夏 天空都市Ⅷ
少女は硬い表情で、それでいて少し気恥ずかしそうに言葉をなぞる。
「そ、其は、ピリッとあまいぽっかぽかドリンク――エンコード:『ジンジャーシロップ』!」
リーンの手の内にある解呪符から淡い光が零れ出て、魔術師に降りかかった。何が起きたのか分からないように、きょとんとした魔術師だったので、リーンは不安そうに見返す。けれど、相手は不意に口をもごもごし出し、感心するように頷いた。
「……うん、あまずっぱくて、美味しい」
「そ、そうですか」
「しかも身体があったまってきた」
「良かった、成功したみたいです」
安堵の笑みを浮かべるリーンに向けて、魔術師は首を傾げた。
「雪のお嬢さん、君一体、何を施したんだい」
少女は、カードケース内に挟まれた豆本のページを開いてめくる。簡素な説明文が記されたものだ。
「ええと、滋養強壮・肉体疲労時の栄養補給に使用、……だそうです」
「へえ、今の私に打ってつけじゃないか。ねえねえ、他には何かあるかい?」
無邪気に催促されて、リーンは慌てつつも豆本をまくる。
「ま、待ってください。……あ、これなんかどうかしら」
解呪符をもう一枚取り出すと、きらきらとした眼差しを向ける魔術師に再び放った。
「そ、其はお日様といつも一緒の祝い花――エンコード:『ポット・マリーゴールド』!」
魔術師の顔表面の赤らみが、僅かに薄れていく。変化を感じたのか、頬を触りながらわくわくと訊ねてきた。
「おお、今度は一体何が起きたんだい」
「ええと、傷のかゆみ、かぶれ、あかぎれに、だそうです」
「すごいじゃないか! 成程、君は私と同じく魔法使いなんだね!」
魔術師が愉快そうに膝を打つので、リーンは慌てて首を横に振った。
「ち、違います! 私は解呪師なんです。その、まだまだ見習いなんですが」
「ふうん? 私の知ってる解呪師とは何やら勝手が違う気がするけれどね……」
魔術師は、リーンの手にある解呪符をしげしげと見やった。
「ソレ、ちょっと見せてもらってもいいかい?」
「は、はい。あの、少しだけなら……。大事なものなので……」
「心配ご無用。恩人に不作法はしないさ」
薄い紙札を手に取った魔術師は、数秒だけじっと見つめると、あっさりリーンの手の内に戻した。
「ありがとう。面白いオモチャだね、発案もなかなか悪くない。これを作った人に、君は優秀な技術屋だと伝えておいて」
「分かりました。ちゃんとメグに伝えますね、きっと喜びます」
少女は頷いて、我がごとのように口元を喜色で綻ばせる。
魔術師は身体の状態を確かめるように手足を伸び伸びと動かした。浮かれた声音で少女に笑いかける。
「君の手当のおかげで、気力が少しだけ戻ったよ。いやあ、人の施しって実に良いものだね」
「私でお役に立てたなら何よりです」
「君には感謝と恩義を。何かお礼をしなくっちゃ」
「あの、気にしないでください。私の役目で出来ることをと思っただけなんですから」
「まあそう言わずに。私はね、途方もない人でなしだけれど、その程度には気分屋でもある。私に出来ることがあれば言ってほしいな」
「あの、でも、急に言われても……」
魔術師はじれったいのか、痺れを切らすように身体を揺り動かした。
「奥ゆかしいねえ。じゃあ手っ取り早く、君には祝福を約束しておこうかな」
「……祝福?」
「素敵なおまじないのことさ」
にこりと笑うその表情は、硝子細工のように端正であり無機質なきらめきがあった。右腕を持ち上げ、薄い色味の人差し指をリーンに向ける。
「『パスリセージ・ロズマリアンタイン、これは波打ち際の麦畑、広大無辺の実りを――』」
その呪文は最後まで続けられることはなかった。
コツン、と杖を突く音が石畳から響いたのだ。
「やめてください。あなたの施しは、たとえ祝福でも逆さまのまじないになりかねませんから」
穏やかな口調が二人の耳を通り抜けていった。鈴の音に砂の入り混じるような、独特の掠れた声音。しわがれたそれは、佇む一人の少女の口から零れ出た。
