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邯鄲の夢

作者: 塩原 健一

邯鄲の夢



1)命のアンテナ

宮城県南三陸町の遠藤健治副町長(60)は拳を握り締めて悔しさを露にした。

「われわれ年寄りは生き残り、若い職員が流されてしまった・・・・・・。」

住民を避難させようと最後まで庁舎に残り必死の思いで津波からの避難を訴え続けた30名の職員の内20名の行方が2012年3月16日現在未だに分からない。そして町民8000人以上が行方不明である。

第1波の津波が押し寄せ、防災庁舎ビルは見る見る1階から2階、3階へと水位が上がって行った。遠藤副町長ら職員30人が、押し寄せる津波から身を守ろうと最後に行き着いたところは、3階建て防災庁舎の屋上である。

中には屋上まで到達する前に津波が押し寄せ、2階、3階に取り残された職員も何人かいた。

「まっ!まさかこんな所にまで津波が・・・・・」

「だめだ、ここではまだ水の中に埋まってしまう、もっと上の階へ逃げろ~~~~~。」

運よく屋上までたどり着けた職員は必死でそこにあったフェンスやアンテナにしがみついた。

後から来た職員はしがみつく前に5人、10人と牙を向く津波に流されていった。

「離すんじゃない!」

防災担当係長の桜井が怒鳴った。津波の猛烈な流れに押され、体は腰を支えにエビゾリになった。体を起こそうにも水圧に勝てない。水位がどんどん上がり顔が激流にさらされ、沈み、水を飲んだ。

「だって、誰かが助けなきゃみんなが・・・・・。」と言いながら振り向き桜井の顔を見ると、潮でビッショリになった桜井の目が真っ赤だった。それは海水で刺激された目ではなく、明らかに大粒の泪を潮で流されながら大泣きをしている目であった。

死を覚悟したとき、突然胸ぐらをつかまれた。

「藤間!今は自分の生きることだけを考えろ。自分の家族の事だけを考えろ。」

泣き払った桜井の口からもう一度

「離すんじゃない!津波てんでんこだ!」と一喝された。

諦めそうになると桜井がまた、胸ぐらをつかんで引き起こす。

その繰り返し。生死の境を何度も行き来し、気がつくと桜井と藤間は防災無線塔の中間にいた。足元にはまだ津波の舌が膝まで絡みついていた。

藤間は屋上から流され自分から遠のいていく同僚をただ泣きながら叫びながら、眺めるしかなかった。


「頑張れ、何かにつかまれ。」

その声も虚しく自分のもとから遠ざかっていく同僚を、何度も塩水を飲みながらそう叫ぶことしか出来なかった。

津波が少しづつ引き始めた。屋上には20名くらい避難していたはずだが、気がついてみると第1波の後多くの仲間が居ないことに気がついた。8名ほどの人数になっていた。

遠藤福町長もその中に居た。

「われわれ年寄りは生き残り、若い職員が流されてしまった・・・・・・。」

声にならない小さな声で繰り返し語った後、大粒の泪で

「ワシが、何故ワシが残されて若い職員が流されたんだ。ワシの変わりに一人でも多く助かってくれれば。」とフェンスに濡れた体をもたれかけながらつぶやいていた。

依然行方が分からない職員の多くは災害から町民を守るべき配置された防災担当者だった。

残ったのは全ての壁を失い骨組みがあらわにさらされた防災庁舎だけで、周囲の住宅も防災庁舎裏の病院もなかった。

水はやがて渦潮のように巻きながら志津川や海の方へ引き始めた。そこには多くのガレキと一緒にぐるぐると回る何人かの遺体が見えた。ガレキに引っかかり、その場でユラユラと流布のようにゆれている遺体。

ぐるぐる回りながら引き潮と共に遠ざかって行く遺体。中には衣服が剥ぎ取られ裸同然の姿で何の抵抗もなく引いていく水の道を流れていく遺体。

これを地獄と呼ばずなんと呼ぶだろう。気が付くと桜井と藤間は何を考えるでなく呆然と薄暗くなる大地を襲った津波のゆくえを見ていた。


2)人生でたった1度の反抗

その日は町議会の最終日だった。役場には佐藤町長始め職員約40名と議員らが居た。

「未希ちゃん お・め・で・と・う。 聞いたわよ。やっと彼が決心してくれて結婚決まったんだって。私なんかまだ誰も声かけてくれないのよ。三木ちゃんの彼の友達紹介してよ。」

