序章0-1 英雄の終わり
空は、どこまでも蒼かった。
幾日も戦火を覆っていた黒煙は消え、澄みきった青だけが大地を見下ろしている。
風が吹く。
草を揺らし、折れた槍の旗布をかすかにはためかせ、乾き始めた血の匂いを遠くへ運んでいった。
ほんの少し前まで、剣と怒号がぶつかり合っていた場所とは思えないほど、世界は穏やかだった。
――カラン。
乾いた音が響く。
一人の帝国兵が、剣を取り落とした。
誰も動かない。
やがて槍が落ちる。
盾が落ちる。
弓が落ちる。
金属が土を打つ音は、一つ、また一つと広がり、戦場全体を波のように満たしていった。
武器を構える者は、もう誰もいない。
帝国軍、降伏。
その報せは風より早く、蒼緑国軍を駆け抜けた。
「勝ったぞ!」
誰かが叫ぶ。
その一声をきっかけに、張り詰めていた糸が切れた。
兵士たちは肩を叩き合い、互いを抱き締める。
膝をついて天を仰ぐ者。
泣きながら笑う者。
家族の名を何度も呼ぶ者。
生きている。
その事実だけで、涙が溢れていた。
戦とは、そういう場所だった。
歓声から少し離れた場所に、一人だけ動かない影があった。
風に揺れる長い銀髪。
泥に汚れた濃紺の和装。
その瞳だけが、歓喜ではなく戦場を見つめていた。
「銀華様!」
若い兵士が駆け寄る。
「帝国軍は完全に投降しました! 我々の勝利です!」
銀華は兵士へ目を向け、小さく頷いた。
「……そう」
兵士は嬉しさを隠しきれない。
「皆、生きて帰れます!」
銀華は少しだけ目を閉じる。
「被害は」
「現在確認中ですが、想定より少ないとの報告です!」
その言葉を聞き終えると、銀華は静かに息を吐いた。
「……良かった」
兵士は敬礼すると、再び仲間たちのもとへ走っていく。
銀華はその背中を見送り、ゆっくり歩き出した。
折れた剣。
砕けた盾。
踏み荒らされた草花。
戦いの痕跡は、まだ大地のあちこちに残っている。
小さな呻き声が聞こえた。
銀華は迷わず膝をつく。
倒れていたのは蒼緑兵だった。
「話せますか」
兵士は薄く目を開き、かすれた声を漏らす。
「……銀華様」
「無理はしないでください」
銀華は水筒を開き、そっと口元へ運ぶ。
「少しだけ」
兵士は一口だけ水を飲み、震える息を吐いた。
「ありがとう……ございます」
銀華は小さく笑む。
「その言葉は、帰ってから聞かせてください」
兵士の目に涙が浮かぶ。
「はい……!」
銀華は衛生兵へ視線を向けた。
「お願いします」
「お任せください!」
それだけ確認すると、再び歩き出す。
少し先では、腕を押さえた帝国兵が苦しそうに息をしていた。
銀華を見るなり、その肩が強張る。
剣は抜かれない。
銀華もまた、柄には触れなかった。
「傷を見せてください」
帝国兵は呆然と目を見開く。
「……殺さないのか」
銀華は首を振る。
「戦いは終わりました」
銀華は衛生兵へ振り返る。
「こちらもお願いします」
衛生兵は一瞬だけ驚き、それでも力強く頷いた。
「承知しました」
銀華は空を見上げる。
どこまでも青い。
誰が勝っても。
誰が負けても。
空は変わらない。
その空を見つめながら、銀華は歩き続けた。
◇
戦場を渡る風は、少しずつ熱を失っていた。
歓声はまだ聞こえる。
だが、それも先ほどまでの勢いはない。
生き残った兵たちは、仲間を運び、武器を集め、負傷者を探し始めていた。
勝利とは、不思議なものだ。
歓喜と同じ場所で、誰かが静かに泣いている。
銀華は歩みを止め、白布を掛けられていく兵を見つめた。
