3. 寝台
「おら、とっとと二人で暮らしてて」
その父親がおかしくなったそうだ。
「日暮れに、田んぼの向こうに獣の影がみえて、追い払ってくる言うて追っかけてってな、それでな、そしたらな……」
ホァは言葉を詰まらせた。
そのあと、朝まで帰ってこなかったのだという。
草まみれ泥まみれで帰ってきた父は、ホァに対しても、ほかの誰に対しても、まるで役人に話すような卑屈な態度をとり、異様に愛想がよくなった。食事も火を通さずにそのまま食べだした。ホァは煮炊きをするように頼んだが、いざ竈を使わせると、火を怖がって湯をこぼすような始末だったという。
好きだった酒の匂いも嫌がって、せっかく仕込んだ吸管酒の甕も外に放り投げて捨ててしまった。
「とっとは普段あんまり喋らんけど、酒を飲むと機嫌よくなって、たくさん遊んでくれるんだ。ほだから、おらも、酒の匂い好きだったんだ」
そして数日後、父親は再び家から出ていった。ホァは村の大人に頼み、共に探し回ったが、見つける事は出来なかった。翌朝にまた帰って来た父親に、村の者と何をしていたのか問い詰めたが、歯をむき出して「ひひひひひ、ひひひひひ」と笑ったきり、何も話さなくなってしまった。
モノの怪の仕業にちがいない、と村長は言った。
このまま働かずにいられるわけはない。周りが手助けをするにしても限界はある。田畑を人手に売り渡したところで、働かない父親を抱えて、幼いホァ独りではやっていけないだろう。幸いなことに「平笠の化け猫」と呼ばれる専門の呪い師が、ガイドン市に腰を落ち着けたらしいから、家にある金目の物をかき集めて、モノの怪退治を頼んで来いと。
「化け猫さんにモノの怪を退治してもらえば、とっとも元に戻るだろうって村長さまは言うたんだ」
そしてホァはお使いに出て、どこかで命を落とした。
野犬か、野盗か、人攫いか、道を見失って帰れなくなったか、それともモノの怪に行き遭ったか。
いずれにせよ、ホァは弔いを受けられず魂がこの世に留まって、クォンに会うまで街道を歩き続けていた。
「やりきれない話です」
床に敷いた筵の上、寝息を立て始めたホァの腹に、クォンが薄い掛布をかけた。
「私には、ホァちゃんはただの子供にしか見えません」
ユエはその様子を寝台の上から見守っていた。夫は子供好きだ。だからこそ、子供の幽霊に行き遭ってしまったのが、ユエは辛い。
「きみが運んでいた吸管酒の匂いが小さな縁、探し求める化け猫の夫であることが大きな縁。そりゃあホァも話しかけるし、きみも応えてしまうよ」
寝ござを敷いた寝台にクォンが上がってきた。お揃いの蔓編みの枕に頭を乗せ、向き合うように横たわった。ユエはつと左腕を伸ばし、まっすぐで柔らかな夫の黒髪を指で梳いてやる。
「……難しいと思うけど、あんまり情を移さないようにね。ホァはもう、この世のものではないし、わたしはその子を『彼の夜』へ送ろうとしてる。どうしたってすぐにお別れになる。辛くなっちゃうよ」
唇を引き結んで、クォンは何度か頷いて見せた。ユエの細い腰に手を置いた。
「穏便に送り出すのは、なんとかなりそうですか? もし、ユエさんに危険があるなら、気にせずやってしまってください」
「大丈夫だよ。ホァの話で、モノの怪の見当はついた。元通りのお父さんに会わせてやるのは難しくないと思う。心残りが無くなれば、あの子も『彼の夜』に引っ張られていくだろうし、家に遺品があれば、分けてもらって弔ってやろうと思う。ただね――」
「なんですか?」とクォンが真顔になる。
「わたしは、ホァに嘘をつくことになる。事が終わるまで、嘘の内容はきみにも明かせない」
夫の手に、わずかに力が入ったのを感じた。
「私に明かせないのは、ユエさんが危険を背負い込むためですか?」
「違うよ。内容を明かしてもわたしに影響はない。でも、きみに内容を明かせば、送り出しが失敗する可能性が出てくる。そしたら、猫の爪を使わなきゃならなくなるからさ」
「つまり、知れば、私は何かに気を取られてホァちゃんに嘘が露見するとか、そういう事ですか?」
「そうだね。だから幽霊の事はわたしに任せて」
「わかりました。呪い師ユエさんにお任せします」
ユエの腰に置かれた手が緩んだ。
「あの、ユエさん」クォンが、普段の明るい口調に戻って言った。「ホァちゃんの事があって言いそびれてたんですけどね」
「うん」
「苦瓜と莚菜の炒め物、おいしかったです。それに鶏めしも」
ずいっと妻が顔を寄せて来た。琥珀色の人の左目と、金色の猫の右目の両方でじっと見つめて来たかと思ったら、鼻に小じわをよせてくしゃりと笑った。
「鶏めしの残りは、明日おかゆで食べよう」
笑うユエをクォンは抱き寄せ、ひんやりした耳に唇を寄せた。
「ユエさん」
「なに?」
「声、出しちゃだめですよ」
妻の身体が一瞬こわばり、ついで、くくく、と忍び笑う声が漏れてくる。
「きみは、急にそういうこと言うよね」
ユエが楽しげに言い終えるころには、クォンの手が胴布をはずし終わっていた。




