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第一話 ジュリーの住人

 吉川二郎(ヨシカワ ジロウ)、18歳。


 別に、環境のせいにするつもりなんてないのだ。俺と同じような環境で育った奴が、皆受験に失敗するとは限らない。俺が馬鹿だっただけである。


『兄ちゃん、おれの宿題やっといてぇ』


 家を出る前、俺が最後に聞いた家族の言葉……五男の言葉がこれだ。「行っちゃうの?」「寂しいよぉ」「身体に気を付けてね」なんて言葉、誰一人かけてなどくれなかった。


「宿題やっといてぇ」


 これが現実だ。地獄に堕ちればいいと思う。


 俺の家は大家族って奴で、テレビに取り上げられていいレベルだ。

 ばあちゃん、じいちゃん、父さん、母さん、姉が二人、妹二人、兄が一人、弟四人、それから犬のコロと住み着いた野良猫の金子さん、あとはハムスターのハムと、亀の亀吉。そして俺だ。最近四男がカタツムリとザリガニを買い始めたらしいが心底どうでもいい。


 で、外科医を目指す俺は受験に失敗した。勉強なんてする暇なかった。分かってる。こんなの言い訳だ。環境のせいにするつもりなんてないと言ったばかりだ。

 だけど言わせてほしい。


 本当にうるさかったんだ。本当なんだ。嘘じゃない。


 うちは所謂貧乏な家庭で、父からは「高校出てもいいからバイトはしてくれ。ごめんなさい」と言われた。ここは普通「高校だけは出てくれ」と言うところだろう。

 受験シーズンになってもバイトは続いた。ドーナツ屋のバイトだ。友人からは「こんな時期にバイト?親は反対しないのか!」と言われたわけだが、違うんだ。親が「頼む、続けてくれ」と言っていたんだ。

 文句を言えば「大家族だから仕方がない」と。お前らがこんなに作ったんだろうが馬鹿野郎。

 帰宅すれば喧しい兄弟共。夜中にこっそり勉強しようとしたら「電気代……」と根暗な母が背後で呟く。

 学校で「家で勉強する時間がない」と漏らせば側に居た嫌みな出来すぎ君から「僕も家で勉強しないが、平均95点だがね」と言われる始末。


 どうだ、俺の生活。軽く鬱になるレベルだろう。


 因みにこれは言い訳ではない。真実を言っただけだ。何度でも言うが言い訳なんかではないぞ決して。


 だが、そんな生活ともおさらばだ。俺は今日から自由になる。


 最寄り駅までチャリで20分。予備校まで30分。家賃3万円。築45年の木造アパート。因みにトイレは共同。風呂と洗濯機無し。広さは6畳一間。


 アパート名、コーポ・ジュリー。


 どうやら大家のじいさんが沢田研二のファンらしい。

 俺はここの204号室だ。最上階だぞ。リッチだろう。 このボロ屋敷に着いた俺は、早速大屋さんにバスタオルを買って挨拶へ行った。インターホンがないのでノックだ。


「すみません。今日から204号室に入居する吉川ですが」


 ……出ない。留守だろうか。


「すみませーん! 今日から204号室に入居する吉川で」

「うるっせぇボケナス!」

「ぎゃあ!」


 突然勢いよく扉が開いたと思ったら、物凄く怖い顔したオッサンが出てきて怒鳴ってきた。俺はビビりながら取り敢えずタオルを差し出す。


「あの、今日から」

「ジジィは居ねぇぞ」

「そ、そうですか。では出直して」

「だからジジィは居ねぇっつってんだろが! 殺されてぇのかクソガキが!」

「分かってます! すみません! 本当にごめんなさい!」


 あまりの恐怖に俺は慌てて二階へと逃げた。なんなんだあの怖い人。ヤクザか。どっかで見たことあるような気がしたが、気のせいだろう。ヤクザの知り合いなんていませんもん。


 あんまりな出来事に、階段付近で項垂れていれば、前方に人の気配。


 おお、神よ。今なら貴方を信じます。


 目の前にはロングヘアーの美女一人。まさか、こんなところに女が住んでいるとは思わなかった。なんで此処に住もうと思った?


 ぶっちゃけ綺麗な女にあまり免疫がない俺は、緊張のあまり上擦った声が出してしう。


「きょ、今日から204号室に入居することになりました、吉川と申します! あ、そ、そうだ」


 引っ越しの挨拶にと買っていた洗剤を鞄から出そうとした時だった。コツコツとヒールの音が近付いたと思ったら、股間を鷲掴みされた。自然と「ひっ」という声が出たのは初めての事だ。


「な、なにを、あの……っ」

「……」

「な、なにを」

「最小」


 ……あれ?