若い兵だった。
顔には、まだ幼さが残っている。
そっと目を閉じる。
それだけで、再び歩き始めた。
背後から声が届く。
「銀華様」
振り返る。
第四部隊副官、桐谷が立っていた。
肩には無数の古傷。
長い戦場を生き抜いてきた者だけが持つ眼差しだった。
「報告は終わりましたか」
「ええ」
桐谷は頷く。
「皆、あなたのおかげで生きております」
銀華は小さく首を振った。
「私一人ではありません」
それだけ言うと歩き出す。
桐谷も隣へ並んだ。
二人の歩幅は自然と揃う。
しばらく言葉はない。
風だけが草を揺らしていた。
やがて桐谷が口を開く。
「一つ、気になることがあります」
銀華は前を向いたまま答える。
「聞かせてください」
「今回の帝国軍です」
短い沈黙。
「降伏が、早すぎます」
銀華も視線を前へ向けた。
捕虜となった帝国兵たちは列を作り、座っている。
暴れる者はいない。
怒鳴る者もいない。
咳払い一つ聞こえない。
「斥候からは」
「周囲に伏兵なし」
「補給部隊」
「異常なし」
「退路」
「完全に封鎖済みです」
報告に淀みはない。
桐谷は眉を寄せた。
「帝国は、このような戦い方をする軍ではありません」
銀華は答えない。
代わりに、一人の捕虜を見つめた。
若い兵だった。
膝に置いた両手が、小さく震えている。
疲れている。
怯えている。
だが──。
その瞳には、戦が終わった者の色がなかった。
銀華は小さく息を吐く。
「終わるなら」
桐谷が視線を向ける。
「それが一番です」
「……」
「疑う理由を探すより、命が助かった理由を喜びたい」
横顔は穏やかだった。
桐谷は苦く笑う。
「あなたらしい」
銀華も少しだけ笑う。
「でも」
その笑みは、すぐ消えた。
「警戒は続けましょう」
「もちろんです」
桐谷は深く頷く。
「夜明けまで見張りを倍にします」
「お願いします」
二人はそこで別れた。
銀華は空を見上げる。
夕暮れが近い。
青かった空は、ゆっくりと茜色へ染まり始めていた。
その時だった。
一羽の黒い鳥が、戦場を横切る。
低く。
まるで何かから逃げるように。
銀華の視線は、その鳥を追った。
胸の奥が、わずかにざわつく。
理由は分からない。
それでも。
風が、少しだけ冷たくなった気がした。
◇
戦場の整理は、夕刻を迎える頃にはおおよその目途が立っていた。
武器は回収され、負傷者は手当てを受け、亡くなった者には白布が掛けられていく。
勝者にも敗者にも、夕日は等しく降り注いでいた。
銀華は本陣へ戻ると、簡素な天幕の中で各部隊の報告を受けていた。
机の上には周辺の地図が広げられ、その上に小石や木片が置かれている。
「北側の掃討、完了」
「西側街道、異常なし」
「補給路、安全を確認」
一つ一つの報告に耳を傾けながら、銀華は必要な指示だけを返していく。
無駄な言葉はない。
それでも、その口調には不思議な温かさがあった。
報告が一段落したところで、天幕の入口が開く。
桐谷だった。
「銀華様」
「どうしました」
「捕虜について、ご相談があります」
銀華は姿勢を正した。
「話してください」
「現在、帝国兵およそ三百二十名を保護しております」
「はい」
「そのうち重傷者が四十余名」
「医療班は足りていますか」
「なんとか回っています」
そこまでは予定通りだった。
だが、桐谷はそこで言葉を切る。
「問題は、その後です」
天幕の中にいた将校たちも視線を向ける。
「我々は捕虜を王都へ移送する予定でした」
「ええ」
