夏 天空都市Ⅴ
幼い少女が、小刻みに両脚を動かして街道を通り抜けていく。狭く細いその真上より、一つの影が覆うように迫った。低空飛行で寄り添うまま、兵鳥が控えめな口調で申し出る。
「プリムローズ・キャンベル嬢、ピックス隊長の命令で、あなた様の擁護を仕りました。出来る限りの要望にもお応えいたします」
少女はちらりと視線を上向かせると、軽やかな駆け足を止めないままぴょんと高く跳ねた。空中で兵鳥がその小さな身体を受け止めると、プリムローズは冷静な声で告げる。
「このまま学徒区の食堂へ全速力!」
「了解いたしました」
少女を抱えた兵鳥は天高く羽ばたき、街路に立ち並ぶ建物を悠々と飛び越えてみせる。向かう先は、天空都市の奥に所在する学徒区だ。修行者や研修で出向いた者、修学中の見習いたちが滞在する施設が連なる区域である。食堂は、宿舎と校舎が併設された大きな建物内の中にあった。
屋内を行き交う解呪師や解呪師見習いのぎょっとした視線を余所にして、プリムローズと兵鳥はひたすらに飛んで突き進む。
食堂前には、入口近くを避けるように大勢の人々が集まっていた。硝子張りの扉の向こうで何十名が昏倒しているにもかかわらず、何も出来ずにうろたえるばかりの群衆だ。
「室内の空気を吸うだけで駄目みたいだ。何かが充満していることだけは確からしいんだが……」
「口元を覆えば何とかならないか!?」
「布如きじゃあ駄目です! 息を出来る限り止められれば……」
「その前に目がやられる! くそ、何とか一人だけでも引きずり出せれば容態が分かるんだが」
「兵鳥は何してるんだよ、応援要請が伝わってる筈だろ!?」
「指揮系統が混乱してしまっているらしい。だが、いくら兵鳥でも、原因が分からず終いでは……」
治療をしようにもその前の救出が行えず、巻き込まれるのが目に見えている現状で、不用意には食堂内に入れない。進むための判断に自信が持てず、誰しもが途方に暮れている時だった。
遠くから来訪する風を感じたと思えば、鈴の声音が高らかに響く。
「そこをどいて! 三々七拍子とタムろがすぎるのよ!」
飛行しながら迫ってくる兵鳥と、その腕に抱えられた幼い少女に気付き、解呪師たちの多くが色めき立った。
「――ミス・キャンベルだ」
「妹のプリムローズ嬢の方だ」
「やっと高等解呪の支援か!?」
「あれが噂に名高い、異彩キャンベルの……」
紅玉色の燃え上がるような瞳、シェリーカラーに輝く柔らかな巻き髪。目立つ風貌の神秘的な少女を見聞きする者は、天空都市において存外少なくない。波が一気に引くように、群衆の中心が割れた。兵鳥が手を離し、降り立ったプリムローズは駆け足のまま食堂の入口へ突き進む。群衆の一人が恐怖に引きつる顔で警告する。
「気を付けてください……! 悪意のある見えないものが、室内に満たされていて……!」
「覚悟上等なのよ。扉を開けて!」
不敵に微笑む少女の言うまま、食堂内への扉が解放される。プリムローズは、腰に下げていた巾着袋から解呪符を取り出した。走り抜けながら言い放つ。
「其は邪気を祓い清める恵み草――エンコード:『ストローイング・ヘンルーダ』!」
カードから瑞々しい光と風が巻き起こり、室内へ吹き渡る。少女はその流れと共に食堂内へ威勢良く侵入し、すぐさま窓側に駆け寄った。
「プリムローズ嬢! あまり無茶は!」
遅れつつ兵鳥が慌てて中へ入ってくるが、プリムローズは冷静に指示を出す。
「反対側の窓を開けて! 外の空気を通すの!」
二人が窓を全て開け放てば、清涼な外気がたちまち入り込んだ。室内に蔓延る『何か』を、外へと連れ出していく。薄れていく禍々しさ感じ取り、プリムローズは窓辺から空を眺めてひとり呟く。
「……ふうん、呪いなのは、やっぱり間違いないみたい」
「やはり、呪いでありましたか……」
息遣いの荒い兵鳥は多少の毒気に当てられたのか、その場で膝をついた。呼吸を整えようとしているが、咳き込みが止まらない。プリムローズが駆け寄って、心配そうな面持ちで声をかけた。
