陛下や、殿下たちと、同等だとでも?」
「はい、見定められた者が、この街にいます。王家の力、林檎姫の呪いの正統なる後継者です。その者の願いで、魔術師は今回の事変を呼び起こしたのです」
「もしや、その契約者が猊下だとでもいうの?」
「分かりません。契約者でなくとも、彼が何か知っている可能性はあります。兵鳥の調査で直に明らかになるとは思いますが……」
いつになく少女の口調が緊迫しているので、アルテミシアは眉を寄せたまま静かに問う。
「お前は、何を危惧しているの」
「……隠した宝物を暴き立てされること、でしょうか」
エミリーはゆっくりと天井を見上げた。階上の一室には、此度の騒動で活躍したキャンベル家が寝静まっている。
「魔術師は契約者のためなら、どんな願いでも叶えます。林檎姫の呪いを必ず手中にするでしょう。ですが、易々明け渡す訳にはいきません。封じた呪いを無暗に目覚めさせても、保有者の命をいたずらに削るだけ。王家の直系ならまだしも、今の保呪者である、彼の身体では……」
その表情が一層憂いを帯びたのを見てとり、アルテミシアも天井へと憐れみじみた視線を送った。
「成程。あの若造、やはり厄介な荷物を背負っているのね。それで、対抗の手だてはあるの?」
「神の花嫁に助力を乞うています。現状、力不足ではありますが」
アルテミシアがやれやれと首を振る。
「あの小娘が頼りになるわけないでしょう。過ぎた期待は関係をこじらせるわよ、エメラルダ」
「そうかもしれませんね。私とて、あなたをがっかりさせてばかりですから」
「……誰がわたくしの話のことだと言ったの」
途端に噛み付くような声で返してくるが、エミリーは気にも留めずに続ける。
「ですが、期待を込めることが悪いことだとは思いません。こうありたいと、望んで願うからこそ、私たちは光ある明日を夢見ていられる」
少女は仄かな笑みを窓際へと向けた。硝子越しの遠い山々が、暗い世界から青々しい姿を徐々に立ち昇らせる。
蒼黒い天に散らばった星は鳴りを潜め、淡い炎のような光が滲み始めた。闇に沈んだ筈の空は一つの燐光によって姿を変えていく。弾けるようにして彩りが生まれていく。
恒常的に繰り返される美しき刹那の風景。今日も等しく来訪したのだと、アルテミシアは自然と目元を和らげる。
「夜明けが近いわね」
エミリーはテーブルにある手紙を大事そうに折り曲げ、懐に収めた。
「アークォン卿と魔術師の内情は、いずれ兵鳥より情報を引き出します。彼らに拘束されている内は、魔術師も容易に動けません。ですから、どうか、ミルキィ」
アルテミシアは眉をひそめつつ、足を組み直した。
「……お前の顔に免じて、魔術師は鳥にくれてやる。なれど、正当な裁きが果たされなかった場合は分かっているでしょうね」
「承知しております。その時は……」
エミリーが続けようとしたところで、天窓の隙間から一羽の鳥が舞い込んできた。少女の肩に留まり、己の足首に括られたものを口ばしでつつく。小さく丸められた手紙だった。取り外して中身を広げれば、エミリーはひとつ大きく瞬きする。静謐で、けれど仄暗い光を宿した眼差しがそっと伏せられた。
「……申し訳ありません、ミルキィ。あなたの願いは、叶わないかもしれない」
手紙を差し出され、訝しげにするアルテミシアも内容を把握した途端に瞠目する。思わず手紙を机に叩き付けた。
「何を考えているの、あの鳥共……! 処断が、早すぎるッ!」
*
兵鳥の執務室からは、朝焼けの到来がいち早く望められる。それを窓際の執務机から、一人の兵鳥が悠然とした眼差しで見つめていた。遊撃鳥の副隊長、ホスティアである。
先程まで使用していた筆記具と便せんを手元の引き出しに戻す。そして思い出したように、開け放たれたままの硝子窓に手をかけた。
「なぁに朝方から一人でコソコソやってんだよ」
閉じる瞬間を見計らったように、背後から不躾な声が響く。執務室に姿を現したのは、不機嫌そうにあくびするピックスだった。
「ご近所付き合いですよ。物事を円滑に進めるためには、多少の心づけが必要でしょう?」
