第2話 暗夜(2)
「ねえアル。キリスト教徒の修道院に、奇蹟を行う聖女がいるって噂、知っている?」
絨毯に座って宝石箱の中を整理しながら、わたしは訊いてみた。
アラビア語の詩集を繰っていた青年の指先が、止まる。
「聖女?」
「そう。街では有名な話よ」
宝石箱は、金細工の繊細な透かし彫りに、トルコ石の薄片と紅玉が象嵌されている。
「さあ……知らないな」
アルディラーンは再び詩集に目を落とした。興味なさそうな様子が、少し意外だった。
(どうせあり得ないって思っているのかしら)
今日の出来事を話すつもりだったのだが、なんとなく気がそがれてしまった。
「いままでに聖女とか聖人って会ったことある?」
「いや。噂は昔からいろいろ聞いてはいるけどね。キリストの預言をしただの、幻視をした、などというのをね」
「幻視って」
「不思議な幻を見ることだよ。救い主の姿や、神秘的な模様や風景を、夢の中や、ときには目覚めていても見るそうだ」
「幻覚を見るってこと? 変なの」
「そうだね」
アルディラーンが笑った。つられてわたしも笑う。
「ねえ、アルは奇蹟を信じる?」
「どうかな。奇蹟と言われることをいくつか目にしたことはあるが、どれも眉唾だったな。奇蹟なんて、実はないから奇蹟というのかもしれないな」
「ふうん」
わたしは長椅子の青年の隣に座り、寄りかかった。
(……この匂い)
ふと、鼻腔に流れ込む匂いに意識が醒める。アルディラーンの服から漂う、残り香のようなかすかな芳香。
(この匂い、知っている)
だが、どこで嗅いだ匂いだろう。思い出せない。
(知っているはずよ。この邸じゃない、どこかで)
不意に指先が冷たくなる。ざわざわと這い上がるような、姿の見えない不安。
アルディラーンはわたしの髪を撫でている。いとおしそうに、指を巻き毛に絡めて梳き流す。いつもどおりの慣れたしぐさ。
いつもなら心地よく満たしてくれるその指が、なぜかひどく忌々しく、落ち着かない気分にさせた。