「ごめんね、多少無茶苦茶だった?」
「……いえ、こちらこそ不甲斐なく申し訳ありません。しかし、これだけで室内を解呪出来るとは……」
「空気の入れ替えって重要なのよ。それに、解呪符で室内の汚物は、全部滅菌消毒してやったのよ。床全面の吐瀉物も浄化済み。後は、皆の身体の中に取り込まれたままの呪いを……」
プリムローズはそう言いつつ、近くに倒れ込んだ者を見やった。途端に、その細い眉をひそめる。
「どういうことなの? マナが……」
「――へえ、面白いオモチャがあったもんだね。いささか興味深いんだけど、どういうからくりになってるのかな」
少女に向けて意気揚々と投げかける声が、上から降って来る。
天井近くの窓辺に腰掛けて、今まで室内の様子を窺っていたのだろう。足を軽快に揺らすその姿は、噂と違わぬ漆黒の出で立ち――古来よりその象徴とされる、悪逆無道たる魔法使いそのもの。厚い外套が全身をすっぽりと覆い、顔には細長い口ばしの付属する仮面があった。空気が正常になったと判断したのか、魔法使いはその仮面をあっさり取り外す。
そこから零れ出すのは、淡色の波打つ長い髪、象牙色の瞳。そして、硝子細工のように繊細で淡い面立ちだった。
高い窓位置にもかかわらず、魔法使いは躊躇なく身体を前に傾かせて、ふんわりと床面に降り立った。用なしになった仮面を無造作に放り、好奇に満ちる眼差しをプリムローズへ向ける。その薄い唇が、緩やかに弧を描いた。
「君が持つべきものにしちゃあ、随分と人工的で少し奇妙に思えるよ。どういう訳なのかな、小さく愛らしい妖精?」
プリムローズの眉が嫌悪に吊り上った。
「あたしは妖精じゃなくて、キャンベル伯爵家のプリムローズ・サラ・キャンベルよ。……お前は何者なの?」
少女が冷えた声音で問い返せば、魔法使いは困ったように肩をすくめてみせる。
「正しい名前はとっくの昔に忘れたけれど、人は私を、魔術師と呼ぶね」
そしてプリムローズに握手を求めるように手を差し伸べてきた。
「どうぞよろしく、親愛なる私たちのご近所さん、昏き森の守護姫妖精……――わぷっ」
魔術師の顔の真正面に解呪符が貼り付いた。視界を求めて薄い紙札をすぐに取り外すが、顔の表面の様子がどうにもおかしいと、手で恐る恐ると触ってみせる。
「え、ちょっと、何なのさ。何か痛いし痒いし発疹っぽいのあるし、サイアクなんだけど」
「――炎症エンコード:『ユーフォルビア』」
そう呟くプリムローズの赤々たる眼差しは、絶対零度の果てまで冷え固まっている。
「あたしをそうやって呼んでいいのはね、はなったれ坊やただ一人だけで充分なのよ」
少女は次々と解呪符を取り出して、魔術師に向けて淡々と言い放つ。
「中毒エンコード:『ジギタリス』、催眠エンコード:『ヘンベイン』、自白エンコード:『オピウム』」
それはもはや解呪の域を超えた、プリムローズの憤怒の化身だった。
解呪符の仕組み上、プリムローズの高い能力においては劇毒責めをも可能にする。その仕打ちを隣で見守るだけの兵鳥は、少女の獰猛さに内心息を呑むばかりだ。
「わっ、ちょっ、弱いモノいじめ反対っ。度がすぎる攻撃は理不尽っ。妖精、お願いだから少し落ち着きなってっ!」
身体を容赦なく蝕む異変に魔術師はただただ困惑するしかない。うずくまったところをとどめとばかりに踏み付けられて、とうとう絶叫を上げた。
「まだ言うか、この古ぼけ天外魔。そもそも理不尽な先手はそっちでしょ。……お前でしょ、サマーベリーを呪ったのは。あたしたちの村を、あたしたちの大事なフラウベリーをめっちゃくちゃにしたのは、お前でしょう?」
酷薄かつ冷淡な声でプリムローズが問い詰めれば、ぐったりと寝そべる魔術師は、肯定するように微笑んだ。
「理由があるなら答えて。どうして呪ったの」
魔術師は小さく息を詰めつつ、脆弱な声でプリムローズに白状する。
