第9話
糊の付いた慣れないシャツに袖を通し、ネクタイを首元でキュッと形作る。最後は、胸元に金のエンブレムが入った真っ白なブレザーを羽織って襟を正し、完成。
姿見の前で体裁を整えた僕は、筆記用具の入った学生鞄を片手に二〇四の部屋を後にした。
向かうは一階食堂。目的地に到着した時刻は七時半ジャスト。食堂は右側に調理スペース、左側に机と椅子が並ぶ食事スペースになっていた。十人の生徒しかいない割には、その三倍の生徒が入りそうな広さはある。
「ゆーうーすーけー」
全員が席に揃っている中、全員の注目を浴びて僕が最後に着席。目の前の席に座る、僕と同じ白いブレザーを纏った涼葉が何やらただならぬ声を発しているけど、僕はそれに気付かないフリをして、おいしそー、とだけ言って味噌汁やアジの干物だけを視界に収める。
「ゆーすけ!」
それでも涼葉がしつこく僕の名前を呼んでくるので、仕方なく溜息交じりに顔を上げた。
「……何ですか?」
不貞腐れた僕の表情に涼葉は不満らしく、眉を吊り上げている。
「今、目の前にある朝食、誰が用意してくれたと思う?」
僕は涼葉の言っている意味が解らず、眉根を寄せる。彼女はそんな僕に軽く息を吐いて、言葉を続けた。
「これはね、ゆーすけが来る前にみんなで用意したんだよ。ここの食堂、ご飯は用意してくれるけど、お茶碗とかに装うのはわたしたち生徒がしなくちゃいけないみたいで……。時間ギリギリに来るのが悪いとは言わないけど、初日くらい、余裕持って来ようよ」
僕は生徒たちが並ぶ左側に目をやった。全員こちらを向いて、涼葉と僕のやり取りを見ていたらしい。
「……すみませんでした。準備してくれてありがとうございます。今度はもうちょっと早く来るようにします……」
僕は涼葉だけでなく、その場にいる全員に頭を下げた。自分たちで用意しなければいけないと知っていたら、ちょっとは早く来たのに、と自分に言い訳しながら。
「それでね、これからは当番表でも作って、みんなで回していけばいいんじゃないかって話してたんだ。ね? 天音さん」
涼葉は隣にいた大人しそうな女の子に声をかけた。セミロングの滑らかな髪をハーフアップにした〝天音さん〟と呼ばれた彼女は恥ずかしそうに小さく頷く。
「ということなので、明日から当番制にしたいと思います。わたしが当番表を作成するので、後で入口の掲示板に貼っておきます。各自、確認しておいて下さい」
凛とした声。そこにいたのは、学校でよく見る優等生の片瀬涼葉だった。
涼葉の仕切りによって、ただでさえ短いのに更に短くなってしまった(僕のせいらしいけど)朝食の時間が始まった。
お互いまだ面識がないせいか、相手を探る様子で無言で食事に手をつける。だけど、涼葉は例外だ。彼女はいつ仲良くなったのか判らない隣の天音さんに笑顔で話しかけている。その社交的な涼葉と僕が喋っていたお陰で、左隣に座っていた男が僕に遠慮がちに話しかけてきてくれた。
「なあ、二人随分仲良さそうだけど、もしかして元々知り合いなのか?」
彼は涼葉を一瞥して僕に問いかける。あまり声が響かないように低い音を振動させている。
「うん、幼馴染なんだ」
「幼馴染でプロジェクトに選ばれたのか!? 凄い偶然! これはもう運命としか言いようがねぇな!!」
茶髪の柔らかそうな髪。着崩された制服は、チャラ系で頭が悪そうな印象を与える。だけど、どことなく幼い雰囲気を纏い、素は真っ直ぐで純粋そうな少年。これが僕の感じた彼のファーストインプレッション。人間って意外とノンバーバルな部分で大方判断するからね。そして、その人の深部まで正確に判断できないものの、大きく外れていることも少ない。僕は自分の目に自信を持っている方だ。
「ところで……、名前は? 僕は透谷悠介」
「オレは重富航輝。航輝って呼んでくれて構わないぜ! よろしくな!」
ニカッと笑う彼には全く邪気が感じられない。邪気とかいって、別に黒いオーラが見えるわけじゃないけど。恐らく僕は航輝(早速呼び捨てにさせてもらう)の中で、このプロジェクトに参加して初めてできた友達第一号という位置付けだろう。
これがきっかけで僕と航輝は仲良くなる。というか、航輝が僕に懐いてしまったという表現の方が正しいように感じる。仲良くなる人は偶々席が近かったとか、偶々最初に喋ったとか、そういう偶然の産物が往々にしてあるのだ。
朝八時。都築さんの昨晩の指示通り、寮のエントランスホールに全員が集合する。僕たちが食器を下げて全員でホールに到着した時には、既に都築さんも水川先生もそこにいた。
水川先生が笑顔で僕たちに手を振る横で、都築さんが真面目な顔で口を開く。