宏子は未希より2つ上の1984年生まれの26歳であった。南三陸町役場に就職して防災庁舎に配属が決まったのが今から2年前。未希とは2年先輩のよき同僚であった。

遠藤未希は1986年、南三陸町の公立志津川病院で産声を上げた。待望の第1子に父清喜さん(56)と母美恵子さん(53)は「未来に希望を持って生きて欲しい」との願いを込め「未希」と命名した。志津川高を卒業後、仙台市内の介護専門学校に入学。介護の仕事を志したが、地元での就職を望む両親の思いをくみ、町役場に就職した。

2009年7月17日、専門学校で知り合った男性(24)は介護の事を話し出すと夢中になり、今後の団塊世代の介護はどうあるべきかと話し出すと止まらない青年であった。

未希とは時々岩手県釜石市のリアス式海岸等に出かけたり、青森県蕪島までウミネコの繁殖を見に行った。蕪島のウミネコは人が近づいても逃げはぜず、背中をなぜようとするとお尻をピコッとあげ抱きかかえている卵を見せてくれた。

そんな二人にも友情以上のものがうまれ、結婚をしようと遠藤宅を訪れたが、2人姉妹の長女が嫁ぐことを両親は反対であった。

「どうしてもこの人と結婚したい、お願い。お父さんお母さんだって本当に好きだから結婚したんでしょう。だったら私の気持ちも分かって。お願い。」

と何度も懇願したが、東北の田舎町出身の両親はなかなか首を縦にふらなかった。

結局男性が婿養子になると申し出て、ようやく両親も折れた。

2011年9月10日には宮城県松原町のホテルで結婚式を挙げる予定で、未来の大きな夢を話し合い本当の幸せをかみしめていた。

母美恵子さんは「素直で我慢強い未希が人生で唯一、反抗したのが結婚の時。それだけ、よい相手と巡り会えたのは幸せだったと思う。」と語る。


3)天使の声

2011年(平成23年) 3月11日(金)14時46分18.1秒、東北地方に強い地震が襲う。

遠藤未希は調度そのとき庁舎1階の防災庁舎玄関前にある花壇に小さく芽を出した花の芽の周りの草をとり、庁舎内に入ろうとしていた。

突然の揺れに足元を奪われたが、2階の防災危機管理課の放送室に駆け込んだ。そこで地震発生と津波警報を確認し、何度も何度も防災マイクに向かって。

「大津波警報が発令されました。高台に避難してください。」

「6メートルの津波が予想されます。」「異常な潮の引き方です。」「逃げてください。」

防災無線が30分も続いたころ、津波は本庁に迫りつつあった。

「もう駄目だ、避難しよう。」上司の指示で未希さんたちは一斉に席を離れた。

同僚は屋上に避難する未希さんの姿を見ている。しかし津波が去った後、屋上にはいた10人の中に未希さんの姿はなかった。

山内猛行さん(73)は防災無線を聞き、急いで高台に逃げた。「ただ事ではないと思った。一人でも多くの命を助けたいという一心で、呼びかけてくれたんだろう。」と感謝する。

娘との再会を果たせずにいる父清喜さんは、無念さを押し殺しながら、つぶやいた。

「本当にご苦労様、ありがとう。」

自分が災害から避難する前に最後まで防災のマイクを握り締め叫び続けた遠藤未希さん。

地震と、押し寄せる津波に恐怖を感じながら右往左往した町民は言う。

「今思えばあの時の防災のスピーカーから聞こえた声は、まるで天使の声のようだった。」

震災後の対応に忙殺され、市町村職員の死者・行方不明者はいまだに実態が把握されていない。

4月23日、最後まで防災無線で町民に避難を呼びかけ、行方不明になっていた遠藤未希さん(24)とみられる遺体が志津川湾に浮かぶ荒島の北東約700メートルの地点捜索隊により発見された。



4)岩手県大槌町

大槌町は人口15,276人(H22国勢調査)

南三陸町とほぼ同時刻、大槌町にも大きな揺れが襲った。

大槌町の海側にある東京大学大気海洋研究所に勤務する 川辺幸一さん(41)は振り返る

「激しい揺れはあったが、津波はすぐには来なかった。」

激しい揺れに高台に避難できた者は堤防を越えてくる大きな波にヒア汗をぬぐった。

4メートルある防波堤の水位が見る見る上がり、やがて防波堤を乗り越えると同時に津波と姿を変えた。

やがて10メートル以上になった津波が町の方に向かい近くの3階建てのビルの2階以上が飲み込まれ、3階にまで達しようとしていた。

大槌町役場では 加藤宏暉ひろあき町長(69歳津波により没)はじめ町職員は津波の到達が遅かったため、庁舎玄関前に職員を集め、町長以下の幹部60人が対策本部の検討に入った。直後に津波が庁舎を直撃。

