金曜日
金曜日。そういえば今日は英語の小テストだったか。
起きて学校へ行くまである程度時間があるので、ぱらぱらと英語のノートをめくる。
授業はまともに受けているので、軽く復習すれば大丈夫だろう。
しかし彼女はどうなのだろうか。
頭の中で英単語を反芻させながら学校へ向かっていると、駅で英単語帳とにらめっこしている彼女を発見。
「おはようございます。今日は英語のテストですね」
「黙って! 今集中してるんだから!」
僕の横に並んで歩きながら、ずっと英単語帳を見つめ、ぶつぶつと日本語英語をつぶやく彼女。
微笑ましいと思う反面、イライラしてきた。何だこの英語なようで英語じゃない何かは。
「そのままだと犬の糞踏みますよ」
「……わ、こ、こんなところで抱きしめないでよ、そ、そりゃ、嫌じゃないけどさ、人目ってものを気にした方が」
余程集中していたのか僕の忠告も聞かずに犬の糞を踏みそうになった彼女をすんでのところで止めただけなのだが、何故彼女に人目を気にした方がとか言われなければならないのだろうか。
彼女の日本語英語をBGMに学校へ。気が狂いそうだ。
あれほど癒されていた彼女の声なのに。
美人は3日で飽きるというのは、果たして真実だったのか。
教室へ入る。クラス中がカリカリとしている。
僕達を受け持っている英語の教師は学校でもトップクラスの鬼教師。
テストで低い点数を取ろうものなら地獄の補習が待っている。
昨日まで彼女に悪態をついていた女子も、そんな暇はないようだ。
彼女も流石に僕とお喋りする暇はないようで、机で英単語帳とにらめっこしている。
束の間の平穏だ。
一時限目の国語の担任は話のわかる人なので、二時限目に控える英語のテストのために授業を自習にしてくれた。
一応僕もテスト範囲をもう一度ざっと見直していると、彼女が気づけば僕の側に。
「ねえねえ、暇」
「暇って……英語の勉強しましょうよ」
「それはわかってるけどさ、何か自習ってお喋りの時間って感じがして」
彼女の気持ちも確かにわからんでもない。
次が英語のテストでなければ、今頃クラスは喧噪に包まれていることだろう。
しかし他のクラスメイトは真面目に勉強しているのだ、お喋りは厳禁。
ただでさえ彼女の特徴的な声は、耳に残るので集中力を乱すと言われているのに。
普段なら癒しの声でも、時と場所とよってはノイズとなりかねないのだ。
勿論彼女に声が不快だから喋らない方がいいとは言えないので、
「このノート貸してあげますから、これで勉強してください」
「え? ほんと? えへへ、ありがとー。持つべきものは彼氏だね」
授業を真面目に聞いておらずノートもほとんどとっていないであろう彼女のために僕特製のノートを貸し出してやる。
僕のノートは彼女にとっては新鮮だったようで、自分の机に戻って熱心にそれを読み始めた。
折角貸してあげたのだから、是非とも赤点は免れて欲しいものだ。
「赤点だった……」
「そうですか」
まあ、現実は厳しいわけで。
お昼休憩に屋上でお弁当を食べながら二人してため息をつく。
彼女のため息は赤点を取ってしまったことだろう。
僕のため息は折角ノートを貸したのに赤点を取られたこと。
これじゃあまるで僕のノートが役に立たないみたいじゃないか。
「それで、補習はどうなるんですか?」
「今日の放課後に課題どっさり……手伝ってよぉ」
「仕方ありませんね」
一応今は彼氏なのだ、彼氏らしいことをするべきだろう。
……気が付けば、自分が彼女に優しくする理由は好きだから、ではなく、彼氏だから、に代わってしまっていたようだ。
責任を取るような形での優しさに、愛などありはしないのだろう。
まあいいさ、どうせこの関係もあと少し。
「はー、英文見てるだけで眠たくなりそうだよ……音楽聞きながらやろうっと」
放課後の図書室、僕の正面でイヤホンをつけた彼女は大量の課題に取り掛かる。
音楽といえば、試したいことがあったんだ。
「胡桃さん、この音楽聞いてみませんか。英語がすごく得意になる曲なんです」
「え、本当? 聞く聞く!」
持っていた音楽プレイヤーを彼女に手渡しそれを装着させる。
「あ、英語の曲なんだ。ほんとだ、なんだか英語が得意になってきた気がする」