「諸君、おはよう」
諸君って……、と思いながらも、僕たちは、おはようございます、と挨拶を返す。
「今日から正式に国家プロジェクトが始動する。君たちにはこれから我々、国が厳選した講師の方々の授業を受けてもらう。その授業は明日から始まり、今日はオリエンテーションということで、このプロジェクトの詳細などを話そうと思う。話の続きはそこで。では、これから校舎へ移動する」
都築さんの背中を追って、生徒たちが寮を後にする。さっきとは違う意味で手を振る水川先生は、寮に残るらしい。
昨日は暗くて判らなかったけど、寮の前はコンクリで固められた道が一本伸びているだけで、その両サイドに広がるのはピンクや黄色、群青色といった小さな花々がチラホラと咲く野原だった。今回のプロジェクト開始にあたり、野原に無理やり道を作ったというのがバレバレだ。
数分野原を歩くと、緑の葉が生い茂る樹木が姿を現した。ここも人が通れるほどの空間だけ木を切り倒し、無理やり道を形成したのだろう。
上から毛虫が落ちてきそうだな、と思いながら木々の間を通る。左の方に目をやると、遠くに小川があるのが分かった。日光に反射して白くキラキラと光っていたからだ。耳を澄ますと、水の流れる音が聞こえる。それに、どこからともなく小鳥のさえずりも聞こえてくる。
うーん、まるで別世界に来たような自然。ここって本当に日本? と現実離れした光景に一人首を捻る。
樹木のアーチを抜けたのはすぐだった。葉が遮光してくれていたお陰で、そこから出た時には眩しくて思わず目を細めてしまった。
光に慣れた瞳をゆっくりと開いて首を右へ捻ると、眼前に佇んでいたのは不気味なほど白い校舎。無機質で、なぜだか悪寒が走るような、そこにあること自体が罪であると言わんばかりの存在。どうして純白という神聖な色をそんな風に解釈してしまったのかは分からない。だけど、僕はその校舎を見て、ただならぬ何かを感じ取ったんだと思う。
校舎の横には、プレハブっぽい平屋の建物があった。通りざまに中をちらりと覗くと、どうやら購買らしきもののようだ。
二階建ての校舎の正面に回り、そこから中へ入る。すぐに下駄箱が並んでいて、僕は自分の苗字が書かれた場所を開けた。当然上履きは入っていない。だけど、サイズ豊富な上履きの箱がその場に用意されており、自分の足のサイズに合う上履きを今すぐ選択して履くことになった。それと同時に、体育の授業で使いそうな運動靴も選ぶ。
全員の上履きが決まったところで、都築さんが右側に目を向ける。
「突き当たりが保健室。その手前左が職員室」
今度は左側に方向転換。
「突き当たり左が体育館への渡り廊下。手前左側にトイレ。奥右側に階段がある。教室はその階段を上って二階になる」
都築さんに続いて階段の方へ向かう一同。僕もそれに逆らわずつま先を彼らと同じ方向へ向けるが、視線は職員室の斜め向かいの扉へと向けていた。
一つだけ説明のない部屋。例えば用具室とか清掃室とか、説明する必要がないような部屋なのか、それとも敢えて説明を省く必要のある部屋なのか。
階段を上り切ってすぐ左の部屋が僕たちの教室だった。二階の窓からは、石灰でトラックが描かれた広い砂利の校庭が見渡せる。
都築さんが教室の扉をガラガラと開き、中に入る。ただ入るだけなのに、どこから湧いてくるのか分からない緊張を感じながら、足を踏み入れた。
ダークブラウンの木目の床。整列された十組の新しい木の机と椅子。緑の黒板に白いチョーク。教室の正面中央に構える教壇。
「今から言う通りの席に座ってもらう。天音雫」
都築さんが正面向かって右前から順に、席の前に立ちながら名前を読み上げる。
「次、勇和馬」
誰かを呪い殺そうとしているのか、黒魔術にハマっていそうな根暗男が天音さんの後ろに着席する。
機械的に五十音順に席が決められていることが最初の二人の名前を聞いて判った。僕が名前を呼ばれたのは、八番目。窓側一番前の席だった。これでは居眠りができない。そもそもこれだけの人数で授業中にラノベを読んだりしてサボることもできなさそうだ。
前には都築さん。右には西園寺未来と呼ばれたフランス人形張りのお嬢様。今日はちゃんと制服を身に着けているが、その手にはやはりくまのぬいぐるみ。後ろには、早坂瞬と呼ばれた爽やかサッカー少年。左の窓を覗くと、新緑の木々。二階という高さでは、校舎より木の方がまだ高い。
「それでは全員着席したところで、本プロジェクトの詳細を説明する」
都築さんが教壇の目の前に立ち、両手をそれの両端に突いて声高に話し始めた。