虫の王 特殊感染者
ソフィーは見覚えのある声を聞いた。2階建ての家の中から、間違いなく信二の声を聞いた。
信二君!
彼女は大きく壊れた玄関から何の迷いも無く、家に入った。
そして、2階に上がった。
だが、廊下の奥でそれを見た。
ざわざわと聞こえる音。
虫の群れだ。
洪水のようにうねりながら、それは廊下の奥で湧き出ていた。
が、奥の部屋から何かがこっちにやって来た。
それは虫ではなかった。
それは虫たちの王のように、群れを率いてソフィーの方へと歩いてきた。その姿は、ある種の威厳があった。
上半身は裸だ。逞しいその体には、歴戦戦士のように無数の切り傷の跡が残っていた。
その盛り上がった逞しい肩の上にあるのは、頭ではなく、巨大な鉄製の二等辺三角形型の兜を被っていた。顔面部分が前に突き出ていた。まるでピラミッドのようだ。
金属製の兜は、黒かった。錆付いていて、血がついていた。そして、右手には巨大な大鉈を持っていた。
その腰にだらりと下がっているエプロンのような布があった。
凝視すると、それは布ではなく、皮であることが分かった。大勢の人間の皮を剥がし、それを縫い合わせ、身に纏っている。
それは虫の絨毯を踏んで進んできた。
これ以上恐ろしい生物は地球上に居ない。理性を失った感染者のほうが、まだ可愛い。個体にもよるが……
ソフィーは迷い無く1階に逃げた。だが、何者かに後ろから捕まった。
「保菌者確保!」
自衛隊だ。ガスマスクをつけた自衛隊員4名がソフィーを拘束してきた。
「すぐに研究所に連行する!」
先のマンションで出会った自衛隊とは違う部隊らしい。
「放して!じゃなくて逃げて!」
1人の隊員が首を傾げた。
「感染者か?」
だが、すぐに違うことに気づいた。
あの男が大鉈を引きずりながら、階段を下がってきた。大勢の虫を率いて。
「隊長!何ですかあれは!?」
「分からん!特殊感染者かもしれん」
特殊感染者?聞きなれない言葉だった。
自衛隊員3人は89式小銃を構えた。1人はソフィーを抑えたままだ。
「武器を捨てて床に伏せろ!」
男は自衛隊の警告を無視し、近づいてきた。
「構わん!撃て!」
3人は一斉射撃した。
兜を撃ち込まれる度に、一瞬動きが鈍くなる。
ぱっと出るのは、血なのか錆なのかは分からない。
だが、致命傷は負ってない。
「頭じゃない!胸だ、胸を撃て!」
3人は胸を目掛けて撃った。
小銃の銃口から吐き出される5.56ミリNATO弾が男のあらゆる箇所に炸裂する。
だが、本来なら貫通するはずだが、弾丸は貫通し無かった。
それどころか、傷口はかなり浅い。
「隊長!武器がまるで弱い!」
「馬鹿な!全弾命中のはずだ!」
ソフィーは油断している自衛隊員の指を噛んだ。
隊員は悲鳴を上げ、放した。
この隙に、玄関まで走った。
3人の叫び声が聞こえた。
振り返ると、3人の隊員が狂ったように腕を振って、足踏みしている。
まるで踊っているようだ。
よく見ると、あの虫たちが隊員を襲っていた。
3人は倒れこみ、虫の波に飲まれた。虫の山は少しずつ小さくなった。
きっと3人は……そう思うと、哀れに思えてきた。
「逃げて!」
恐怖で立ちすくんでいる最後の隊員に怒鳴った。
隊員は我に返り、泣きじゃくった。
「助けてくれ!死にたくない!」
「早く逃げて!」
虫たちが、隊員に近づいた。隊員は小銃で床を無茶苦茶に撃った。
沢山の虫がばらばらになったが、それでもまだ多い。
隊員は装填した。
だが、いつの間にか男が隊員の目の前に居た。男は隊員よりも遥かに大きかった。
そして、小銃よりも遥かに重いであろう大鉈を掲げた。
一瞬だった。
男は大鉈を振り下ろした。
隊員の頭から股まで真っ二つに裂けてしまった。
本当に一瞬だった。
男は隊員の割れた体左右の足を持ち上げ、両方をソフィーに投げつけた。
死体はソフィーの両側の壁にぶつかった。
右側の体には、右手に小銃、ホルスターには自動拳銃の9mm拳銃があった。
拳銃をホルスターから抜いた。思ったよりも軽かった。
小銃も拾った。これはかなり重かった。1キロのお米袋を3個持っている気分だ。
小銃を両手で抱え込んで、外に出た。
玄関を出ると、感染者の1人が奇声を発しながら、ソフィーに走った。
ソフィーは突撃してくる感染者を避けた。
感染者は止まることなく、玄関から家の中に入った。
虫たちが、感染者に襲い掛かった。自衛隊員と同じように、狂ったように腕を振り回した。
そして、倒れこみ、なおも暴れた。
所々骨が露出していた。
感染者は、ついに骨だけになった。
ソフィーはやはり逃げた。両手で抱えてる小銃と右手の拳銃のせいで、思うように速く走れない。
だが、男は遅かった。男は重々しい大鉈を引きずりながら、歩いてソフィーを追いかけていた。
そんな速度で追いつけるはずが無かった。
後ろを振り向けば、男は米粒ほどの大きさに見える。
信二達はどこかのビルの裏側で休憩していた。
信二は裏口の南京錠を消火器で叩き壊し、ビル内に入った。
「感染者は居ない」
「本当か?」
「1階はな。居ればとっくに走ってきてるさ」
信二は全員をビル内に入れさせて、裏口を閉めた。
「ここで休憩しましょう。トイレなどは速く済まして」
