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戯れであり、戯れであり、我が確信。

作者: 有馬定春


現実の世界では、アヴェイユが愚痴や悩みを賭博した私に対し、妖艶に微笑み抱きしめてくれることもなければ、シルフィリアが慈愛と憂いを含んだ悲しくもある微笑で受け入れてくれることもない。

彼女たちは現実にはいないのだから、私の想像の産物に過ぎない。


死は肉体からの解放である。精神状態となり、初めて幻想の世界へと旅立てる。

ゲームや漫画、物語などといった、想像という精神が生み出した物と繋がる方法は、それしかないのだ。

故に私は死に憧れる。


しかし現実にも、私を理解してくれているのかは解らないが、長く付き合ってくれている輩がいる。

それが救いであろう。

どんなに現実でゲームを製作し、そこにイマジナリー・コンパニオンを作り出したとしても、精神的に楽にはなるが、現実を変えるほどの力は有さない。


だがそれでも、確かに・・・それが生きる意味に繋がることにはなるのだ。

死は救いであるが、自ら実行せずとも、必ずやってくる終焉である。ならば、その救いを糧に生き続ける事に意味を見出したとしても、それもまた間違いではないのだ。


前置きが長くなって申し訳ないが、何かに依存するという事は、全ての人間に当てはまる。

そんなことはないという者も多いだろうが、実際、科学や会社に依存している者は多い。

人は、人の営みに依存しているのだ。


では、問おう。人に依存できなかった者、依存できるに値する人間が周りにいなかった者は、どうなるのか?


私の答えはこうだ・・・物に依存するしかなくなるのだ。酒、ギャンブル、金、薬、名声や知識など様々にあるが・・・依存症とは人を信じられなくなった者が陥る病である。


故に、私は常にこういっているのだ。人は一人では生きられない。

貴方にとって意味のない、必要のない人間であったとしても、誰かにとっては必要な人かもしれない。

人は必ずどこかで繋がっていると。


それが確実で確かな 敵 でない限り、排除や迫害、または殺戮という名の浄化を行うべきではない。

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