02
「つ、着いた……」
ルチアは雨の中、傘も差さずに全身で雨粒を受け止めながら、丘の上に続く小道をよろよろとおぼつかない足取りで歩いていた。
丘の上にはこじんまりとした小さいながらも趣のある家が一軒立っていて、もくもくと煙突から吐き出される煙が住人の在宅を知らせている。
小高い丘の上からは、少し遠くに雨にけぶる王都の景色が良く見渡せたのだが、ルチアには後ろを振り向く余裕などなかった。
景色どころではない。なにしろ人生の一大事なのだ。
やっとの思いで玄関の扉の前に立つと、自分の姿を見下ろした。廂のおかげでもう雨に当たることはないが、既にずぶ濡れのワンピースはどうにもできない。こんな恰好でひとを訪ねるのは失礼に当たるような気もするが、魔術が使える訳でもあるまいし、今さらどうしようもないのだ。
せめてもとスカートを束ねて水分を絞り出し、表面についた水滴を手で払い落す。首筋に貼りつく髪を後ろにかきやり、できる限りの努力で身なりを整えてから、ルチアはこんこんと扉をノックした。
「……誰だ」
扉の向こうから聞こえてきた訝しむような低音に、ルチアはぴしっと姿勢を正して大きな声を出した。
「あ、あの、セルジュ・フェデレさんのお宅はこちらでよろしいでしょうか? 私、ルチア・グランデと申します。高名な魔術師と名高いあなたにお願いしたいことがありましてお邪魔しました!」
ひといきに宣言してから、今さらのように緊張が襲う。高名な魔術師が、しかも人嫌いと噂の魔術師が、急に押し掛けてきた濡れ鼠の小娘の願いを聞いてくれるものだろうか。
いや、諦めてはいけない。
やっかいなあのひと達を納得させられるのは多分、このひとだけなのだ。
決意も新たにぐっと拳を握り締めると、沈黙を続ける扉をきっと睨みつけた。
「えっと、怪しい者じゃありません! ……じゃなくて、その、一筆書いていただくだけでいいんです。私の今後の人生がかかっているんです。どうか、お願いします!」
そう言いながら、姿が見えている訳でもないのに、扉に向かって深々と頭を下げる。それでもまだ沈黙は続いた。
どうしたものかと頭の中で考えを巡らせるものの、疲労で頭がうまく働かない。雨に濡れて冷えた体も震えてきた。へくしっと小さなくしゃみが出て、思わず両手で口を押さえる。鼻をすするとずびっと間の抜けた音がして、なんだか情けなくなってきた。
寒いし、疲れたし、自分はなんでこんなことしてるんだろう。
雨ではない水分が瞳を揺らして視界が歪んだ時、木の軋むような微かな音がして、玄関の扉が僅かに開いた。
「……入れ」
「お、お邪魔します……」
開いた隙間からおずおずと身を滑りこませると、ばさりと頭の上に大きなタオルが降ってきて視界が真っ白になった。
「うわわ」
「床が濡れるから、それで体を拭け」
「あ……、はい。すみません……」
タオルの向こう側から聞こえる声は随分とそっけない。頭をがしがしと拭きながらタオルの隙間からちらりとのぞくと、台所で何やらごそごそしている長身の後ろ姿が目に入った。
すらりとした長身のてっぺんには、髪が緩くひもで結わえられた金色の頭が乗っかっている。身動きする度にさらりと音がしそうな感じで揺れる長い金髪は、太陽の光を集めて糸にしたみたいに綺麗だった。
ますます濡れ鼠の自分が情けなくなる。
首の中ほどで切りそろえられた茶色の髪も、緑色の瞳も平凡だ。ただでさえ童顔で、年相応に見られたことがない。体形はよく言えばスレンダー……ありていに言えば凹凸が少なく、おまけにチビときている。
更に、普段着のワンピースはありったけの水分を含んで肌に貼りつき貧相な体形を強調し、雨は靴の中にまで侵入してきて歩く度にがぱがぱと不格好な音を立てる。
「体を拭いたらそこに座れ」
背中を向けたまま暖炉の前に置かれた木の椅子を指差され、はっと我に返る。
自己嫌悪に陥っている場合ではなかった。
「はい」
言われるがまま、頭を拭きながら椅子に腰かける。暖炉には赤々と火が燃えていて、冷えた体にじわりと熱が伝わってくる。あまりの気持ちよさに身を乗り出して火の温もりを堪能していると、横にあった小さなテーブルにごとんと湯気の立つカップが置かれた。
「あんまり近づくと焦げるぞ」
「うあっ、あ、す、すみません」
近くで聞こえた美声に驚いて振り返ると、美貌の魔術師がすぐ側に立っていた。
金糸の髪の下には、眇められた煌めく琥珀の瞳。鼻筋の通った顔立ちに、陶器のような白い肌。華奢な体つきにみえるが、まくり上げられたシャツの袖から覗く腕にはほど良く筋肉がついていて、ひ弱な印象はまったくない。とどのつまり、目が痛くなるほどの美形であった。ただ惜しむらくは、そのゴージャスな見た目に質素な服装が違和感を感じさせる。