確かに済まさなければ。そう思った茜が言った。
「兄ちゃん、トイレ」
「マジか?じゃあ行こう」
真希は信二を止めた。
「さっきから妹さんを抱えてたから、結構疲れてるでしょ?私が代わりに連れて行くよ」
信二は反論しようとしたが、確かに人一倍疲れている。いや五倍だな。
「…分かった、頼む」
信二は茜を真希に渡した。
真希は茜を抱えながら、近くの地図を見た。
「トイレは2階にあるのか」
真希は近くにあった消火器を持って2階に上がった。
2階は誰も居ない。少なくても廊下は。
真希は近くの女子トイレに入った。
トイレにも誰も居ない。
近くの個室に入り、茜を便座に座らした。
「ドアを閉めてくよ?」
「うん」
真希は個室から出て、ドアを閉めた。中から鍵を掛ける音がした。
ドアの前で見張りをしていると、何かが聞こえた。
最初は感染者かと思ったが、そうじゃないと分かった。
感染者はすすり泣きはしない。
「ここで待ってて」
「分かった」
真希はトイレから出て、廊下ですすり泣きのする場所を探した。
廊下の奥の、女性更衣室と書かれたドア向こうから、聞こえた。
「誰か居ますか?」
返事が無い。真希はドアノブを回した。ドアは難なく開いた。
中ではロッカーが並んでいた。
部屋の中心で、女性が泣いていた。背を丸め、膝を抱え込んで座っていた。
「あの、大丈夫ですか?」
この惨状で大丈夫な訳ない。自分で心の中でつっこんだ。消火器をドアに置き、女性に近づいた。
「何か助けが要りますか?」
ミニスカートにレギンズ、色が塗られた爪、金髪…ギャルだな。
「すいません!」
真希はいい加減に怒鳴った。女性は泣き止んだ。
同時に立ち上がり、振り向いた。
その目は赤かった。
真希は彼女が感染者だと理解するのに数秒かかった。
消火器を拾おうと思ったとき、首に何かを感じた。
急に息苦しくなった。
首に何かが巻きついていた。
女性だ。
女性が右手の親指以外の全ての指が伸び、真美の首を絞めていた。
真希は我が目が信じられなかった。
確かに常識はずれの怪力を誇った巨漢は居たが、これは明らかにおかしい。
まるで骨が無いように、指は伸び、巻きつくなんて。しかもかなり強く絞めている。
真希は慌てて息を吸ったが、空気が喉を通らない。
このまま抵抗しなければ、絞殺されるのが運命だ。何かしなければ……!
助けを求めようとしても、喉からはうめき声しか出ない。
めまいがしてきた。頭痛もした。
意識が薄れる中、絞殺されていくのを感じてきた。
だが、感染者はもう片方の指で消火器を持ち上げ、真希の頭を殴りつけた。
一瞬、意識が飛んでしまった。
腕がだらりと下がる。
だが、運が良かった。
感染者は真希が死んだと思い、絞めつけている指の力を緩め、消火器を捨てた。
意識が戻った真希は、消火器を拾い上げ、感染者に突撃した。
感染者は再び強く絞め付けた。
また苦しくなったが、真希は消火器で感染者の顔面を殴った。
鼻が折れる音がした。
感染者が倒れこんだ。
真希は首に絞まってる指を解いた。
咳き込んだ。久しぶりに空気を吸った気分だ。
茜……そうだ茜がトイレに居た!
真希は咳き込みながら、座り込み、息を吸って頭痛を軽減させた。
その時、感染者が立ち上がり、指を伸ばそうとした。
だが、奇声を発した数秒後、背中から鉈が刺さり、胸まで貫通した。
「…大丈夫…?」
真斗が鉈を引き抜いた。
「大丈夫、助かったよ」
真斗は、感染者を殺したことに罪悪感を感じていたが、指を伸ばす感染者を眺めた。
「これ…何?」
「分からない、信二君に聞こうよ」
真希はトイレの茜を抱え込み、1階に向かった。
真斗は鉈を真人に返した。
「血塗れだな、何か刺したか?」
「指が伸びる感染者」
全員、驚いた。信二もだ。真希は驚いた。
「信二君、知らないの?」
信二は首を振った。
「そいつは知らないが、別の特殊な感染者は居た」
須田は弓を構えながら聞いた。
「どんな奴だい?」
信二はかつて、自分の学校で出会った特別な感染者を思い出した。
「天井を這う、一番最初の感染者さ」
「本当か?こわい……」
信二は静かにと指示した。
信二は裏口のドアを少し開け、外を見た。
感染者が6人は居た。
舌打ちしながら、全員を黙々とドアから離れさせた。
だが、銃声が6発鳴り響いた。
自衛隊の直人と教師の蛇谷が89式小銃を構えながらやって来た。
信二は裏口を開けた。
「速く中へ!」
2人はビル内に入った。
ドアが閉まった数秒後に大勢の感染者がやって来た。
「危なかった、助かったよ信二君」
直人はドアを背中で押さえながら小声で言った。
だが、外ではフードを被った男――岡本大輝が感染者の群れの中で歩いていた。
そして、再び何処かへと向かった。
ソフィーは近くの細い路地で休憩を取っていた。座り込んだ。
しかし、あの男は何なんだろうか?
ゴキブリを率い、大鉈を振り回す。人間ではないだろう。だが、きっと感染者でもない。
虫の王――ソフィーは「ベルゼブブ」を思い出した。
ベルゼブブは悪魔であり、虫の王だ。
ソフィーは男をベルゼブブと呼ぶことにした。
虫たちの王、ソフィーからベルゼブブと呼ばれる男は、何かを求めるように彷徨った。
大勢の虫が、彼の後に続いた。