身に纏うのは、晴れた夜空のような濃藍の、大きな襟付きワンピースとハイソックス。砂色の瞳に、それと同色のたっぷりの長髪は緩く二つに分けて、胸上で括られている。手に携えるのは長めの古びた木製の杖。
背丈は低く、見ようによってはリーンよりも僅かに幼い印象を与える面差しだったが、薄っすらと微笑む口元のそれは随分と老成じみている。
「エミリー!」
リーンはぱっと表情を明るくし、少女の名を呼んだ。すぐさま駆け寄って無邪気に手を繋げば、エミリーの儚い笑みにほんのりと色が乗る。
「リーンさん、ご無沙汰しています。天空都市へのご来訪ありがとうございました」
「急に手紙が来るからびっくりしたわ。何かあったのかと……」
「キャンベル家へ向かわれたあなたの様子見も兼ねています。とてもお元気そうで安心しました」
「うん、元気にしてるわ! エミリーはどう?」
「変わりありませんよ。何事もなく過ごしています」
「本ッ当に全ッ然変わらないんだね、君ってヤツは。その姿、いつまで留めておくんだい」
不意に口を挟んできたのは、少し面白くなさそうに膨れた顔付きの魔術師だった。エミリーはゆるりと首を動かして魔術師を悠然と見やる。
「変わりないのはあなたも一緒ですよ。私がこの子と同じ年の頃から、とうにその姿のままでいらっしゃいました」
「私は魔法使いだからいいんだよ。でも君は、一介の解呪師じゃないか」
「気に入りませんか?」
「そう言われると、……結構どうでもいいかな。君にはてんで興味ないから」
魔術師は肩をすくめると、あっさり剥れた視線を取りやめた。
エミリーはリーンに振り向き直り、安心させるように微笑んだ。
「この方は遠い昔馴染みです。今は亡き王家でお世話になっていた頃、何かと目をかけていただきまして」
「そうそう、王家お抱えの魔法使いと解呪師。かつての同僚関係というやつだね」
魔術師も気軽に告げたのは、数十年も前に廃れた君主にまつわるもの。リーンもぼんやりながら人伝に聞いて記憶していた、知る由もない昔の話だ。
「……やっぱり、エミリーはとんでもなく、年上の人なのね」
リーンがしみじみと言い零すので、エミリーはくすりと音を明るくする。
「私がおばあさんだってこと、少しは信じていただけたようですね」
空から警笛音が響いた。途端に、一つの影が差し迫って少女たちの元へ降り立つ。巡回中の一人の兵鳥だった。
「学徒区で事件が起きたため、観光区にお立ち寄りの皆様へ避難誘導を行っております。至急、ふもとの指定場所へ――」
呼びかける兵鳥の目が魔術師を映すと、さっと表情が変わった。
「死神……ッ!?」
「何だい、やぶからぼうにさ」
魔術師が億劫そうに立ち上がろうとして、その右手が兵鳥を指し示そうとする。対する兵鳥も腰元のナイフを素早く取り出そうとする。殺気立った交差を阻めるように、合間に少女の杖が掲げられた。
「双方共、おやめなさい」
そのざらついた声に聞き覚えのあった兵鳥は、たちまち青白い顔となり、エミリーの全身を隈なく見やってからその場で膝をつく。
「……御前でお見苦しい真似を働き、大変失礼いたしました。ご無礼をお許しください」
「許しましょう。その代わりに、この場で見たことは何もかも忘れてください」
エミリーが緩やかな声音で兵鳥に言い聞かせれば、その頭が床面に貼り付くまで垂れた。
「……お初お目にかかれましたこと、恐悦至極に存じます」
「では、引き続き巡回をよろしく頼みます」
兵鳥は一つ強く頷き、空中庭園から逃げるようにして飛び去っていった。
魔術師は大きくため息をついて、エミリーを訝しそうに見やった。
「やれやれ、助かったけどさ、どういう風の吹き回しだい」
「人前に出るのは憚られる身を優先しただけです。あなたはおまけの、お目こぼしです」
「言うじゃん。ま、それに、この子の手前で刃傷沙汰は、いささか気まずいよね」
二人はリーンに向き直り、おどおどと怯えたような目を向ける少女を優先することにした。
