佐々木奈々子
佐々木奈々子
戦闘力★★★☆☆
観察力★★★★☆
奈々子は、文字通り真っ暗な闇の中を、遥か遠くにある光に向かって走っていた。とにかく、走り続けていた。
あそこは安全、安泰、安息の地への道しるべだと思っていたが、やがて光は消える。
同時にハッと目を覚ます。
そこは、監視カメラの映像がリアルタイムに映し出されている無数の画面、壁にずらりと並んでいる懐中電灯と警棒、部屋の中心に置かれたテーブルの上には、拳銃型スタンガン、間違いなく警備室のようなものだった。
「目を覚ましたか?」
誰かが話しかけてきた。
それは自衛隊の迷彩服を着た男だった。
全身がひどく傷むが、今はそれどころではない。
「あなたは?ここはどこ?」
「俺は石倉だ。見ての通り自衛隊。ここは、そうだな、言うなら娯楽の町であり…空気が悪い場所であり…可能性の秘めた街であり…日本の首都であり…今は限りなく地獄に近い場所である」
それだけで十分だった。今は東京にいるのか。
「まあ、俺にとっては秋葉原に行けなくなったのは残念だ」
秋葉原はともかく、奈々子は自分が東京脱出に失敗したののに酷く絶望した。
「本当にくそったれだ。くそったれな任務、くそったれな東京、くそったれな科学者、くそったれな感染者、くそったれ過ぎるぜ畜生」
石倉の悪態に共感しつつも、自分が東京にいる事実は認めるしかなかった。
「ところで、何でお前さんはこの研究所にいた?」
「連行されたの。あなたは?」
「俺は撤退しようと思ってここに来たんだが、外にいた警備員や自衛隊はいないし、研究所内は清潔な地獄だったし、最悪だ。気絶している君をここまで運ぶのに、武器を使い尽くした。今は拳銃1丁と予備の弾倉が2つ。絶望的だ」
奈々子は、黙って立ち上がろうとした。
「……っ!」
全身の痛みが増した。
「あまり動かないほうがいいぞ。お前は高いところから落下したらしい。全身複雑骨折はま逃れているが、それでも数か所は折れているだろうし、何より筋肉が痛むだろう」
確かにそうだ。肩甲骨も、肋骨も、それに所々の骨に筋肉が痛かった。
「私は、死ななかったのか……」
「奇跡だよ」
あのまま死んでいれば、楽だったかも知れない。天国に行けたかもしれない。
そんな思いを抱いている奈々子に気づいたか否か、石倉は奈々子の正面に立ち、優しく肩に触れると、優しく言った。
「希望はある。今から自衛隊の救助ヘリがここに向かっているらしい。屋上に行けば、俺たちは助かる」
「何で屋上に?」
「この研究所には木々がたくさんあって、ヘリの着地地点にふさわしい場所はないし、研究所の門は閉じてあって、フェンスがあるから大丈夫だが、たくさんの感染者が研究所を囲んでいる。一か八かで屋上を目指すんだ。成功すれば、助かる」
「失敗すれば」
「感染か死か」
奈々子は頷く。試す価値はありそうだ。
「よし、ここの警棒とスタンガンを持って行くぞ。拳銃はあるが、極力避けたほうがいい。銃声で感染者が集まるからな」
奈々子と石倉は、警棒とスタンガンを持ち、地図で屋上へのルートを暗記し、外に出た。
外は大雨が降っていた。雷は鳴っていないが、なりそうな感じもした。
「準備は?」
「大丈夫」
奈々子と石倉は、検問所を離れ、研究所の正面入り口に入った。
最初に目についたのは、床や柱、壁などにある赤い染みだった。赤黒い手形もべたべた刻まれている。一目瞭然、それは血だ。それ以外に異常はない。
異常?これもすでに異常じゃない!