特に黙る理由もないのであっさり白状すれば、ピックスは興味薄そうに再びあくびをした。
「あっそ。ご苦労なこって」
「あなたこそ、朝方から活動しているとは珍しいですね。夢見が悪かったのですか?」
「ちげぇよ、馬鹿。夜勤明けなの、俺様は。今まできちんと働いてたのよ」
ホスティアは壁に貼られたシフト表を見て、首を傾げる。昨晩の巡回当番の欄には、別名が記されていた筈である。
ピックスは仰々しくため息をついた。
「しょうがねえだろ。どっかの高慢ちき女のおかげで、皆全国飛び回されて、ヘトヘトでくたばっちまってんだよ」
「それで隊長のあなたが交代を。明日は槍が降るかもしれませんね」
「案ずるな、副隊長。その代わり、明日から三日間は俺様オフな」
「ちゃっかりしていらっしゃる」
「槍が降るよかずっとマシだろ。……くっそ、しっかし、眠ぃもんは眠ぃ……」
ピックスは懐からシガレットケースを取り出した。中身は煙草ではなく、細切りにした植物の根を乾燥させたものだった。ほんのり赤みがかったそれを、口の端で噛む。
ホスティアが厭うような視線をやった。
「何ですか、それ」
「紅ハッカの根っこ。食ってると頭スッキリすんだよ。お前もどう?」
「いりませんよ。口卑しいのは、欲求不満の証拠です」
にべもない返事だったが、ピックスはふうんと納得するように頷いた。
「欲求不満ねえ……。確かに、胸糞悪ぃかもな。ガラにもなく人助けなんかしちまって」
その皮肉な口元が、歪に弧を描いていく。
「俺たちの十八番は、呪いを解くことじゃねえってのになあ?」
ほくそ笑んで投げかけられ、ホスティアも薄っすらとした笑みで応じた。氷硝子のような眼鏡の奥で、菫色の眼差しが昏い愉悦にほのめく。
「さて、せっかくあなたもいらしたのですから――執り行いましょう」
枢機部の最奥部はアークォン枢機卿の私室と、その近くには解呪師の不可侵区域がある。兵鳥以外の者は何人も立ち入らせない。枢機卿や最高法師であってもその例外はない。
何かを秘すためなのか、もしくは閉じ込めるためなのか、太い鉄格子によって阻まれている。兵鳥がそこに立てば、蝶番はひとりでに開く。
鉄格子の奥には、こじんまりとした扉がある。その全体には青い鳥をモチーフにしたステンドグラスが嵌め込まれている。鳥籠を彷彿させる縁の中に収まる一羽から、鮮やかな瑠璃色の淡き光が漏れ差していた。
ここにも錠が施されており、外部からの侵入を頑なに拒んでいる。
ピックスは己のズボンのポケットを無造作に探り、銀製の鍵を取り出した。それをドアノブ下の鍵穴に差し込んで、呟く。――我は神の御使い、汝は神の子である。
その声に応じるように、錠の下りる音が静かに響いていく。
幾重の錠をくぐった先は、広々とした白い空間だった。
吹き抜けの天井全面には、はめ殺しの天窓と、それを支える白亜の壁と石床が、天から注ぐ陽光を乱反射させている。入口の反対側は、巨大なアーチ形の硝子戸があり、薄地のカーテンで日差しは遮られてはいるがぼんやりと光を奥内に取り入れている。硝子戸の向こうは中庭へと続いていて、少しだけ開いた扉より入り込む風が、カーテンを柔らかくたなびかせている。
夏とはいえ、山の朝方は冷え込む。目映い光が床全面を照らしていても、身を硬くするような隙間風が室内をひんやりとした空気で満たしていた。
つめたい白い部屋には、二人の罪人がいた。その内の一人は簡素な寝台に寝転がって、安らかな寝息を立てている。背筋を少し丸めるようにして眠りこける黒い姿を、ピックスは冷ややかに見下ろした。
「起きやがれ、この極悪人」
ぞんざいに蹴り飛ばされて、その黒装束はぎゃあと悲鳴を上げた。大理石の硬い床に転げ落ち、ついでに後頭部も打って身もだえる。それでも跳ね起きるようにして上半身をもたげた。ローブから零れ出た淡色の波打つ髪が、黒衣に大きく広がっていく。
「いったいなあ! 打ち所が悪かったらどうしてくれるのさ」
「その時にゃ、お前の億千万人生の終止符が無事に打たれるだけだろ」
「千年万年生きた魔法使いの終焉が、ベッドからの転落死。それはいい」
ピックスとホスティアが軽々しく鼻で笑うと、魔術師は呆れにも似た眼差しでねめつける。