「しかし人数が多すぎます」
地図の一点を指差す。
「護送には最低でも二個中隊」
「その間、本隊の機動力は大きく落ちます」
別の将校が続ける。
「それに帝国は、捕虜奪還のため夜襲を仕掛けてくる可能性があります」
「今のうちに縛り上げ、厳重に監視すべきです」
「それでも人数が足りません」
短い沈黙が落ちた。
「……一部は処分すべきでは」
その言葉に、天幕の空気が凍った。
銀華は顔を上げる。
「今、何と」
将校は口を噤んだ。
自分でも言い過ぎたと分かっている。
それでも現実を見れば、口にせざるを得なかった。
「……申し訳ありません」
「しかし、戦場では珍しい判断ではありません」
「逃走や反乱を防ぐために――」
「その先は言わなくて大丈夫です」
銀華の声は穏やかだった。
だからこそ、誰も続けられなかった。
彼女はゆっくり立ち上がる。
そして天幕の外へ歩き出した。
誰も止めない。
銀華が向かった先は、捕虜たちが座らされている広場だった。
武器はすべて回収され、帝国兵たちは疲れ切った表情で地面に座っている。
その中には老人もいた。
まだ幼さの残る少年兵もいる。
腕を吊った兵がいれば、肩を貸し合う者もいる。
声を殺して泣く者もいた。
銀華はその光景を見渡した。
一人の帝国兵と目が合う。
彼は咄嗟に視線を逸らした。
憎まれると思っていたのだろう。
銀華はその場にしゃがみ込んだ。
「傷は、痛みますか」
兵士は戸惑ったまま頷く。
「……少し」
「薬は届いていますか」
「……はい」
それだけ話すと、銀華は立ち上がった。
周囲の兵士たちは誰一人声を出さない。
ただ、不思議そうに彼女を見つめていた。
銀華は自軍の兵士たちへ向き直る。
「皆さん」
その一言だけで、周囲は静まり返った。
「武器を持っている間、彼らは敵でした」
誰も動かない。
「ですが」
銀華は一人一人の顔を見る。
「武器を置いた今――彼らは守られるべき捕虜です」
その言葉に、何人かの兵士がゆっくり顔を上げた。
「蒼緑国は、人を裁く国ではありません」
「命を守る国です」
「拘束は必要最低限」
「食事も、水も、負傷者への治療も続けてください」
「逃亡を防ぐ警戒は怠らず」
「ですが、辱めることは決して許しません」
一人の若い兵士が思わず尋ねる。
「銀華様……」
「もし、この人たちが裏切ったら……?」
銀華は少しだけ考え、答えた。
「その時は」
夕日が銀髪を赤く染める。
「私が責任を負います」
その場にいた誰もが息を呑んだ。
迷いのない言葉だった。
将軍として。
一人の剣士として。
そして、人として。
その覚悟に嘘はなかった。
少し離れた場所で、そのやり取りを見ていた桐谷は、目を閉じる。
――銀華様。
あなたは、どこまでも正しい。
……だからこそ。
この世界は、あなたに優しくない。
西の空で、夕日がゆっくりと山の向こうへ沈んでいく。
戦いは終わった。
誰もが、そう信じていた。
◇
日が山の端へ沈み始めると、戦場は急速に静けさを取り戻していった。
兵たちは野営の準備に取りかかり、炊事班からは細い煙が立ち上る。
「久しぶりに温かい飯が食べられるな」
そんな笑い声も聞こえ始めていた。
誰もが、今日という戦いは終わったのだと思っていた。
銀華もまた、見回りを終え、本陣へ戻ろうとしていた。
――その時だった。
ドンッ。
腹の底へ響くような低い音が、遠くから届く。
銀華の足が止まった。
「……?」
空気が震える。
ほんの一拍遅れて、二度目の衝撃。
ドォンッ!!