警戒しながら、2人は受付を通り過ぎて、2つのエレベーターに向かおうと思ったが、石倉は止まった。
「駄目だ、ボタンが壊れている」
「悪い予感」
「階段を使うしか方法はない」
奈々子は苦笑する。神様は素晴らしいダンジョンを用意してくださった。OK、やってやろうじゃないの。
2人はエレベーターの隣にある扉をあけ、階段を警戒しながら駆け上がった。
そして、2階のエレベータに乗ろうと、出てみて、ボタンを押してみたが、反応がない。
「くそったれ、通電してないのか」
「歩くしかないのね」
「ああ、そうだ。辛いだろうが、歩くしかない」
「私のことは気にしないでください」
実際、大会で骨折し、それの気付かず試合を続けたことがあった。
2人は警戒しながら、廊下を進み続けた。長い廊下だ。
奈々子は途中、気配を感じた。山籠りで鍛えあげた反射神経が危険を察知した。近くになにかいることは確かだ。
その時だった。
2人の進むべき先に、2人の男女がいた。
男は文字通り血塗れだったが、2人を強張らせたのはその顔だった。男は倒れている女性の喉笛を食っていた。2人に気づいた男はゆっくり立ち上がる。
口にくわえていた食道と思われる管を落とした。口から赤い液体――涎か血――をだらしなく垂らしながら、2人をにらんだ。
その眼には、狂気と殺意に満ちていた。
奈々子は恐怖はしなかったが、吐き気はした。
男は血も凍るような唸り声を上げながら、男は走ってきた。
石倉は警棒で男の下顎を殴った。「ごきっ」という大きな音がし、男の顎はぶらんぶらんと揺れる。石倉は男の後頭部に警棒を突き刺すように突いた。男は倒れこむ。
「急ぐぞ、物音で感染者が来るかもしれない」
2人は先を急ぐように、小走りで進んだが、やがては扉にぶつかった。石倉は開けようと思ったが、扉は思ったより硬かった。
石倉が扉を押している間に、奈々子は隣にある部屋に入ってみた。
そこはどこかの会社のありふれる職場を連想するほど、デスクが並んでいた。
奈々子は、かつてそこに正常な人間が仕事をしていただろうと想像しながら、部屋をゆっくり徘徊した。
すると、部屋の隅に自衛隊の死体が横たわっていた。89式小銃を握っていた。奈々子には扱えないが、石倉ならきっと。
奈々子は拾うと思い、手を伸ばした。
だが、物音がした。
横に気配を感じたと思えば、体が宙に舞い、壁に押し付けられた。両足が空中にぶらんぶらんと浮いていた。息ができなかった。首を絞められていたのだ。
見れば、毛がない肌が真っ白で血管を浮き出している人間が右手で奈々子の首を絞めていた。
奈々子は男の手を引き離そうと両手で男の右手首をつかんだが、凄まじい力がこもり、首に痛みが走った。男の力に敵わず、引き離すことができない。気道を完全に潰されているような気がしてならない。
男は口を開く。口には、犬歯と思われる歯がずらりと並んでいた。
そうだ、スタンガンを!
奈々子はそれを思い出し、スカートの前にさした拳銃型のスタンガンに右手を伸ばした。
その右手首が、男の左腕に強く握られ、スタンガンは取れなくなった。同時に首にかかる力も上がった。ぎりぎりと首が絞められていく。頭痛までしてきた。
男の口が開いた「死ぬのが怖いか?」そう言って不気味に笑った。
だが、男は突然放した。床に倒れこみ、咳き込む。空気をいっぱい吸った。
見れば、石倉が男に組みかかっていた。
「くそ!お前はなにものだ!」
「お前に教える義理はないね!」
2人は揉み合いになった。自衛隊仕込みの体術に敵わなかったのか、掴みかかろうとした男の鼻面に石倉は一発お見舞いした。さらに股間に一発。
だが、男は超人的な力で石倉を持ち上げ、壁に叩きつけた。
その間に奈々子はスタンガンを抜き、男の頭に目がけて撃った。針が男の後頭部に刺さり、電流が流れだした。
男は痺れたように痙攣したが、後頭部にある針を抜き、そのままどこかへ逃げた。
「くそ!あいつは何なんだ!」
石倉は不機嫌そうに言った。89式小銃を拾い上げ、弾倉を確認すると、捨てた。
「弾切れだ。見るところ、この隊員は予備の弾倉を持っていないな」
それでは武器にならないな。殴って倒すこともできるが、それでは重さで足手まといに近い。
すると、遠くだが、正常な人が発しないような呻き声が聞こえた。それも大勢の。
「やばい、逃げるぞ」
「は、はい!」
2人は廊下に出て、あの硬い扉が開いていたので、そこを通って、真っ直ぐに進んだ。
奈々子はつい後ろを見てしまった。大勢の血まみれな研究員――いや、感染者が2人を追って走ってきていた。妙な気分だ。研究者が全力で走ってくるのは少々ネタになるかも。
そんなふざけた考えを捨てて、奈々子は走ることに専念したが、全身の痛みのせいで思うように走れない。だが、感染者は元気いっぱいに走ってきた。本当に元気そうだ。けが人の自分と比べれば。
2人は再び扉にぶつかったが、今度はすんなり開いた。また階段だった。
石倉は扉を閉め、鍵をかけた。扉は鉄製だから、しばらくは時間稼ぎになるだろう。
2人は階段を駆け上がったが、奈々子はやがて止まってしまう。息が切れていた。痛みと十分な休憩と栄養補給をしていないためか、体力は落ちていた。
「大丈夫か?」
普段から訓練を受けていた石倉は平気そうだった。
「疲れたか?俺もだ。でもここで休憩は適切じゃないぞ?」
「は…はい、い、行きます」
立ち上がろうとしたが、膝が落ちる。やはり体力が落ちた。
「仕方ない、こうしよう」
そう言って、石倉は奈々子を抱え込んだ。それは間違いなくお姫様抱っこと呼ばれるものだ。普段の奈々子なら躊躇うだろうが、今は疲れているため、文句はいけない。
「休憩場所を探そう。階段は危険だ」
確かに危険だ。
石倉は奈々子を抱え込みながら、階段を駆け上がった。やがて最上階に着くと、扉を足で開け、近くの個室に入り、中が安全だと確認すると、扉を閉め、奈々子をソファーに寝かせる。
「しばらく休憩するぞ。どうせヘリもすぐには来ないんだ」
奈々子は頷き、ふと窓の外をのぞいた。
窓の外は、東京の都市が映し出されていた。巨大なビルが数多く立ち、まるで城のようだった。だが、黒い煙が所立ち上がっている。
そして、研究所を取り囲むフェンスには、大勢の感染者が押し寄せていた。