「……神さまって意地悪ですよね……」
「は?」
心の声が漏れ出ていたようだ。不審げに柳眉を寄せて見下ろす表情もまた美しい。
「なんでもありません」
自身のコンプレックスには必死に蓋をして、遠い目をしながら心の中で呟くルチアだった。
ああ、目がちかちかする。
「それを飲め」
カップを指差してそう言うと、セルジュは自分と思わしき分のカップを持って、壁際に置かれた座り心地のよさそうなソファへどかりと腰かけた。
「はあ、頂きます」
カップを両手で包みこんでその温かさを堪能してから、一口啜る。とろけそうに甘い。
「ココアだ……おいしい」
疲れた体に沁み渡る温もりと糖分に頬がだらしなく緩む。えへへと幸せそうににやけながらちびちびとココアを口に運ぶルチアを、セルジュはしばし無言で眺めていた。
極楽とは案外近くにあったものだなあと胡乱な頭で取り留めのないことを考えていたら、呆れたようなため息の音が聞こえた。
「こんな雨の中、傘も差さずに来たのか」
渋い声音に顔を上げると、麗しの渋面が目に飛び込んでくる。
確かに、改めてそう言われると如何にも不審な話ではある。が、ちゃんと理由はあるのだ。
「あー……はい。その、事情がありまして」
何をどう話したものか迷って、手元のカップに視線を落としてルチアは声をひそめた。
「着の身着のまま逃げ出してきましたので。実は私……追われているんです」
「自首を勧める」
「ひええ、違います! 私は悪いことなんて何も!」
きっぱりと言い放った冷静な低音に慌てて顔を上げると、すがるような視線を向ける。
「あの、そういうことじゃなくてですね……! えっと、えっと、とあるひと達にしつこくされて困っているんです。それで今日は失礼を承知であなたをお訪ねしたんです」
あわあわと説明するルチアを訝しげに見ながら、セルジュは仕方ないとばかりに肩をすくめてみせた。
「……で、何をしろと?」
承諾の一言に、ルチアの表情がぱっと明るくなる。
「あの、あの、私に魔力なんてないってことを保証してほしいんです!」
その言葉に魔術師は眉根を寄せた。
「何だそれは」
「私は魔力なんてものがどんなものか皆目見当もつかないくらいそういった方面には疎いですし、実際自分にはそんな不思議な力があるとは思えません。ですが、そのひと達によると『封じられているのかもしれない』だのといろいろ御託をこねられて軟禁の憂き目にあった挙句、なんだか訳のわからない魔術をかけられそうになったりと正直身の危険を感じまして、やむを得ず窓からの脱出を図った訳なんです。部屋は二階にありましたが、私が木登りを得意としているというのは盲点だったようで、比較的すんなりと脱出はできました」
ルチアがやれやれと困ったようにため息まじりに話す内容を聞きながら、セルジュは思わず額に手を当てた。面倒な手合いを引き入れてしまったことを今更ながら後悔する。
「それでですね、このまま逃げても良かったんですが、彼らは怖ろしいほど執念深いので、いずれ捕まってしまうと思うんです。相手は魔術師ですから、それはもう凡人の私なんかには思いもよらないような手段だって平気で使ってきます。であれば、彼らを納得させうるひとに証明してもらうのが一番手っ取り早いかと思いまして」
「……俺に白羽の矢が立ったって訳?」
「はい!」
いまだ乾かない茶色の髪を揺らしながらルチアが元気に返事をする。
「様々な魔術に精通していると噂の高名な魔術学者であるあなたなら、きっと説得力は十分です。あのひと達もきっと認めざるを得ないでしょう。私は晴れて自由の身となるのです!」
ぐっと拳を握りしめて鼻息も荒くそう宣言したルチアを、琥珀の瞳がしげしげと見つめる。沈黙が降りてきて、なんだか少しだけ不安になった。
「……? あの、駄目……ですか……?」
ルチアはしゅんと肩を落として俯く。ここが最後の望みだったのだ。駄目だとなると地の果てまでも逃げ続けるしかないが、それもいつまでできることやら。最終的には捕獲か野垂れ死にの絶望的な二択になりそうな予感しかない。
「……いや。一筆書くだけでいいんだな」
「いいんですか……!」
思いがけず得られた了承にぴょこんと頭を上げると、魔術師は明後日の方向を向いて面倒そうな顔をしながらも浅く頷いた。
「まあ……それくらいなら」
そう言いながら立ち上がり、机に向かうと適当な紙に羽根ペンでさらさらと何事か書きつけていく。
助かった……!