今度は誰の耳にも届いた。
兵士たちが一斉に顔を上げる。
「何だ?」
「雷か……?」
――いや、違う。
銀華は音のした方角へ目を向けた。
西。
街道の先。
戦場からそう遠くない、小さな村がある方角。
次の瞬間、その空へ黒い煙が立ち上った。
細く。
そして、みるみるうちに太く。
夕焼けを塗り潰すように。
「……火事?」
誰かが呟く。
銀華は目を細めた。
煙は一本ではない。
二本。
三本。
いや、それ以上。
村全体から立ち上っている。
胸の奥がざわつく。
理由は分からない。
だが、本能だけが叫んでいた。
街道の向こうから、一騎の馬が土煙を巻き上げながら駆けてきた。
「伝令!」
「伝令です!」
馬は速度を緩めることなく本陣へ飛び込んでくる。
騎乗した兵士の顔は血の気を失っていた。
泥にまみれ、肩には矢が深々と突き刺さっている。
馬から転げ落ちるように降りると、そのまま地面へ膝をついた。
「銀華様……!」
息が続かない。
それでも必死に声を絞り出す。
「村が……!」
「落ち着いて」
銀華は肩を支えた。
「何がありました」
兵士は震えながら顔を上げた。
「帝国軍です!」
「残存兵ではありません!」
「別働隊です!」
その言葉に、周囲の空気が凍りつく。
「数は?」
桐谷が問う。
「およそ三百!」
「騎兵中心!」
「村へ一直線に!」
「住民が……!」
その先を、兵士は言えなかった。
唇を強く噛み締め、拳だけが震えている。
――それだけで十分だった。
銀華の脳裏に、一つの考えが走る。
陽動。
最初の戦い。
あまりにも早い降伏。
薄すぎた抵抗。
そして、別働隊。
すべてが一本の線で繋がった。
敵の狙いは、この戦場ではない。
最初から。
最初から、村だった。
「全部隊、戦闘準備!」
桐谷が叫ぶ。
「急げ!」
兵士たちが一斉に動き出す。
だが、その中で銀華だけは一瞬、立ち尽くしていた。
頭の中で、一つの言葉だけが何度も響く。
『私が責任を負います』
ほんの数分前。
自ら口にした言葉。
その責任が、今まさに形になろうとしていた。
「銀華様!」
桐谷の声で我に返る。
「ご命令を!」
銀華は深く息を吸った。
迷っている時間はない。
「第一、第二部隊は負傷者と捕虜の警戒を継続!」
「第三、第四部隊は私に続いてください!」
「村へ向かいます!」
「はっ!」
兵たちは駆け出す。
銀華もまた、腰の魔剣へ手を添えた。
その瞬間だった。
風に乗って、かすかな音が届く。
子どもの泣き声。
距離がある。
本当なら聞こえるはずがない。
それでも銀華には、確かに聞こえた気がした。
「……待っていて」
誰へ向けた言葉だったのか。
自分でも分からない。
次の瞬間、銀華は地を蹴った。
夕焼けの戦場を。
誰よりも速く。
燃え上がる村へ向かって。
その背中を、誰も止めることはできなかった。
西の空を覆う黒煙は、すでに夕焼けを呑み込み始めている。
◇
村へ続く街道を、銀華は風を裂くように駆け抜けていた。
背後では第三、第四部隊の兵たちが懸命についてくる。
しかし、その距離は少しずつ開いていく。
銀華は速すぎた。
いや――速くならざるを得なかった。
燃え上がる炎が近づくたび、胸を締めつける嫌な予感もまた膨らんでいく。
焦げた木の匂い。
煙に混じる鉄の匂い。
そして――
人の悲鳴。
その瞬間、銀華の足はさらに速くなった。
「お願い……!」
誰へ向けた願いなのか、自分でも分からない。
「間に合って……!」
街道を抜けた先で、視界が開ける。
そこにあったのは、見慣れた小さな村ではなかった。
家々は炎に包まれ、屋根は崩れ落ち、黒煙が空を覆っている。
逃げ惑う村人。
泣き叫ぶ子ども。
馬上から笑いながら剣を振るう帝国兵。
それは戦場ではない。
虐殺だった。
「やめろッ!」
銀華の声が響く。