そう言いながら課題を解いていく彼女。先程よりも明らかにスピードが向上していた。
この曲はただの洋楽で、英語がすごく得意になるなんて効果はない。
しかし彼女は自分は今英語がすごく得意なんだと思い込み、実際に効果を発揮しているのだ。
彼女はやればできる子なのだ。
「……? 何でそんなに睨んでるの? 目が怖いよ?」
「! あ、ああ、すいません」
自分では平穏を装っていたつもりだが、あっさり看破されてしまったか。
そうさ、僕は今彼女が憎くて仕方がないんだ。
どれほど望んでも僕にはできない、思い込みの力。
僕にできないことが、彼女にはできるのだ。
僕は今間違いなく、彼女に嫉妬しているのだ。
彼女に嫉妬するクラスの女子と、僕に嫉妬するクラスの男子と、同じ存在に成り果てているのだ。
彼女が見る見るうちに課題を終わらせていくのを、直視できずにうつむきながら歯ぎしりをする。
僕は彼女が好きだったのだろうか。
それとも、思い込みで力を発揮できる彼女に憧れていたのだろうか。
憧れている人間と一緒になって、劣等感を抱き、嫉妬して、憎む。
そうだとしたら、何とふざけた愛憎か。
「終わった! 暁君の勧めてくれた音楽のおかげだよ……あれ、泣いてる? 花粉症?」
「何でも、何でもないんです。課題を提出しに行きましょうか」
終わった課題を提出し、学校を二人で出る。
「うーん、久々に勉強したら疲れちゃったよ。それにしても予定よりかなり早く課題が終わったよ、暁君のおかげだね」
「お疲れ様です」
「あ、そうだ。今から暁君の家に遊びに行っていい?」
「……は?」
突然家に遊びに行っていいかと聞かれて僕は素っ頓狂な声を出す。
「暁君の部屋、どんな部屋か気になってさ、ね、ね、いいでしょ?」
「……構いませんが」
正直自分の部屋というテリトリーを荒らされたくはないが、ここで断るのも、彼女にあらぬ誤解を受けてしまいそうで嫌だ。部屋がエロ本だらけとか、物凄く汚いとか。
駅で彼女と別れずに、そのまま僕の家へ。
「おじゃましまーす」
「ただいま……母さんは買い物か」
「え、ひょっとして二人っきり?」
「まあ、そういうことになりますね。僕の部屋はこっちです」
彼女を僕の部屋へ案内する。ごくごく普通の男子高校生の部屋だ。
部屋に入った彼女はすぐにベッドの下を確認するも、そこには参考書しか入っていない。
「エロ本あると思ってたのになあ」
「いつの認識ですか、大体今時エロ本なんて見ませんよ。今はインターネットで……」
「インターネットで?」
「ああ、それよりジュースとお菓子を用意しますね」
思わずインターネットでエロサイトを見ていると言いそうになり、僕としたことが顔を真っ赤にしてしまう。
逃げるように台所へ行き、ジュースとお菓子を持ってくると、
「うひゃあ……」
なんと彼女が、僕のパソコンのインターネットの履歴を見ていた。
「な、ななな、な……」
「ふーん、暁君ってこういうのが好きなんだ、なんか意外だな」
グラスを落としてしまい、カーペットがジュースで染みてしまう。
しかしそんな事はどうでもよかった。
僕は彼女の側へ行き乱暴に髪を掴むと、
「……帰ってください」
「いたっ……え、あの、ご、ごめん」
滅多に見せない怒りを露にした表情で彼女を睨みつけた。
誰が僕を責められようか、僕のプライベートを荒らそうとする人に冷たくあたるのを、一体誰が責められようか。
親しき仲にも礼儀あり、ましてや付き合い始めて数日のカップルに許される行為ではないのだ。
「そ、その、本当にごめん、今まで男の人の部屋に遊びに行ったことなかったからさ、どうしても気になって」
「別に怒ってませんよ。そろそろ親が帰ってくるんです。女の子と一緒にいると知られたら面倒くさいことになるだけです」
「……また明日ね」
家の前で彼女と別れる。
できるだけ平静を保ち、彼女を責めないように心掛けたつもりだが、流石に無理があったようで、彼女はかなりしょげている。
申し訳ないという気持ちもあるにはあるが、反省してほしいという気持ちもある。
いつか彼女がこんな偽りの愛ではなく、真実の愛を見つけた時に失敗しないためにも。