「君らはほんっとに鬼畜だなあ! 私以上に手癖も悪い! 君らのおかげで私の罪状どうなってると思ってんのさ。猊下の依頼ならいざ知らず、……見ず知らずの輩まで呪う程、私ヒマじゃあないんだよ?」
己の施した呪いは、先だっての騒動においてと、最高法師の依頼で応じた複数人。そして、片田舎にあった珍しい実のなる大樹のみ。面識のない村人や街の人間までは、魔法使いの及ぶところではない。
ピックスは肩をすくめる素振りをして、あっさり言ってのける。
「ま、ちと便乗しただけだ。無事に芽吹くのか、実験したかったからな」
ホスティアは懐から取り出した小瓶を、手の平に傾けた。中から小さな黒い種が数粒落ちてくる。
「悪種の促成はなかなか難しいものです。本番で芽吹かなければ、意味がないでしょう?」
魔術師は、不愉快そうに髪をかき上げた。
「それは猊下の獲物相手に、私が試してる。元より、高い解呪の素質がなければ芽吹きも不可能だよ。『林檎』の収穫は、とびっきりの土壌じゃあないと」
そう言って両腕を掲げた。広げられた黒染めがみるみると薄まっていき、果ては淡い生成りに成り代わる。同時に淡色のうねる髪は、真っ直ぐ流れる墨色へと姿を変える。繻子のようにきらめく長髪を、伸びきった指爪で切るような動作で触れれば、肩先で短く揃えられた。瞬時の変貌を、二人の鳥は特に驚きもせずに眺めている。
唯一変わらないのは硝子細工のような繊細な面立ちだった。その冷ややかな眼に、金剛石のように研ぎ澄まされた極光が爛々と浮かぶ。それは、魔法使いの静やかな警告だった。
「何を焦っているのか知らないけど、これ以上の成り済ましはやめてくれるかな。もう、見事に全国指名手配犯じゃん、私……」
うなだれる魔術師の肩を、ピックスがひとつ軽く叩く。
「まあそう気ぃ落とすなよ。情状酌量のチャンスはやるからよ。まず手始めに、アレの呪いを一旦解きやがれ」
指で示した背後の先には、一人掛けのソファに座る初老の男がいた。口をぼんやりと開け、虚ろに天を見つめ、微動だにしない。もう一人の罪人である、最高法師のアークォン枢機卿だった。
「ええー? あの人と話すの疲れるんだよ。このまんまでいいじゃん」
魔術師が億劫そうに身体をよじったが、ピックスは構わず立ち上がってアークォンの傍らに歩み寄った。
「調書を作らにゃならんだろうが。ネタ作りにちったあ貢献しろ」
「しょうがないなあ……もう、分かったよ、ハイ!」
掛け声と共に、掲げた両手をひとつ強く打ち鳴らした。パンッと乾いた音が響くと同時に、アークォンの白く染まった眼球が赤黒い色を取り戻す。
生気を取り戻した目がまず向けたのは、床に腰を下ろす魔術師だった。
「……魔術師……おのれ、裏切者……我との契約を反故にする愚か者……」
立ち上がる気力はとうに果てていたが、ざらついた恨みがましい声をひたすらにぶつける。
「我が手を切って何とする。我が目をかどわかして何とする。契約者の望むものには忠実だと、お主は申したではないか」
「いやだな、猊下。何か勘違いをしているみたいだね」
魔術師はやはり面倒だという顔をしたが、膝に頬杖付きながらも律儀に答えた。
「私の契りは君にじゃなくて、『あの子』の下にあるんだよ。あの子が願うから、私は聖呪を行ったまでさ。青大将の君は、最初からお呼びじゃないよ」
打ち震えるアークォンは、その赤らむ顔を二人の兵鳥に向けた。
「魔術師はおろか、お前たちまで寝返るというのか……ッ!」
「寝返る? 笑わせんなよ」
ピックスは小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、アークォンをソファから突き飛ばした。慌てふためきながら寝そべったその背を、容赦なく踏みにじる。若草色の乾いた眼差しが、嗜虐的に鋭くなる。
「俺たちはお前を都合の良い隠れ蓑にしてたまでだ。なのに、てめぇだけの都合で魔術師まで使いやがって、事をでかくしちまった。くそったれが余計な真似しやがって」