「……君らはさぞかし理不尽なんだろうけれど、ちゃんと私なりの動機が絡んでいるのさ。――探してるんだよ、金の林檎をね」
プリムローズは、この場で初めて意外そうに目を瞬かせ、言葉を繰り返す。
「……金の林檎?」
「呪いあるところに必然と現れるものなんだ。その万能の花実を、切にお求めの方がいるのさ。……ああもう嫌になるね、この口、本当にペラペラと自白してる」
魔術師はほとほと弱ったようにひとりごちた。それでも抗うかのように、水面で呼吸を求める魚よろしく口を開け閉じさせている。
プリムローズは難しそうに眉を寄せつつ、魔術師に言葉をかける。
「……サマーベリーの近くに植わったアレは、確かに金色の実だったわ。じゃあ、お前の目的は遂げた筈でしょう?」
「それは全然、全くもって。あそこに植わるアレは、単なるイミテーションだよ。同じ樹が、かつて王家の城庭にもあったよ。実は不味くて食べられたもんじゃなくてさ、懐かしいね。……まあそれはさて置いてさ、あんまり悠長にくだらないこと尋問してていいのかな。私が振りまいたのは、即効性で確実性の高い呪いだ。早く処置しないと、皆の命が危ないよ」
プリムローズは我に返ったように、呪いを受けた患者たちに視線をやった。
「そうだった。マナが止まっていて、おかしいんだった」
少女の視線から逃れた魔術師は、その隙を待ち構えていたようだった。己のローブの内から密かに探った物を、瞬時にプリムローズの腕に引っかけた。続けて、素早く歌うように呪文を唱える。
「『パスリセージ・ロズマリアンタイン、これは見えぬ棘のかたびら、針なしの加護を君に』!」
「やぁっ、あつっ、何っ!?」
手首が焼けるような痛みを覚え、プリムローズは悲鳴を上げた。絡みついたものから逃れるべく、必死に右腕を上下に振り回す。解けたそれは、何の変哲もない鋼色の細い鎖だったが、少女は怯えるように後ずさった。
胸元近くへ引っ込めた手首には、火傷のような腫れぼったい痕が残されている。
それを目に留めた魔術師は、肩を軽快に振わせて、心底おかしそうに手を叩いて笑った。
「あははは、妖精が鉄に弱いってのは本当なんだね、お伽話通りじゃあないか!」
「まだそんなこと言って! あたしは妖精じゃないもん! 違うもん!」
萎縮したプリムローズは、子供じみたように反発を繰り返すだけだった。高笑いを止めないままに魔術師は言い返す。
「そうだね、君が違うと言うのも一理あるものだね。けれど、これが呪いだったなら、話が違ってくるんじゃないかい?」
「何、言って……」
思わず呆然とした声音になる少女に向けて、魔術師は赤みがかった痕を指し示し、嬉々と言葉を重ねる。
「その烙印が明白に語っているじゃないか。私の呪文で、君は完全なる妖精に仕立て上げられたのさ」
「でたらめ言わないで! 馬鹿じゃないの! 信じないから!」
魔術師は悠々と立ち上がった。足下を引きずらせつつも、覇気を失うプリムローズの目の前を嘲笑うように通り過ぎていく。
「信じる信じないはどうぞお好きに、ご自由に。でも、これが君へと捧げる聖呪だよ、親愛なる妖精。君が人間であろうとする限り、この呪いは君には絶対に解けない」
打ち震えるプリムローズは、とうとうたまらず悲鳴の声音で吐き捨てた。
「うるさい! とっとと去れ! 去ね!」
「言われずともさ。じゃあまた何処かで会おうね、可愛い小さな妖精」
魔術師は窓辺に身を寄せると、ふんわりと僅かに浮き上がった。やがて霧のように霞んで消え失せてしまう。
取り残されたプリムローズは憤怒に震えるまま、魔術師の掻き消えた場所を見つめ続けた。右手首の傷痕を庇っていた筈の左手は、知らぬ間に爪を立てて皮膚を苛ませている。
「あいつ……許さない。絶対に絶対に、許さない……」
少女は荒い息遣いで、憎しみすら帯びる言葉を唇に乗せた。