ルチアはほっと胸をなでおろす。次いで大事なことを思い出した。
「あ、申し訳ありませんが二部書いていただけませんか。かたっぽは転送便で直接送りますが、念のため控えを自分も持っておきたいので」
ちゃっかりした要求にセルジュが若干むっとした様子を見せたが、背を向けられているルチアにはわからなかった。
転送便とは各地を結ぶ魔術で構成された輸送サービスのことで、最寄りの支局のある所まで魔術による転送を行い、そこから先は局員が人力で各宅へ配達をする。魔術師であれば魔術で直接送りつけたり使役する動物を使ったりなど、転送便を使用する必要はないと聞くが、ルチアのような一般人は転送便か自分の足を使うしかないのだ。
「名前をもう一度」
「ルチア・グランデです!」
これでもう免罪符を手に入れたようなものだ。仮に追い掛けてこられたとしても、印籠よろしく控えを掲げて証人がいることを主張すればぐうの音も出ないだろう。
それでも一つ所に留まるのは危険だ。証書を受け取ったらすぐに送りつけて、その間にどこか他の街へ行方をくらまそう。追手が来ないことが確認できたら悠々と王都に戻ればいい。
ほくそ笑みながら残りのココアを楽しんでいると、背中越しに硬い声がかけられる。
「お前、身内に魔術の使える者がいなかったか」
「へ?」
意味深な言葉に急に不安が襲う。そんなことは万にひとつもないとは思っているが、もしかしてもしかすると、あのおかしなひと達の言っていることが本当だということがあるのだろうか?
「いえ、その、両親はただのパン屋でしたし、親戚もいませんでしたから心当たりは皆目ありませんけれど。……あの、私に魔力なんてないですよね……?」
おそるおそる問いかけると、振り返った琥珀の視線に捉えられる。吟味するようにじっと見つめられて、嫌な空気に心臓が早いリズムを刻む。
生殺しってこういうことだ……!
変な汗が背中を伝って何か言おうと口を開きかけた途端、ふいと視線を逸らされてまた黙り込んだ。
「魔力を持つ者は、大体において身の内より漏れ出る魔力があるものなんだが。お前に関しては……漏れ出している魔力は感じられない。何者かの魔術の痕跡もないようだから、誰かに封じられているということもないだろう」
「で……ですよね! よよよよかった」
うはあと安堵のため息を吐き出す。
そうだ、あるはずがない。自分は平凡なパン屋の娘なのだから。
胸に手を当てて動悸を繰り返す心臓をなだめていると、綺麗に折り畳まれた二枚の紙が目の前に差し出された。
「これでいいのか」
「ありがとうございます! では失礼をして中身を確認させていただきます」
ぱらりと開いて内容に目を通す。
『セルジュ・フェデレはルチア・グランデの身の内よりいずる魔力のないことをここに証明す』
簡潔な一文が流麗な文字で記され、最後には署名も入っている。完璧だ。もう一枚にも一語一句同じ文章が記されている。
満足気にひとつ頷くと、ルチアはまた元のように綺麗に畳みなおした。
「確かに頂きました。ありがとうございます」
首にかけていたタオルを畳んで立ち上がると、腰を折って深々とお辞儀をした。
本来ならば洗濯してお返ししたい所だが、今の状況ではそれもままならない。ほとぼりが冷めたら改めてお礼に来ようと心の中で決意してタオルを椅子の座面にそっと置くと、証書を上着の内ポケットに大切そうにしまった。少しましになったとはいえそもそも湿っている上着の中では綺麗な状態は保てないかもしれないが、雨が直接当たるよりははるかにましだろう。読めることさえできればそれでいい。
「このご恩は忘れません。かなうかどうかわかりませんが、無事逃げ切ることができればいつか必ず恩返しに参りますので」
「遠慮する」
ルチアがどこぞの鶴のように謙虚な気持ちで礼を述べると、セルジュは眉根を寄せてさも迷惑そうな表情を作った。正直なひとだ。