「何にせよ、この場で留まるのは目立ちます。場所を変えましょう」
「賛成。ついでに美味しいお茶とお菓子とサンドイッチが欲しいな」
魔術師は自身の腹部を撫でて、お腹ぺこぺこなんだとぼやいた。
*
枢機部には、客人との会食で使われる豪勢な大広間があった。
会議室で倒れた者は、救援の遊撃鳥によって誘導されて、室内で安静にするよう言い渡されていた。命は取り留めたものの、あの天空都市で呪われたという衝撃に皆は打ちのめされていた。震える者、じっと俯く者、密かに涙する者。物静かな広間は憐れな程に暗然としていた。
解呪を行い疲弊したヨークラインも、同じくそこに押し込められいた。部屋角の長椅子に座り、腕を組んでじっとしていたが、指先が苛立たしくとんとんと揺れ動いている。被害に遭ったという食堂の動向も気になるし、マーガレットとプリムローズがどれだけの処置を行えているのか。その情報すら、隔離されたこちらには入ってこない。
エルダーは屯所で手当てを受けるらしく、遊撃鳥が連れ出していった。飛び立つ前に使いを頼めば良かったと、胸中で嘆息する。
扉がゆっくり開かれ、アルテミシアが大広間に入って来た。入口近くに控えていたヨークラインはすかさず席を立つ。
「猊下のご様子は……?」
青年の問いかけに、アルテミシアは小さく息をついた。
「御所へお連れしたら、ご安心あそばされたわ。打って変わって、何か考え込むように黙り込んでしまったけれど……」
「魔術師のことを憂い思っておられるのだろうか……」
青年の口から漏れた独り言で、その細い眉が一層しかめられる。爪を噛むような仕草で歯ぎしりした。
「あの下郎を使おうとしたことがそもそもの間違いであるのよ。……ほとぼりが冷めぬ内に暴かねば。猊下には、数多くお伺いしたことがある」
「――ああ、こちらにおいででしたか」
調子の良い声が扉の隙間から密やかに漏れ出てきた。その男が二人に目配せするように笑いかけてくるので、ヨークラインとアルテミシアは静かな足取りで室内を後にする。
冷え冷えした廊下を進む男は、人気のないことを確認してから階下へ誘導する。
「お噂通り、ご無事で何よりでございました。心からご全快をお祈り申し上げます」
「何故、あなたがここにいる、ミスター・カムデン」
ヨークラインから訝しそうな目を向けられて、行商人ホーソン・カムデンは苦笑しながら肩をすくめる。階段をゆっくり下りながらのんびり答えた。
「ボクは依頼でここに赴いたのですよ。マーガレット・キャンベルお嬢様のね」
「マーガレットが?」
ヨークラインが目を瞬きさせてホーソンを見据えた。穏やかな態度の男は飄々と言葉を続ける。
「お嬢様の英断により、呪いの処置に必要な薬剤が各都市から集まりつつあります。解呪師の不足を補おうとなさっておいでだ」
「そうか……彼女ならそうするだろうな」
ヨークラインが少しばかりゆっくり息をついたが、焦れるような表情は変わらない。それを横目で捉えたアルテミシアは、ため息混じりに命じた。
「お行きなさい」
青年は少し目を見張ってアルテミシアに向き直った。
「しかし、よろしいのでしょうか」
「今回ばかりは、お前の妹たちだけでは荷が勝ちすぎる。わたくしもまだ十全でない。己の身の振り方を弁えつつ、責務に励みなさい」
「……ありがたく存じます」
ヨークラインが深々と礼の形を取ると、弾かれたようにアルテミシアから背を向けた。枢機部の外へと早足で向かっていく。
その後ろ姿を苦笑しつつ見送るホーソンは、安堵のため息をついた。
「いやはや、旦那が危ないと思って内心ヒヤヒヤしておりましたが、このご様子では猊下の方を気遣うべきでしたかねえ」
「お前のような下郎の気遣いは無用よ」
男の本性を良く知るアルテミシアは、虫唾が走るといった目で見るばかりだった。
ホーソンは構わず愛想の良い微笑みを浮かべる。
「猊下のお目当ては、差し当たりキャンベルの旦那の命です。ボクの口から漏れる下卑た噂を信じるならば、ですがね」