「え」

「ここに住んでる奴らの中で最小だっつってんの」


 そう言うと美女はクスッと笑い、去って行った。


 ……美女の声は、おっさんの声だった。


 俺は取り敢えず部屋に入って落ち着こうと決めた。が、部屋の前に立って気付く。


 鍵がねぇ。


 いや、鍵はあるのだ。恐らく、あの怖いオッサンが居る部屋に。

 再び怖いオッサンの顔を拝みに行くか、怖いオッサンが帰って沢田研二好きのじいさんが現れるのを待つか。

 俺は悩んだ。見た目通りの小心者である。またさっきのように怒鳴られるのだろうかと考えると(怒鳴られるような事してないけど)行きたくない。ヤダ、怖い。


 そして俺が出した答えはこれだ。


「よし、待ってよう」


 怖いオッサンなんて大嫌いだ。


 俺はスーツケースをドアの前に置き、その隣に腰掛けた。そして、一息吐く。


 が、階段を上がって来た怖いオッサンに、俺は思わず後ずさってしまった。


 なんで来るの?なんでそんな怖い顔してこっち来るの?え、今なんで舌打ちしたの?


 ビクビクしていれば、怖い顔のオッサンが俺に向かって鍵を投げてきた。


「え」

「入居者なら入居者って言えこのボケナス!」

「ええ!? 言いましたよね!? 絶対言いましたよね!?」

「あああ!?」

「ハイすみません俺が悪かったですごめんなさい!」


 あーもうなんなんだあの怖いオッサン嫌い!


 大きな音を立てて乱暴に階段を降りて行く怖いオッサンに心臓バクバクさせながら、俺は受け取ったばかりの鍵でドアを開けた。

 キィ……という独特の音が響き、俺は控え目に部屋を覗き見る。

 畳しかない。押し入れもない。窓はあるけど、ヒビでも入ってるのか、ガムテープが貼ってあった。敷金取られなかったから文句は言えないけど。


「お邪魔しまーす……」


 今日から俺の部屋だが、そうとは思えなくて若干遠慮してしまう。他人の部屋に無断で入っている気分だ。


 だけど、ワクワクする。初めての自分だけの部屋。初めての一人暮らし。なんだか少しだけ、大人になった気分だ。このボロい部屋ですら、素敵な部屋に見えてくる。

 俺は靴を脱いで室内に入り、なんとなく畳に横たわる。そしてこの、ちょっと恥ずかしいような嬉しいような、なんとも言えない不思議な気分に少しだけにやけた。


「ああ、そうだ……挨拶」


 俺は身体を起こし、スーツケースを開ける。そして、引っ越しの挨拶にと買った洗剤を取り出した。

 今日は日曜日。今は昼だけど、外出してない人もいるだろう。

 そう思い、俺は部屋を出た。


 まずは向かい。……留守。

 次は真隣。


「ごめんください。今日から隣に引っ越しました、吉川と申します」


 真隣は在宅中だったらしい。だけど、ちょっとテンションが下がった。


「ちわーっす!」


 如何にもチャラそうなチャラ男だ。

 このアパートの壁はかなり薄い。なんとなく分かる。この人、多分うるさくする部類の人だ。


「初めまして。204号室の吉川と申します。あのこれ、つまらない物ですが」

「中身なにぃ?」

「洗剤です」

「マジつまんねーもんじゃん! ウケる! アッハハハハ!」

「……」

「うそうっそー、どーもね! 吉川……何? 下の名前」

「二郎です」

「ジロちゃん! イェイ! ジロちゃん! オレねぇー、アベッチ!」

「あ、あべっちさん?」

「ギャハハハ! ふつー、さん付けなくね!?」


 ……ヤバイ。想像以上にうざかった。


「阿倍夏樹っての。だからアベッチなの!」

「ああ、阿倍さん」

「おいヤメロよ、阿倍さんとかダセーべ! つーかジロちゃん幾つ?」

「18です」

「マジかよ! オレとタメじゃん! ヤベェ、タメとかヤベェ!」


 何がヤバイのかよくわからない。

 チャラ男は兎に角一人で喋りまくり、俺を解放する気配がこれっぽっちもない。最悪だ。


「でさぁ、昨日俺チャリぱくられたわけー。もーさ、徒歩よ徒歩!」

「はぁ……」

「ウケるべ!?」

「はは……」

「つーかこないだ吉牛行ったらヤベェ客居たんだけどさぁ」

「あの、すみません。他の方にも挨拶したいので」

「つーかタメなのに敬語とかなんでなん!? ジロちゃんマジ他人行列だわ! よく言われるべ!」

「えっと、他人行儀って言いたいんでしょうか」

「そう! それだわ! 他人競技!」


 どんな競技だ。今まで避けてきた部類の人間なだけあり、俺の疲労メーターは吃驚する程勢いよく上がっていく。


「敬語やめろって! タメなのに敬語とかないわ!」

「わ、分かった」

「よし! じゃあね! つーか後で遊び行くわ!」

「えっ? なんて?」

「遊び行くわ!」

「ええっ?」


 バタンとドアが閉まる。遊び行くわ! じゃねぇよ。勘弁してくれ。

 ……聞かなかったことにしよう。 次は斜め前の部屋だ。マトモな人でありますようにと願いを込めて声を掛ければ、頭ボサボサのオッサンが出てきた。かなり垂れ目。髭が汚い。それから、ちょっと臭い。油っぽいというか、加齢臭というか。


「やぁ、こんにちは」

「こんにちは、初めまして」

「えっと……吉川君?俺は志田です。よろしくね」

「よろしくお願いします。これ、つまらない物ですが」

「うわぁ、気を遣わせてごめんなさい。どうも有難う」


 そう言ってぺこぺこ頭を下げる志田さんに、俺は胸を撫で下ろす。

 ちょっと不潔な感じは否めないけど、やっとマトモそうな人に会えた……!