これ以上迷惑をかけるのは、ルチアとしても本意ではない。ではお言葉に甘えてさっさととんずらするとしよう。
離れがたい暖炉のぬくもりに未練たらしく振り返りながらも別れを告げると、玄関先で再度ぺこりと頭を下げる。
「では、私はこれで」
「おい、またそのまま濡れて行くつもりか」
「え? ええまあ、傘も合羽も持っていませんし、これからの逃亡生活を考えるとお金もあまり無駄遣いできませんから」
それを無駄遣いというのか必要経費と考えるのかは時と場合によるが、この場合はどう考えても必要経費だろう。なにせ異常気象のせいで、ここひと月は雨の降らない日がない。
「そこから持って行け」
玄関脇の傘立てを視線で示される。しかしルチアは慌てて首を振った。
「あ、いえ、お構いなく。返しに来れるかどうかわかりませんし」
遠慮してそう答えると、眉間にしわが寄ってちっと舌打ちが返ってきた。美人の凶悪な表情というのは凄味が増すものだなあなんて感心していたら、セルジュが小さく何事かを呟いた。こてんと小首を傾げると、ルチアの全身が一瞬淡く光を発した。
「……えっ?」
何をしたんですか今。
高い所にある琥珀の瞳をおそるおそる見上げる。
「雨をはじく魔術だ。ただし効果は一定時間で切れる」
視線を逸らして明後日の方を見ながら面倒そうに答えた魔術師の言葉にルチアは驚いた。
全身を見下ろしてみるが先程の光は既に消えていて、別段いつもと変わった様子は見受けられない。
ああそうか、試してみればいいんだ。
そう考え、えいやっと廂の下から雨の中に飛び出してみる。
ぽつぽつと雨の当たる感覚はあるが、肌も服も濡れていない。肌に当たる一歩手前で何かが雨をはじいているみたいだった。髪に触ってみても、家の中にいた時と変わっていない。こんなに雨が降っていたらすぐにべたべたになって肌に貼りついて気持ち悪くなるのに。
「わあ、すごい!」
これなら懐に入れた証書への被害も最小限に抑えられるだろう。なんだか嬉しくなって雨の中をくるくると回る。回る視界の中で、玄関先の柱にもたれかかった魔術師の呆れたような表情が少し優しく見えた。
「案外優しいんですね」
仏頂面しかこちらに向けない人嫌いと噂の魔術師は、こんな優しさも持っていた。それが嬉しくてはしゃぎながらそう言うと、彼は不機嫌そうにふんと鼻を鳴らした。
「案外ってなんだ」
「えへへ」
はずみでばちゃっと水たまりに足を突っ込んで水をはね上げる。降りかかった泥水は白かったスカートを茶色に染めた。
「雨をはじく魔術だと言っただろう。地に落ちた水はもう雨ではない」
動きを止めてスカートを見つめるルチアの耳に魔術師の冷たい声が届く。
「…………………」
「なんだ」
ルチアの恨めしげな視線を受けてセルジュが肩をすくめた。
「……いえ、なんでもありません」
早く言って欲しかった……とはいえ、おおむね自業自得である。ルチアはスカートだけで済んだことをよしとしようと気持ちを切り替えた。切り替えの早さには自信がある。
「転送便、出しに行くなら早くしないと効果が切れるぞ」
「あ、そうでした! では私はこれで! 本当にありがとうございました!」
ぴょこんと頭を下げると小走りに丘を下っていく。時々振り返るとその度に玄関先に立ってこちらを見ているセルジュの姿が目に入って、また嬉しくなって大きく手を振った。
空はどんよりと重そうな曇がかかっていて雨も降っているけれど、ルチアの心は浮きたっていた。鼻歌まじりに足を急がせる。来る途中に通り過ぎた丘のふもとの村に確か転送便の支局があったはず。そこで証書を送る手はずを済ませたら、どこかで少しだけ休もう。のんびりはしていられないが、疲労がもうピークなのだ。
あともう少し。
自分を励ましながら、ルチアは丘を下って行った。