一人の帝国兵が振り返る。
その剣は、目の前で震える少女へ振り下ろされようとしていた。
銀華は考えるより先に身体が動いていた。
蒼い閃光。
魔剣が一度だけ走る。
金属音。
帝国兵の剣は真っ二つに砕け、そのまま馬から転げ落ちた。
少女は呆然と銀華を見上げる。
頬は涙で濡れ、小さな身体は震え続けていた。
「もう大丈夫」
銀華は少女の肩へそっと手を置く。
「兵士さんたちが来ます」
「お母さんは……?」
その一言に、銀華は答えられなかった。
炎の向こうから、女性の悲鳴が聞こえる。
銀華は歯を食いしばった。
「ここを動かないで」
少女は小さく頷く。
銀華は再び駆け出した。
路地を曲がる。
今度は老人が倒れていた。
燃えた梁が脚の上へ落ちている。
「助け……」
銀華は剣を鞘へ戻し、両手で梁を持ち上げる。
重い。
それでも力を込める。
木材が軋み、ようやく老人の身体が自由になった。
「立てますか」
「す、すまん……」
「謝らないでください」
老人へ肩を貸し、安全な場所まで運ぶ。
助けた直後に老人が震えながら、
「英雄様……」
と漏らし、銀華が振り返らずに、
「違います。私は、この国の剣士です」
銀華は小さく呟く。
そこへ、ようやく蒼緑兵たちが到着した。
「銀華様!」
「負傷者を広場へ!」
「歩ける人を優先してください!」
「子どもを絶対に一人にしないで!」
「はっ!」
命令は簡潔だった。
混乱する戦場では、短い言葉ほど強い。
銀華は次々と村を駆け回る。
井戸へ落ちそうになった少年を抱き上げる。
燃える家から幼い兄妹を連れ出す。
傷ついた兵士へ応急処置を施す。
そのたびに剣を抜き、迫る敵だけを斬り伏せる。
必要以上には斬らない。
怒りに任せても斬らない。
守るためだけに振るわれる剣。
その姿を見た蒼緑兵たちは、自然と声を上げた。
「銀華様に続け!」
「民を守れ!」
「一人でも多く救い出せ!」
絶望しかけていた空気に、わずかな希望が灯る。
村人たちも、その背中を見ていた。
「あの方が……」
「蒼緑の銀華様……」
「助けに来てくださった……」
その名は、恐怖に震える人々の心へ、小さな勇気を届けていた。
銀華は再び剣を構える。
視線の先では、三人の帝国兵が一軒の家へ火を放とうとしている。
家の中からは赤子の泣き声。
銀華の瞳が鋭く細まる。
「そこまでです」
その一言だけで空気が変わる。
帝国兵たちは振り返り、息を呑む。
「蒼緑の……!」
「銀華だ!」
恐怖が広がる。
彼らは一斉に襲いかかった。
銀華は一歩だけ踏み込む。
剣は流れる水のように静かだった。
一太刀。
二太刀。
三太刀。
勝負は、それだけで終わった。
帝国兵たちは戦意を失い、武器を取り落とす。
銀華は追撃しない。
「逃げなさい」
三人は互いの顔を見合わせると、転ぶように森の奥へ逃げていく。
銀華は深く息をつく。
すぐに家の戸を開けた。
中では若い母親が赤子を胸へ抱き締め、涙を流していた。
「もう大丈夫です」
その言葉を聞いた瞬間、母親はその場へ崩れ落ちた。
泣き声だけが、小さな家に響いていた。
銀華は赤子へ微笑みかける。
その小さな命は、何も知らず眠っている。
――守れた。
そう思った。
この時だけは、本当にそう思ってしまった。
◇
家を出ると、夜風が頬を撫でた。
炎はなお勢いを増し、村のあちこちで火の粉が舞っている。
「銀華様!」
第三部隊の兵士が駆け寄ってきた。
「東側の避難はほぼ完了しました!」
「西側は?」
「まだ数軒に取り残された方が――」
その時だった。
一本の矢が闇を裂いた。
「伏せて!」
銀華は兵士を突き飛ばす。
矢は彼女の肩口をかすめ、そのまま背後の壁へ深く突き刺さった。
屋根の上。
黒装束の兵が数人、音もなく姿を現す。
「まだいたのか……!」