呻き声を上げるアークォンに気付き、「やべ、調書」とピックスは足をどかした。続けて重い礼服をむんずと掴み、アークォンと目線を合わせた。甘ったるいまでに囁いてみる。
「こりゃ企みがバレるのも時間の問題だな。なら、トカゲの尻尾を大蛇の首に見せかけて、切っておくに越したことはないだろう?」
「な、何を申す……兵鳥風情が……!」
「だから、用済みなんだよ、お前は」
薄く微笑むホスティアが、慇懃無礼な口調で願い出る。
「恐れながらアークォン枢機卿、あなたには是非我々の捨て駒になっていただきたい。ご安心ください。表立っては、あなたは魔術師の呪いにかかり、不幸な死を遂げたことにいたします。一人冥府へと誘われるあなたに、ささやかですが餞です」
「我の死までも誑かすか! このまま屠ろうとて誰も信じぬ! 」
ピックスは煩わしそうな顔を向けた。
「だーから、裏事情は魔術師との共犯による制裁ってカタチにするんだろうが。テメーの部屋ん中見せてもらったぜ。禁則破りの証拠品がうじゃうじゃとまあ」
魔術師が面白げに、寝そべった頭を伸ばした。
「へえ、君たち、猊下の懐探ししたんだ。そんなら、隠し部屋もちゃんと見たかい?」
胸倉を掴まれ、息苦しそうにするアークォンの赤らんだ顔が、歪に痙攣する。
「な……何を……」
「隠し部屋? 何だそりゃ」
「この人がカラダ的にも青二才だった頃、かつての動乱に乗じて王家からくすねてきた宝物がわんさかあるんだ」
「おいおい……火事場泥棒かよ。よっしゃ、調書のネタはそいつで決まりな」
ピックスが嬉々と声を上げれば、アークォンは震えがより顕著になった。
「違う……あれはこの天なるアークォンが、かつて陛下より賜ったものぞ!」
魔術師の眼が、憐れみ込めて細められる。
「なに耄碌しちゃってるんだか。王家が崩壊しても、その一族が散り散りになっても、君は宝物を求め続けたよね。血眼になって探し続けたよね。結局見つからなかったんだけどさ――林檎姫の呪いは」
ピックスの表情がすっと削ぎ落された。冷ややかな声音が鋭さを増す。
「……ふうん、テメーも探してやがったのか」
「違う、違う! 我は望まぬ、あんな酔狂な宝物など! 我が望むのは盤石の力! 永久に途絶えぬ栄光!」
魔術師は震える子鼠を相手にしたようにくすくすと笑う。
「そうだね、だから王家から諸々搔っ攫ったところで、君が真に望むものはありはしなかった。宝は所詮ぴかぴか光るだけで、王の付属品にすぎないから。抜け殻を纏っても意味はない。林檎姫の呪いでさえもね。小賢しい君は、その真実には気付いた」
「成程。だから、王家の素養のある誰かを囲うことを目的とした。それが『あの方』」
ホスティアの口元にも薄暗い微笑が宿る。手の内にあった黒い種を目前へ差し出すようにすれば、無表情のピックスはそれを摘まみ上げた。反対の腕は、アークォンの胸倉を更にきつく掴み上げた。男の爪先が、宙に浮く。
「道理で塔で起こっていたことを容認したのか。そいつぁ、まったく素敵なお考えで」
「違う……何を言っておる……我は神の子を慈しむことあれど、あんな粗暴な真似は……」
禍々しい種を口元へ差し出され、アークォンは拒むように身を動かした。保身のための言い訳を必死に喚き上げる。
「スノーレットが黙ってはおらんぞ……! 塔の沙汰は元より彼奴の領分。だから神の花嫁は惜しくも彼奴の手に落ちたッ。我が異様の死を迎えれば、塔以上の容赦なき粛清が、お主らを……!」
「スノーレット卿とは上手くやりますよ。あの方はご自身の特殊な立場を分かっておられるのか、表立っての干渉をいたしませんから」
「ま、塔のことは今更どうだっていいんだ。なんだかんだで俺らは今こうして生きてる。これからも、血を啜ってでも生き延びてやるだけだ」
何処か乾いた声で言い切るピックスは、アークォンの鳩尾を一蹴りした。男の呼吸が止まった隙に、手の中の種を口内へ放り込む。そして飽きた玩具同然に、手荒く放り投げた。
咳き込みながらも自由を取り戻したアークォンは、とうとう子供のような声音になった。
「おのれ、おのれおのれ! 我は栄光を勝ち取る者ぞ! 神より栄光を授かるものぞ! 神の子をここに! 神の子は我の死を望まぬッ、我を慈悲を与えるのを望まれるッ! 遊撃鳥如きが無礼なるぞ! このアークォンを決するは、神の子たる天園鳥のみッ!」