職員はより上の階へ避難をよぎなくされた。

2階、3階までしかたどり着けなかった職員は、天井まで15センチほどあった空気を必死で求めた。

運よく窓際のカーテンレールに掴まれた者は片手でレールを掴み、もう片方の手で水をかき、顔を天井すれすれまで上げ空気を求めた。

しかし、何もつかまる物が見つからない者は両手で必死に水をかき空気を探した。

天井には幾筋もの爪あとが残されやがて闇の水中に消えていった。

町の中心部にあった庁舎は水圧で壁は剥ぎ取られ、周囲の住宅は木の葉の様に海えと向かい渦を巻きながら流れていった。

ただ庁舎から道を挟んでカネマンと書かれた3階建ての商店ビルが見るも無残な形で残っていた。

やがて漁船の燃料に火がつき高台の中腹まで炎が襲った。中腹には多くの墓があり、殆どがなぎ倒され、それを覆うように生えていた松林を赤く染めた。

500メートル下流にあった消防署も津波に埋まり、中にあった消防車は津波で流され山にたたきつけられた。

そこには消防車のほか数十台の車やガレキ、そして逃げ切れなかった遺体が墓石やガレキなどに引っかかり、まるで風で飛んできたボロ切れのようにへばりついていた。




大槌町の基本的データ

•人口15,276人(H22国勢調査)

•浸水範囲内人口11,915人

•死者803人

•行方不明者474人

•家屋全壊+半壊3,717棟

•役場付近の浸水高=7.5m(住宅の窓枠の部分破損)

•大槌町新港町における浸水高=12.9m


5)釜石市内

川崎公子(56)は震災の前日釜石駅の近くで友人と食事をしていた。夕方遅くなったので「チョット飲もうか、車は駅前駐車場に置いて後で取りに来るから。」と居酒屋でビール1本を2人で飲みタクシーで帰宅した。

翌日盛岡の自宅で強い地震を感じた公子は、実家の母ヨコ(86)や兄安弘(58)にすぐさま電話したが、何度電話してもつながらなかった。

2日後夫に送られ兄と母に再会したが、幸い実家と兄の家は釜石市の高台にあり難を逃れていた。

「お兄ちゃん、私2日前駅前駐車場に車を止めてきたから、一緒に行ってくれる?」

と安弘に頼んだ。

しかし、安弘は「行ってはいけない! 車はもう駄目だろう。それよりも・・・・・・」といった後言葉にならなかった。

安弘は昨日釜石駅前まで何がどうなっているのか見に行ってきたのである。

新日鉄釜石が去ってから釜石の町はさびれて中央通りも以前に比べ人通りがなくシャッター通りが続く。その町にも以前の賑わいはないが2階建ての商店街が続いていた。

しかしその日を境に交差点に面した角々の家は破壊され殆どがなくなっていた。そして裏通りに面した家は窓ガラスは割れ、壁に水を含み今にも壊れそうな家々が続いていた。

町のいたるところに濡れたガレキが渦を巻き、その中から人間の手や足、胴体がのぞいていた。中には以前可愛がられていたであろう犬や猫の死骸も。

「処理が終わるまで絶対に行ってはいけない!」安弘は公子の肩を抱き強く言ったが、昨日見てきた惨状は最後まで口に出せなかった。

電話は依然通じなかった。

全国の仲間が心配しているだろうと安弘は花巻方面に車を走らせた。遠野を少し過ぎた辺りで携帯の電波が1本立った。見ると多くの不在着信と、メールが着信の底が分からないほどに来ていた。

着信順に一件一件電話した。数件目、長野県の友人に電話をかけなおした時、いきなり電話口で「バカヤロー!」と怒鳴りつけられた。続いて「生きていたのか、どんなに心配していたと思ってるんだ。」と続く、彼の声は泣き声だった。数分間話した後会話は終わった。

数日後、安弘宛に電気を使わないストーブが1台届いた。


<参考資料> 2011年3月16日 河北新報


邯鄲(かんたん)の夢」

邯鄲の枕より

趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。

中国においては粟の事を「黄粱」といい、廬生が粟粥を煮ている間の物語であることから『黄粱の一炊』としても知られる。いわゆる、日本の落語や小説・漫画でいうところの夢オチの代表的な古典作品としても知られる。

同義の日本の言葉としては「邯鄲夢の枕」、「邯鄲の夢」、「一炊の夢」、「黄粱の夢」など枚挙に暇がないが、一つの物語から多くの言い回しが派生、発生したことからは、日本の文化や価値観に長い間影響を与えたことが窺い知れる。現在ではほとんどの言葉が使われる事がなくなっているが、「邯鄲の夢」は人の栄枯盛衰は所詮夢に過ぎないと、その儚さを表す言葉として知られている。



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