 何か困ったことがあったら言ってねと微笑み、志田さんはゆっくりドアを閉めた。

 怖い顔のオッサン、美女だと思ったらオカマ、他人競技という競技を産み出したチャラ男。ぶっちゃけ、もうなんでも来い状態だった。そんな俺を良い意味で裏切った志田さん。貴方は此処の良心だ。全体的にモッサリしたオッサンだったが、天使に見える。此処が変人オンリーの集いの場じゃなくて本当に良かった。


 各階に(といっても二階建て)部屋は四部屋ずつなので、俺は一階に降りた。

 恐らく向かいに住んでいるのであろうオカマは外出中だから後回し。童貞ボーイの股間を鷲掴みにし、純情を汚し、挙げ句の果てに最小と貶し屈辱を見舞わせた罪は重い。俺が裁判官なら絶対無期懲役にする。「すみません。本日から此処に住むことになりました、吉川と申し」

「ああ、一階の人達は今皆留守だよぉ」


 のんびりした声の方に目を向ければ、ここの大家のじいさん。買い物袋をぶら下げ、にこにこと此方を見ていた。


「大家さん。今日からお世話になります。あのこれ、つまらない物ですが」

「いやぁすみませんねぇ。どうもどうも。鍵は貰ったかい?」

「あ、はい」

「人相悪くてびっくりしただろ。あれは僕の孫でねぇ。ヤクザに見えるかもしれないけど、今はヤクザではないから安心してね」

「……今は?」

「そう、今は」


 俺は反応に困り、取り敢えず微笑んでおいた。

 そこまで驚かなかったのは、あの人の見た目がモロにヤクザだったからだと思う。あれで保育士だとか言われた方が驚く。


「にしても、律儀だねぇ。引っ越しの挨拶なんて、今はする人が少ないから」

「そういうものなんですか?」

「うん。昔は近所付き合いを大切にしてたんだけどね、今は昔程じゃなくなった。悲しいねぇ」

「いつまでもべしゃってんじゃねぇ。唐揚げ弁当と酒買ってきたかジジィ」

「おお。ちゃんと買ってきたよ」

「ならとっとと寄越せ、ボケ」


 元ヤクザが乱暴にドアを開けて言い放った言葉に俺は唖然とする。


「老人をパシりに使うとか……ロクデナシすぎる」

「なんか言ったか小僧」

「い、いいえ」


 思わず口に出してしまい、俺は慌てて自分の口を片手で覆った。

 でも間違ったことは言ってない。こんなか弱そうなじいさんをパシりに使うだなんて、誰がどう見たってロクデナシだろう。

 ヤクザって怖いけど、義理人情は大事にするもんだと思ってた。ドラマと現実はこうも違うらしい。


「あ! さっちゃん、ちわーっす」

「やあ、なっちゃん。お出掛けかい?」


 暇を持て余したチャラ男が降りてきて、俺の肩に手を置く。


「うん。今からジロちゃんとショッピングするの」

「え!?」

「行こうぜジロちゃん! ……あ、ロクデナシも居た」

「あんだとゴルァ」

「うっせ、ロクデナシ! さっちゃんあんま虐めんなよ! 可哀想じゃん!」


 どうやらさっちゃんとは大家のことらしい。

 にしても、やはり他の人からもロクデナシと呼ばれてるんだなこの元ヤクザ。面と向かって言ってしまうチャラ男に俺は心の中で拍手をした。


「んじゃ行くべ、ジロちゃん」

「え、いや、俺は」

「どーせ暇っしょ」

「まぁ……それは」

「じゃ、行くべ。俺この町案内するし」


 断ってもしつこそうだったので、俺は素直に従う事にした。チャラ男ことあべっち君は満足げに頷き外に出た。


「夏樹くーん」


 上から聞こえたのんびり声を見上げれば、窓を開けて煙草を吸う志田さんの姿。


「悪いんだけど、ついでに煙草を頼めるかな?」


 あべっち君が右掌を広げその手を振れば、志田さんは五百円玉を投げた。見事にそれをキャッチしたあべっち君はヘラヘラ笑う。


「ねぇ、お釣もらっていーい?」

「どうぞー。じゃ、よろしくね」

「はいよー」


 あべっち君は受け取った五百円玉をポケットに突っ込み歩き出した。俺はそんなあべっち君の後ろを歩けば、大和撫子か! と、よく分からないツッコミを貰った。


「ジロちゃんどこ出身?」

「あ、群馬」

「じゃあここら辺とか分かんねぇべ」

「うん。あべっち君は東北出身?」

「や、神奈川。なんで?」

「いや、語尾によく“べ”がつくから……」

「なんじゃそりゃ」


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