間もなく、その幼い身体がぐらりと傾いだ。伏す前に、疲弊の兵鳥が何とか受け止めたが、崩れ落ちた少女はぐったりと動かなくなってしまった。
*
許さない。
幾重の茨が絡まるように、頭の中が残虐な痛みで締め付けられる。しかしそれを遥かに凌駕するのは、激しく冷たい焔の憎悪。
再び相見えた途端に、いとも簡単に、非日常的に、忌まわしき記憶は蒸し返させられる。そして非日常は日常へと裏返る。日々に馴染まざるを得ない感情だと認めるしかない。これは決して過去ではないのだと。
決して解けない呪いのように、宿命だと言わしめるままに、この身が生き続ける限り応対せねばならない苦しみなのだ。
けれどそれは、必ずしも恐ろしいものではない。成すべきことが分かっているから、目をこらして見つめ続ければいいだけなのだ。成せば良いだけなのだ。
なればこそ、今は生き続けなければならない。
裏切り者をこの手にかけるまで、わたくしはまだ死ねないのだ。絶対に、許さないために。
アルテミシアは気を遠くにやっていた己を奮い立たせるように、痙攣する唇を噛みつつ強く叫んだ。
「……っ、この手は神に倣いし、浄化の御業ッ。苦しみよ、裏返れ。歪みよ、組み直れ。絡まる苦難を、解きたまえ……ッ」
手の光が自身を包み込み、ものの数分で体内の異変は全て消え失せた。脈も正常の範囲で動いている。
己の仕組みのことは完全理解しているアルテミシアだからこそ、即座に行えた解呪だったが、所詮はその場しのぎだった。立ち上がろうとして、途端に膝をつく。視界が暗く、焦点が合わない。空気そのものが止まってしまったかのように、上手く息を吸い込めない。
この部屋が駄目だ、と青白い顔で見渡した。異質な空気に満ちたこの室内を何とかしなければ。ここに居続ける限り、また呪いにかかってしまう。
他の者たちは助かるのだろうか。誰も彼も力なく倒れ込んでいる。息苦しそうに首元を抑えてうめき声を上げている者や、嘔吐する者、口から泡を吹いて気絶する者もいる。この大人数を一気に解呪するとなると、非常な負荷がかかるだろう。悪意ある気体が充満する中、果たして自分だけの力で――その自負は微塵も持ち合わせていなかった。
惨劇を迎えた会議室にて、ただ一人だけ、起き上がった者がいた。
黒い背広を身に付けた、細身の青年だった。僻地の伯領を治め、異端の技術を用いて成り上がった若き解呪師。
その異質な能力は、枢機部も一目置く程の実力を秘めている。紙札を細工し、呪文を唱えるだけの得体の知れない妙技。いとも容易く、まるで魔法のように力を振ってみせる。天空都市のそれとは真逆の性質だ。
アルテミシアとて悠々と施すが、そもそも解呪には屈強な精神と、元来の高い素養を必要とする。閉ざされた場で何年も厳しい修行を行い、心身のエネルギーを高めてやっと習得出来る、限られた能力なのだ。
それを必要としないキャンベルの妙技は、天空都市にとっては奇術師同然の芸当なのだ。人の小細工が、神に倣いし力を凌ぐことなどありえない。
ありえないというのに、どうしてこの青年は、誰よりも気高くこの場に立っていられるのだろうか。
ヨークラインは自身の胸を押さえつつ浅い呼吸を繰り返していたが、やがて落ち着いたように常態を取り戻す。
決心したような顔つきで、控えめな声を発した。
「其は永遠浄土に咲き綻ぶ不朽の花――エンコード:『オール・パーパス・フラワー』」
そう唱える青年の手元に、己の技術の象徴である解呪符は、存在しない。
だが部屋全体に、何処からともなく軽やかな風が吹き荒れて舞い上がった。若草の茂る匂いが立ちこめ、清爽たる草原の幻が見えるようだった。
アルテミシアの鼻腔が反応し、その瑞々しい空気を求めるように口が開く。呼吸がとても楽になり、視界の明瞭さも取り戻す。倦怠感すら取り除かれている。隣に寝そべる死に行く筈だった若き解呪師も、目を伏せてはいるがその呼吸は健やかなものだ。
「……キャンベル、お前、それはもはや……」