「煩い、耳が穢れる」
ホスティアが堪えかねたように、アークォンの頬を叩いた。
「思い上がるな、櫃如きが。汚らしいお前の価値など、あの方の道具としてのみ。使われるだけ光栄に思え」
何度も何度も両頬を交互にいたぶった。布の張るような辛辣な音が、放心してされるがままの男の顔へと繰り返し執拗に響く。
「その辺にしとけ、ホスティア。お前のキレイ好きはちっとばかし極端だ」
間に入ったピックスは苦笑して、アークォンに慈悲とばかりの囁きをかける。
「心配すんなよ。お前の沙汰は、天園鳥のアイツから、きちんと了承を得てる」
アークォンは、いっそきょとんとした風情で目を瞬かせた。
「まことなのか……神の子がそのように申したのか。我の判決を……」
「ああ、今はちと動けねえからな。遊撃鳥の俺たちの手で、『是非に』、と」
「……嘘だ……信じぬ……そんな愚かな……愚かな……」
絶望したアークォンはただそう繰り返し、啜り泣くだけだった。
もはや呆れたような眼差しの鳥たちは、情の一切をなくした声を発する。
「天空都市の天園鳥の権限で、今からテメーを強制執行する」
「魔術師、よろしくお願いします――あの方のためにも」
「はいはい、お願いされたよ。あの子のためだもの」
魔術師は腰を上げると、その長い指爪を天に掲げる。腰を抜かしたまま、無為な言葉を垂れ流すアークォンを嬉々と見下ろした。
「そんなに怖がらないでよ。永遠にも似た時の中で、世界の全てを見渡したいんだろう? その願い叶えてあげるよ、君へと捧げる聖呪で」
何かを切るように、指が大きく一振り下ろされる。それを合図にアークォンは一度痙攣し、途端に身動きを止めた。
床に仰向きにして転がった身体より出現するものがあった。額あたりから生え出している。植物の瑞々しい芽だった。若芽はすぐに背を伸ばし始める。
「……あ、あア、ア、ア……――」
男の口から微かな絶叫がもれ、やがて太い若芽が飛び出してきた。続けて耳から、目から、身体の穴という器官全てから、そしてその重い礼服の内からも突き破ってどんどんと伸びていく。天井に向けて幹を伸ばし、枝を広げ、若葉を茂らせる。
切っ先が天井に近づきそうになるところで、突如勢いが止まった。青々とした葉は瞬く間に黄土色へと変わり、そのまま朽ち落ちてしまう。
若木の成長を硬い表情で見守っていた三人は、明らかに落胆した表情を見せた。
「……ふん、『駄目』か」
「ええ、未収穫、ですね」
「最高法師でも、だめだめかあ……」
アークォンの姿は跡形もなく消えていた。干からびたような木だけがそこにあった。生命として息づいているのかどうかは、疑わしかった。
「なれば、どういたしましょう」
「切って、冬越えの薪でもすっか」
「嫌ですよ、気色悪い。誰が使うんですか」
「じゃあ、きのこでも栽培する?」
「うえ、冗談。それこそ誰が食うんだよ」
「あの子の精はつくかも。曲がりなりにも最高法師のカラダだし、ね」
「やめていただきたい、それこそあの方が穢れる気がする。ただでさえお具合がよろしくないのに」
心底うんざりと顔をしかめるホスティアへ、ピックスが思い出したように向き直った。
「そういや、お前知らなかったっけ。目ぇ覚めたよ――アイツ」
目を瞠ったホスティアが、ゆっくりと唇をわななかせる。
「御前が? ……本当に、ですか?」
ピックスは気分転換代わりの紅ハッカを口に加えつつ、軽快に頷いた。
「ん、夜明け前にようやっとな。会ってこいよ、一月ぶりだろ」
「ええ、ええ、それは勿論。何故もっと早く言わないのですか」
「終業後のご馳走は格別だろ? つまりはそういうこった」
庭先で風にあたっている筈だと、ピックスが示したのは半開きの硝子戸だった。ホスティアはたまらず駆け寄り、それでも一度深呼吸してからゆっくり扉を押し開いていく。
朝の穏やかな陽だまりが零れ、突風の軽やかに舞う白い中庭だった。街の空中庭園には敵わないが、壁際に囲むようにして様々な木々と花が鉢に植えられている。