蒼緑兵たちが剣を抜く。
しかし、その黒装束たちは戦おうとはしなかった。
銀華を一瞥すると、森の奥へ一斉に跳び去っていく。
「待て!」
兵士が追おうとする。
「追わないで!」
銀華の声が夜に響く。
「村人の救助を優先してください!」
「ですが!」
「命令です!」
兵士は悔しそうに拳を握り締め、それでも深く頭を下げた。
「……はっ!」
銀華は黒装束が消えた森を見つめる。
胸騒ぎが消えない。
あの動き。
あの統率。
まるで――。
「銀華様!」
今度は別の兵士が息を切らして駆け込んできた。
その顔は青ざめていた。
「広場へ……!」
「広場で何が!」
「来てください……!」
兵士は、それ以上言えなかった。
銀華は走る。
広場へ。
昼間、村人たちが集まり、子どもたちが遊んでいた場所。
その光景を思い浮かべながら。
しかし。
そこにあったのは、
記憶とは、まったく違う世界だった。
広場は静まり返っていた。
泣き声も。
叫び声も。
何一つない。
ただ、風だけが吹いている。
蒼緑兵たちが輪を作るように立っていた。
誰一人、口を開かない。
銀華が近づくと、
兵たちは道を開けた。
その先で。
彼女の足が止まる。
言葉が消える。
息が止まる。
広場には、多くの村人たちが横たわっていた。
白布を掛けられた者。
まだ布も掛けられていない者。
互いの手を握ったまま動かない親子。
小さな身体を抱き締めたまま座り込む母親。
そして。
昼間、助けたはずの少女が。
父親の胸へ顔を埋めるように倒れていた。
銀華は動けなかった。
目の前の光景を、
理解できなかった。
「銀華様」
桐谷が歩み寄る。
その声も、どこか遠く聞こえた。
「別働隊です」
「……」
「我々が到着する前に」
「……」
「村の西側から侵入し」
桐谷は唇を噛む。
「避難を始めた人々を……」
最後まで言えなかった。
銀華はゆっくり歩き出す。
一歩。
また一歩。
少女の前で膝をつく。
まだ温もりが残っていた。
震える指先が、小さな手に触れる。
「……ごめん」
声にならない。
「ごめんなさい……」
視界が滲む。
昼間。
この子は確かに笑っていた。
「お母さんは?」
そう尋ねた声が耳によみがえる。
自分は言った。
「もう大丈夫」
そう言った。
「守るって……」
喉が震える。
「言ったのに……」
返事はない。
風が、焼けた灰を運んでいくだけだった。
その時。
桐谷が銀華の足元へ跪いた。
「銀華様」
「……」
「一つ、ご報告があります」
銀華は顔を上げない。
「先ほど、捕虜の人数を再確認しました」
嫌な予感がした。
「三百二十名のはずでしたが」
沈黙。
「……二十七名、足りません」
銀華の肩が、小さく震えた。
「捕虜に紛れていた斥候です」
「拘束が緩かった隙を突き、戦場を離脱」
「森で別働隊と合流した形跡があります」
時間が止まった。
世界から音が消えた。
頭の中に響くのは、自分自身の声だけ。
――拘束は必要最低限。
――武器を置いた今、彼らは守られるべき捕虜です。
――私が責任を負います。
一つ一つの言葉が、
刃となって胸へ突き刺さる。
誰も銀華を責めなかった。
兵たちは俯いている。
桐谷も責めない。
村人も責める言葉を口にしない。
だからこそ。
銀華には逃げ道がなかった。
自分だけは、
自分を許せない。
その夜。
燃え続ける村の真ん中で。
蒼緑国第五将・雪乃銀華は、
初めて、自分の剣が守れなかった命の重さを知った。
◇
夜は、静かだった。
昼間あれほど激しく燃え上がっていた炎も、今は赤黒い熾火となって村を照らしている。
焼けた木が崩れる音だけが、ときおり夜気を震わせた。
蒼緑兵たちは、生き残った村人を王都へ移送する準備を進めていた。
負傷者の手当て。
遺体の確認。
身元の記録。
生存者への聞き取り。