「道理で事が起こってから都合良く現れる。どういった醜聞で儲けに変える気かしら、この火事場泥棒」
「ははは、手厳しいお方だ。動乱のあるトコロにあらゆるモノは流れます。ボクはその流れに乗るのが少し上手いだけ。今日はね、ご提供に参ったのですよ。裏が取れたのでね」
ホーソンの変わらぬ機嫌な様子で何かを察知したのか、アルテミシアが不遜な表情を薄くする。
「……その裏を詳しくお聞かせなさい」
階段下の窪みには暖炉と造り付けのソファが置かれ、小さな談話室になっている。そこへ手招かれたアルテミシアは、未だ疲労の残る身体をソファに沈めた。
ホーソンが懐から取り出したのは、数枚の手紙だった。目の前のサイドテーブルに並べていく。文面の差異はあるが、どれも同じ内容である。簡潔に要約するならば、この度は偶然のご不幸をお悔やみ申し上げる、これは懇情の気持ちとして受け取ってほしい――故人を偲ぶ手紙だ。
「これは私文書ですが、充分な証拠と言えます。何せ猊下の内々の私印だ」
「どうしてこれが猊下の書状だと言えるの。何故お前が私印を知っている?」
「ボクが猊下から賜る大事な小切手と、同じ印章だからですよ」
商人は懐から上品な印紙を一枚を取り出した。確かに手紙と同一の判が押されている。サイドテーブルの片隅へと置き、手紙と共に並ばせた。
「この手紙は、各七大都市の要人のご家族からお借りしたものです。恐れ多くも天空都市の最高法師の直筆ですからね、丁寧に仕舞い込まれていましたよ」
「それで、このお悔やみ文が何だというの?」
「猊下が宛てたこの手紙全ては、突如の呪いでお隠れあそばされた方々へのものです」
アルテミシアの瞳が驚愕で見開かれる。
「猊下のご意向に気を病み、お言葉を添えていた不埒者、もしくは勇敢な御仁。まあどちらかは知りませんが、猊下を快く思わぬ方々ですね。ある日ある時、何でもないようなのに、いきなりぽっくり死んでしまっている。死因は不明。解呪師は『不幸の呪い』と一点張り。誰が呪ったのかは分からない。そして敵視している最高法師から、慈悲とばかりにやってくる手紙と恐らくは多額の弔慰金。頭の良い方なら自然と察せるものですよ。猊下の――天の意向に逆らった罰なのだと」
「……だが、明確な証拠にはなりえぬ。魔術師を用いて呪い殺したという材料には不十分よ」
アルテミシアは慎重に異を唱える。ホーソンは身を乗り出し、少し面白がる表情を浮かべた。
「中には反骨精神溢れる方もいらっしゃったようですね。同封されていた小切手に、ご辞退申し上げると明記してサインまでして送り返したそうです。そうしたら、しばらくの後に黒い装束の死神が姿を現し、『これは受け取らないといけない、さもないとこの家全体が呪われる』と小切手を今一度持って来たそうですよ。いやはや、親切な死神もいたものですね」
「その死神が魔術師であると」
「十中八九には」
アルテミシアは口元に手をやり、納得するように呟く。
「成程。小切手も呪いの手順の一つなのだわ。罰に脅えた家族が猊下の施しを受け取り、初めて呪いが完了となる。それが成立しないとなると、呪いは手掛けた術師に返っていく。魔術師でも呪いは厄介なものなのか、もしくは、呪いをかけた張本人がそもそも猊下なのかもしれない」
目を細めたホーソンは強く頷いた。
「ええ、その呪いの痕跡が、猊下の身辺にある筈なのです。それを探っていただければ確固たる証拠となる。術師が魔術師だろうと猊下だろうと、この際どちらでも良いのです。呪術の痕跡が、最高法師の御許から見つかりさえすれば」
「……それで、お前はわたくしを当てにしてきたと?」
「アルテミシア候、あなた様は手厳しいが、穢れと歪みを許さぬ真っ当な心をお持ちですから」
気疲れしたようにアルテミシアは眉間を押さえたが、やがて決心したようにゆっくり顔を上げた。