ホスティアは希望に膨らむ心地で奥の階段へと向かった。上った先には、天より世界を仰ぐための展望台があった。こじんまりとした場所ではあるが、テーブルと椅子が一脚ずつ置かれた憩いの場でもある。ここでゆっくりするのが何よりお気に入りなのだと、白い鳥籠の中の主は笑う。
主は展望台の縁に手をついて、蒼く澄み渡る空を眺めていた。
翡翠色の羽根のような髪を風にそよがせて佇む、一人の小柄な少年。ゆったりと纏う薄地のローブが、透けるようにして陽光を受け止めている。
気配に気付いて振り返れば、風が一層に強く、柔らかく舞う。真白き光と空の蒼を背に受けた、まろみのあるあどけない面立ち。広がっていくのは、何処までも透き通った目映い微笑み。
「――おはよう、ホスティア」
甘美なまでに耳に落ちる、春の日向のそよ風のような声。歌姫の音色さながらに、ホスティアはうっとりと聞き入った。
「……おはようございます、御前。お身体は、大事ありませんでしょうか」
少年は得意げに頷いた。
「大丈夫。たくさんたっぷり寝たからかな? いつもごめんね、心配かけて」
「いいえ、いいえ、とんでもないことです。あなた様以上に大事なものなど、ありはしませんから」
「相変わらず大げさだなあ」
くすりと笑う少年は、ホスティアの背後より姿を見せた、背の高い若者に気付いて呼びかける。
「ピックス、どうだったのかな」
ピックスは肩をすくめて応じた。
「どうもこうもねえよ。残念ながらな」
「そっか、……期待してたんだけどな。彼ほどの器なら、林檎じゃなくても、花実ぐらいはつけると思ったのに」
表情を曇らせ、見るからに肩を落とす少年を、ピックスは頬を掻きながら気まずそうに見やった。
「まぁ、その、元気出せよ。ようやく櫃は壊したんだ。これでちったあ動きやすくなる」
「そうそう、残念がるのは早いよ」
魔術師もひょっこり姿を見せると、安心させるように微笑んだ。
「一人、目ぼしいの見つけたんだ。もうすでに、カラダに実がなってる」
少年はぱっと光あふれるように笑顔を取り戻し、身を乗り出した。
「本当? だあれ?」
「まだナイショ。ペラペラ言うと、すーぐ先走るヤツがいるからね。無粋なお墓は作らないのが信条さ」
魔術師は二人の鳥を不満じみたように見やるが、ピックスは素っ気なく鼻を鳴らすだけだ。
「何だよ、俺たちが堪え性のねえガキみたいに。実があんなら、さっさと奪っちまえばいいじゃねえか」
「捥ぐにはまだまだ青いんだよ、きっと食べたって不味い。だから、収穫時期を見定めるんだ」
「そっか。……じゃあ待ってる。楽しみにしてるね」
少年はあっさり素直に頷くと、風に誘われるように蒼い空へと視線をやった。その遥か向こうの山々の、その頂きに降り積もるのは真夏の純白の雪化粧。
「……ねぇ、僕のいとしい白百合は、元気だった?」
ピックスはこっそり苦笑を浮かべた。見てもいないのに、相変わらず少女のことなら並外れに敏い。もしくは、己の態度の何処かしらが分かりやすかったのか。どちらにしろ舌を巻くことには変わりない。
「ああ、元気だったぜ。俺のことは全ッ然覚えてなかったけどな」
「そりゃあそうだよ。あの頃のお前は、僕よりもチビだったんだから」
過去の姿を思い返す少年は、とびきり愉快そうにくすくす笑った。
「こんなに図体がでかくなったら分かる訳ないよねえ。それはそれで複雑な気分ってところだよねえ」
魔術師にからかわれ、しかめ面するピックスが表に出ろと指で促す。「やなこった」と魔法使いは真下の床面に魔法陣を展開させた。作られた防御壁をピックスは容赦なく蹴り続ける。御前の前で失礼はやめなさいと、ホスティアが眉をひそめる。
戯れるような三人のやりとりを、少年は悠然と見守った。
それでも、少しの焦がれを滲ませて、林檎があれば、と呟く。
金の林檎を食べれば元気になって、大切な少女を迎えに行ける。そしていつかのように、いとしい君といつまでも一緒にいられるから。それはとても素敵なことだから。
だからどうか、この身にたゆまぬ強い祝福を。
「会いたいな、僕の白百合……――大好きだよ」
夏の章 了