誰もが休むことなく動いている。
それでも、この村に笑顔は一つも戻らなかった。
銀華は広場を離れ、一人、村外れの丘へ歩いていた。
そこから見下ろせば、小さな村の全景が見える。
まだ細い煙が、夜空へ昇っていた。
風が吹く。
焦げた匂いが鼻をかすめる。
銀華は膝を抱えるように腰を下ろした。
刀は鞘に納めたまま。
柄に手を置くことさえしない。
ただ、村を見つめていた。
どれほどの時間が流れたのだろう。
足音が近づいてくる。
「……ここにいましたか」
桐谷だった。
銀華は振り返らない。
「皆さんは」
「避難は終わりました」
「そうですか」
「負傷者も搬送しております」
「……ありがとうございます」
それだけだった。
会話は途切れる。
桐谷も銀華の隣へ立ち、同じ景色を見下ろした。
しばらくして、口を開く。
「銀華様」
「はい」
「誰も、あなたを責めてはおりません」
銀華は答えなかった。
「兵たちも」
「村の方々も」
「皆、分かっています」
分かっている。
そんなことは、銀華自身が一番分かっていた。
誰も責めない。
誰も「あなたのせいだ」とは言わない。
だからこそ、苦しい。
「桐谷さん」
銀華は小さく呟く。
「私が、あの時」
言葉が止まる。
喉の奥が締めつけられる。
「もっと疑っていたら」
沈黙。
「もっと厳しく拘束していたら」
また沈黙。
「……あの子たちは」
その先が言えない。
桐谷は目を閉じた。
戦場には、答えの出ない問いがある。
あの日、あの時。
別の選択をしていれば。
そう思い続ける夜が、一生続くこともある。
しかし。
その問いに答えられる者は、誰もいない。
「銀華様」
桐谷は首を振る。
「私は軍人です」
「だから、あなたとは違う考えを持っています」
銀華はゆっくり顔を上げた。
「ですが」
桐谷は前を見たまま続ける。
「今日、あなたが守った命も、確かにありました」
少女。
兄妹。
赤子。
老人。
救い出した人々の顔が、銀華の脳裏をよぎる。
けれど。
その記憶は、広場に横たわる人々の姿に、塗り潰されていった。
「……足りません」
銀華は首を横へ振る。
「一人でも守れなかったなら」
「私は」
唇を強く噛む。
「英雄なんかじゃありません」
その言葉を聞いた桐谷は、何も返さなかった。
銀華自身が、自分で答えを見つけなければ意味がないと知っていたからだ。
夜空を見上げる。
雲一つない空には、無数の星が瞬いていた。
あの日も。
十年前、静と出会った夜も。
きっと同じ星が輝いていた。
変わったのは、空ではない。
自分だ。
銀華はゆっくり立ち上がる。
丘の上から、もう一度だけ村を見下ろした。
その光景を、生涯忘れないように。
目を逸らさないように。
心へ刻みつけるように。
そして、誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
「……私が」
風が吹く。
言葉をさらっていく。
「守るって、言ったのに」
その一言だけが、夜の闇へ溶けていった。
翌朝。
蒼緑国第五将・雪乃銀華は、勝者として戦場を去る。
だが、その胸に宿るものは勝利ではなかった。
誰にも見えない傷。
誰にも癒せない後悔。
その日。
英雄・雪乃銀華は生き残った。
しかし。
"英雄"という存在だけは、あの村で息を引き取っていた。
――
序章 0-1『英雄の終わり』 完
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品は、小説とイラストの両方で世界を描いています。
Xでは制作中のイラストや更新のお知らせも投稿していますので、ご興味がありましたらぜひご覧ください。
次回更新は 毎週土曜日20時頃 を予定しています。
またお会いできたら嬉しいです。