「わたくしも所詮は一介の解呪師。絶対たる猊下を取り調べるような権限は持ち合わせておらぬ。なれど、査問機関を通じればまかり通らぬことはない。……天園鳥に申し入れをする」
ホーソンは思わず感動の声を漏らした。
「おお、噂で聞いたことありますよ。儀式の時にしか姿を現さぬ美しき者たち、神の子のような面差しだと」
「枢機部に潜む籠の鳥よ。兵鳥が都市を守る騎士ならば、彼らは内々から異物を排除する掃除人。普段は祭事のお飾り人だけれど、この天空都市で唯一、断罪を許された者たちよ」
「彼らなら、猊下でさえも天から撃ち落とせる……」
鋭く目をきらめかせたホーソンだったが、気を揉むようにぼやいた。
「……危惧すべきは、そこにも猊下の息がかかっていないか、というところですかね」
「どの道、申し入れには根回しが必要になるわ。わたくしにも少なからず当てがある。まずはそちらに話を伺いに行く」
アルテミシアも苦渋の表情だったが、テーブルに置かれた手紙を強く握り締めて言い重ねる。
「猊下であろうと罪は許されぬ。あの外道――魔術師と取引していたのならば、陛下の崩御にも、殿下たちの有様にも納得がいく。天空都市の今日の在り様にも……」
ホーソンは合点するように頷いた。
「……ああ、あなた様は、確か王家のご落胤。なら、そのお心持ちも致し方ありませんな」
「ええ、分不相応のわたくしを殿下たちは良くしてくださった。……なのに今は、今では、わたくしだけがここに残された」
アルテミシアは忌々しそうにしながら、繰り返す。
「決して許せぬ。許されぬ。王家の衰退に手を貸したのは、魔術師、あいつなのよ」
急くヨークラインが枢機部を出ようとしたところで、見知った声が嬉しそうに呼び止めてきた。
「やあ、ヨーク。良かった見つけた」
ヨークラインは立ち止まり、疑わしく見やった。一人の兵鳥の姿があった。その象徴である飛翔装を羽織っているのは、フラウベリーで留守を任されている筈のジョシュアだ。
「何故お前がここにいる」
「我が家のレディに頼まれたなら、馳せ参じない訳にはいかないさ。ごめんよ、言いつけ破っちゃって」
苦笑するジョシュアは、気難しそうに睨むヨークラインの肩を軽く叩いた。途端に、その肩から僅かに力が抜け、深いため息が零れる。
「……いや、良く来てくれた。想定外のことばかりでさすがに参っている。すまんが大人しくも出来なかった」
そのしかめ面が気まずそうな時のそれであることを知るジョシュアは、くすくす笑って応えた。
「いけないんだ。それじゃあお互い様ということで」
「だが、どうやって短時間でここまで?」
フラウベリーから天空都市へは、高速の馬車で乗り合わせても半日はかかる。ヨークラインが首を傾げればジョシュアは身に纏う外套を腕で広げてたなびかせる。
「兵鳥のを借りたんだ。これなら天空都市までひとっ飛びってね」
「では、その兵鳥は?」
「人一人抱えて飛ぶのは大変だって言うからさ、彼にはお屋敷のお留守番を頼んじゃった」
しれっと言うので、ヨークラインはついつい呆れた物言いになる。
「またお前は勝手に……。まあ、お前が許すのなら、その兵鳥は信用に足るのだろう」
「とても良い子だったさ。プリムのことをよろしく頼むって、一生懸命に何度も頭を下げてね。彼には後でお礼をしないと」
嬉しそうに告げるジョシュアは、ジャケットの内側に潜めた解呪符をヨークラインに向けた。その笑みが一層に深くなる。
「……本当にいけないんだ。力を極限近くまで使ったね? お前の内々に抱えるものは、限りない恵みを体にした有限の爆弾なんだろう?」
「すまん。だが、俺が力を使わねば、誰も彼もが死んでいた」
潔く淡々と告げられて、ジョシュアは更に目を細めた。
「そうだね、お前の判断は優しく正しい。だからこそ僕は、お前やレディたちを心から愛せるのさ。……其は生きる歓びをもたらす花蜜――エンコード:『ネクタル』」
