憐憫
子どもの頃の私はとても少食で(今では別人)食事を残すと母親から
「アフリカの子どもたちは食べるものが無くて困ってるのを知ってる?」
と、グローバルな文句を言われた
子ども心に、そんなこと言われても全く実感わかない、と思ったものだった
庶民にしては贅沢な暮らしをしていた我が家は、常におやつや高級食材があった
お腹が減らないのに無理矢理食べる苦しみのほうが大きかった
自分よりも恵まれない立場の人と比べて、自分が置かれた状況を考える
そんな考え方をする人がいる
簡単にいうと、自分より下を見て幸せを感じるようにする
過去の私は、自分よりもできる人間と比べて落ち込むことはあったが
明らかに自分と違う立場の人に対して上から見るようなことはなかった
そんなことをして何の意味があるのか
(そもそも人と比べることはしなくていいと今ではわかっている)
私の娘は自己肯定感を上げたい時に、そうすると言っていた
成績がとてつもなく悪い子や、非リア充を見て、アイツよりはマシ、と自分をアゲるらしい
うちの娘ちゃんは親バカで言うが、かわいいし賢い
なぜそんな考え方が必要なのか?
わからない
自信を失い情緒が不安定な時には有効なのだろうか
自分を鍛え磨く努力をしないで
簡単に自信がつけられる手軽な方法
自分の立ち位置を上げずに、視点を変えるだけ
立ち位置は変わってなくても、目線を下に向ければ上がったように感じられるマジック
上には上がいるし
下には下がいる
どこを見るかで自分の評価が変わる
ブレブレの自分軸
そういう思考の教育がなされてきた
ランク分け、順位付け、点数化…
何を基準に誰が決めるのか
どこの誰が何と言おうと、自分のことは自分が認めている
今の私の軸はびくともしない
娘にも言って聞かせている
どんな自分でも受け入れ認める
おかげでかなりブレなくはなっている
強くなった
元々がよき素材なんだし(親バカ再び)
かわいそう、という言葉
無意識に何気なく皆使っているが
かなり失礼な表現だと思う
上から?どの立ち位置で出てきた言葉なのか
同情しているのか
憐憫の情なのか
共感しているのならわかる
見下して言うのはただの嫌がらせだ
経済至上の格差社会
外見至上の差別
本当に間違いだらけの価値観
ため息が出る
憐れなのは、そんな風にしか考えられない人間の方だ
どこを比べて、上だの下だの言えるのか
勝手な自己判断の基準
他人のことを不幸だと決めつけて自分が幸せと思い込む
そんな生き方では、本当の幸せはいつまでたってもわからない
自分と向き合わなければ、自分のことを知らないまま
自分の全てを自分が認める
そのまま、ありのままを認める
自分のことを足りないと思っているから比べるのだと気づこう