ゆっくりと立ち上がったアルテミシアは、驚愕を隠せない声音で投げかけた。今この目で見たものは、まるでお伽話に出て来る、善き賢者が施す魔法だ。
ヨークラインは、耐えかねたように膝をついた。汗を滲ませた気難しい表情で告げる。
「緊急事態と判断し、一番適切な処置を行わせていただきました。……これが我がキャンベルの源流にして極点。異端と称され、爪弾きにされても構わないのです。これが秘匿されていくのであれば」
「……従順でありながらも、猊下のお言葉にためらいを見せる筈であるわね」
この青年が秘め隠しているものは、凡庸の身ではあまりにも荷が勝ちすぎる。薄々気付き始めたアルテミシアは、小さく問う。
「一つだけ聞かせなさい。わたくし以外に、天空都市でこの奥義を知っている者は?」
ヨークラインは呼吸を整えつつ、淡々と答える。
「……局長を除けば、ノーム・スノーレット卿ただ一人です」
「そう、やはりね。あの古狸、何処までも白々しく……」
そう口零すアルテミシアは、何処か拗ねたような不満の表情だった。
「おーおー、なんつー悲惨な現場だよこりゃあ」
大股で闖入してきたピックスが、うんざりと大声を上げた。会議室全体を仰ぎ、その中で身を起こすたった二人を見据えて皮肉気に笑みを浮かべる。
「一応ピンシャンしてるのは、アルテミシア候とキャンベルだけってか。定石通りで面白くねえな」
軽口に眉を寄せたアルテミシアは、ピックスを睨み返してまくしたてる。
「駆けつけるのが遅いわよ、遊撃鳥。枢機部直属のくせに、この崇高たる場を離れるとは不届き千万甚だしい!」
「しょうがねえだろ、人員不足なんだからよ。まあ、そこを狙われちまったのは確かに俺らの責ではあるし、神聖なる御許が呪われるとは誰一人考えもしなかった。誰もかも悠長なんだよ、平和の街ってのはな」
ピックスの毒舌をアルテミシアは苦々しそうに飲み込み、息を盛大に吐き出した。
「……認めるわ。我々が悠長で、危機管理を怠る間抜け共だったこと。のうのうとぬるま湯に浸かり、万死に値する怠慢を育ててしまっていたわ」
「そこまで言ってねえけどよ。ま、体制の見直しにはなったわな」
解呪師局長の物々しい台詞に、ピックスは肩をすくめて飄々と返す。そして、近くの床場に倒れるエルダーに向けて、哀れみの眼差しを送った。
「運の悪い奴とは常々思ってたけどよ、つくづく可哀想な巻き込まれ野郎だな……」
アルテミシアは乱れた髪を簡素にまとめ直し、ピックスを仰ぎ見た。
「遊撃鳥を至急集めて頂戴。魔術師という凶悪な輩が、我々を屠ろうとしたの。一刻も早く仕留めねば。兵鳥の屯所には隊長が重体であると報告を。人手が多くいるわ。この者たち全員を、治療室へ運ばなければ」
「あー、悪いがちっとそれは後回しにしてくれねえか。学徒区の食堂でも異変が起きてて、重体者が数多くいるみたいでな。そっちにあたらせる都合をつけてんだ」
もたらされた災厄の深刻さに、さすがのアルテミシアも青ざめて額を覆った。
「被害が別場所でも起こっていると言うの? ……何てことなの」
「……なれば、そちらにも行かねば」
ヨークラインが無理矢理に立ち上がろうして、よろめいたところをピックスが支える。
「おいおい、キャンベル、無茶はやめとけ。大人しく治療室でおねんねしてろよ」
「少し休めば歩けるようにはなる。だが、そうも言っていられない程だろう」
青年の意志を曲げない姿勢に、ピックスはやれやれと息をつく。
「お前の妹たちが向かったから安心しろよ。姉貴の方はアレだけど、プリムローズちゃんがいるだろが。急くこともねえだろ」
「……彼女は本調子ではないのだ」
「マジなのかよ、それ」
ピックスが片眉をひそめると、ヨークラインは少し苛立つような口ぶりになる。
「嘘を言って何になる。本人は何でもないふりをしているがな。そのくせ自制心を失いやすく、不必要に力を使いたがる。大がかりな解呪をしようものなら、彼女の身体は参ってしまう」