解呪符から放たれた光がヨークラインに降りかかると、身体の隅々まで蓄積した重みが取り除かれた気がした。足に羽が生えたように、何処までも軽い心地になる。ほのかに血色を戻したヨークラインに向けて、ジョシュアは念を押した。
「分かっているだろうけれど、あくまで応急処置のカンフル剤さ。家に帰ったらちゃんと休んでおくれ」
「すまん、助かる」
「さ、レディたちのところへ案内しておくれ。心細い気持ちだろうに、良くやってくれているんだろう」
「ああ、マーガレットたちは治療室にいるらしい。……そう言えばお前は、天空都市は初めてだろう? 良くここまで迷わずに、誰にも会わずに入って来られたな」
天空都市の奥内に位置する枢機部は、基本的に一般人は立ち入りを許されていない。ジョシュアも首を傾げながら答えた。
「兵鳥の装いだからだと思うんだけどさ、観光区をウロウロ歩いていたら他の兵鳥に見つかってここまで連れてこられたんだ。『勝手に出歩かれては困ります』って言われて。多分、誰かと間違われたんだろうけれど」
「お前に似た兵鳥がいたのだろうか。奇妙なこともあるものだ」
「世界には同じ顔をした人が百人ぐらいいるらしいしね、不思議なことじゃないよ」
「お前が百人もいたら、さすがにたまらん」
にべもなくヨークラインは言い返した。
*
ひっそりとする枢機部の奥間には、噎せ返るような香木の薫りに満ち満ちた、冷ややかな一室があった。
豪勢な天蓋の付く寝台で、アークォンはうなだれるように腰掛けていた。床面に向けられる視線は覚束なく、その眼はぎょろぎょろと忙しなく蠢いている。
王家の傍系にあたるアルテミシアは相応だとして、魔術師の呪いに打ち克ってみせたのが、唯一かの青年だった。
本来であればこの若き解呪師へ目がけて呪いがかけられる筈だった。酷薄な呪いにどう立ち向かうのか、噂に名高い異端キャンベルの秘技を間近で見定めてみたかったのだ。重用と見なせば、命は取り留めておこうとまで考えていた。
魔術師の不意の裏切りにより、こちらの命が危うくなるのは全くの誤算だった。だが、結果的に目的は果たせた。
瞼内でおぼろげに繰り返されるのは、崇高な御業を呟く声。
「エンコード……あれは……異端の紛い物にあらぬ。……あれは、神の御業……」
所詮、己は凡庸の人の身。誰かの手を借りねば立ち上がることもままならなかった。混濁した意識の中ではあったが、青年のたった一人立ち尽くす様を感じた。あの姿が忘れられない。孤高でありながら若木のように清新で、凛とした佇まい。容易く揺らがぬ冷厳な面持ち。最高法師には遥か高みの天上人のように映った。
「あの若造……よもや、あの動乱で散り散りになった……王家に連なる……」
ああ、と感嘆の声を上げるその顔は、新しき光を見出したと言わんばかりに壮絶な微笑みを浮かべている。
「なれば彼奴は殺せぬ、殺してはならぬ。神の子と同じく手の内に囲うのが良い」
色めき立つように身を動かしたアークォンは、寝台の隣に位置するチェストを物色し始めた。鍵穴のついた引き出しの錠を開け、そこから大きな羊皮紙一枚と、インク壺を思わせる硝子瓶を取り出す。羊皮紙を寝台の上に広げ、人差し指をインク壺に浸した。そして無邪気な子供のように豪快に腕を動かし書き連ねていく。鮮血のように明々の、真っ赤な幾何学記号が羊皮紙を満たしていく。
「なれば、魔術師。あれはいらぬ。もう手駒には出来ぬ。我が目の見渡す世界は盤石に保たれねばならぬ、安寧が約束されねばならぬ。身勝手な裏切りなど許さぬ」
呪いを解くのならば、まず呪いを知れ。解呪師が学んで身に着けるのは何も解き方だけではない。解呪の裏返りである、呪いを手招く術も内々に教示される。それが天空都市の知られざる秘儀であり禁則。
そしてその禁則を破った者が招呪師と呼ばれ、世界の端々に潜み、人々から恐れられている。彼らは解呪師の成れの果て――つまり、その技術さえ習得してしまえば、誰にだって誰しもに呪いはかけられるのだ。
「我が身を呪う者は呪いを以て知れ、これが我の天なる祈りぞ。神よ、どうか我が御世に強き光を!」