「くそ。なら、んなシケたとこ来るんじゃなかったぜ」
ピックスが舌打ちすると、アルテミシアはすかさず厳しい目つきを向けた。
「不敬な発言は慎みなさい、遊撃鳥。恐れ多くも枢機部の御方々を尊重する義務が、お前にはある筈よ」
「へいへい、そりゃ失礼。んで、その枢機卿のお偉いさん方は助かってんのか?」
「命は取り留めている。良く休めば、徐々に癒えていくから問題はない」
簡潔に答えたヨークラインは、壇上にある議席を見やった。そこに鎮座する全員が机に伏しているが、穏やかな息遣いを響かせている。だが一人だけ、重々しい独り言を繰り返し唱えていた。最高法師アークォンによるものだ。
「何故だ……何故なのだ、魔術師……。何故なのだ、話が違うぞ……。魔術師、何故、裏切った……何故……」
「猊下? どうかお気を確かに」
傍らへ寄ったアルテミシアが呼びかけるが、放心しているアークォンは壊れた機械のように、ひたすら『何故、何故』を繰り返している。
三人は不可解に顔を見合わせた。
「……猊下は何を仰っているの。魔術師とは、まるで顔見知りだという口ぶりではないの」
「けど、その手は一方的に切られたっぽいな。……っつーことは、ここの警固が手薄だってのは、猊下の口から漏れてやがったな」
「馬鹿な……! 何故あの狼藉者と猊下が!?」
ピックスは頭を掻きながら、舌打ちしそうな声音で言う。
「最近キナ臭え感じはしてたんだよ。……俺は猊下直属の一兵卒だから多くは申し上げられねえんだがよ、魔術師と猊下が、内々に何度も面会しているのをこの目で見ている」
「……要するに、何度もやり取りし合う程度には、猊下は奴を細やかに重用していた、と?」
アルテミシアは険しい眼差しで投げかければ、ピックスは肩をすくめて応じた。
「察してくれよ。つまりはそういうこった」
「……愚かな。天空都市の面汚しも同然ではないの」
思わず痛烈に詰ってしまい、アルテミシアは首を横に振って感情的な口元を隠した。
「……いいえ、失礼したわ。一体、猊下は魔術師を招いて、何をさせようと……」
「さてな。この議会開催のタイミングもきっと重要だな。この公の場に立つ自分の代わりに、何かをさせるため、とかじゃね?」
「己の代行を? ……まさか、この場の誰かを呪うためだったと?」
「どうだかな。タマ一つ狙うのに、こんな仰々しいお祭り騒ぎ起こすかよ。それこそ密かにじわじわ呪い殺しゃいいだけじゃねえか」
「……ともかく、猊下の意思とは裏腹に、魔術師は別の行動を取った。そしてこの場の我々は、無差別に命を屠られようとした。……どうにも不可解だわ。魔術師は非道だけれど、無益な殺生は好まない筈だもの」
傍で話を聞いていたヨークラインがぽつりと訊ねてきた。
「局長は、魔術師の人となりをご存じで? 彼は一体何者なのですか」
アルテミシアは苦渋の面持ちで、何処か言いあぐねるように口を開く。
「……わたくしも良くは知らぬ。千の歳を重ね、万の術を手に携え、億の星から未来を読み取る者――わたくしはそう伝え聞いた。かつての王家に仕えた、古の魔法使いよ」
「魔法使いなんてレトロでレアな人種、嘘っぱちか神話上の生物かと思ってたぜ」
ピックスが半分ぼやくようにしてみせると、アルテミシアは否と首を緩やかに振る。
「神話であろうと、語り継がれるものがある以上、元来の何らかの名残として存在するわ。その形が純粋なままに、歪み削り取られることなく、古来より生き延びてきた者。魔術師とはそういう者であるらしいわ。人の身であることは、もはや不明瞭ではあるけれど」
ヨークラインは気難しそうな表情のまま、うずくまるアークォンを見つめる。
「……最高法師の御身で、何故そのような面妖な者と関わらねばならなかったのでしょうか」
「何かメリットがあったんだろ。ま、安易に手を切られるようじゃあ、その望みも浅はかが知れてるがな」
密かに口元歪めるピックスは、そうせせら笑った。