第2話 暗夜(1)
「――聖女」
すれ違った男たちの言葉に、市場を歩いていたわたしは思わず足を止めた。
「嬢さま」
随行のミロエが呼ぶのも聞かず、きびすを返したわたしは男たちの後ろについて歩き出す。
「聖女さまがまた」
「奇蹟を行ったらしい」
「修道院の医療施設で」
「瀕死の病人が回復して」
「聖母のようなお美しさで」
キリスト教徒らしい男たちは、興奮した口調でしきりに語り合いながら、雑踏の中に紛れていく。
「嬢さま」
追跡をやめたわたしの傍らに、少年奴隷は心配そうに寄り添った。
「ねえミロエ、聖女さまって、なんのこと?」
「え? あ、ああ……噂です。キリスト教徒の修道院に、奇蹟を行う聖女がいるらしいって」
「奇蹟って、どんな」
「ええと、おれはよく知らないんですけど……病人や貧しい連中に優しいらしいですよ」
「それだけじゃ奇蹟って言わないわ」
咎めるように言うと、ミロエはしゅんとうなだれてしまった。
――聖女の奇蹟。
どくん、と胸が高鳴る。
奇蹟を行う聖女。この街に、それがいる。生きて、存在している。
「……会いたいわ」
わたしはミロエの袖をつかんだ。
「聖女を見に行きたい。どこにいるのか調べて」
「ええっ? いや、おれにはそんな……旦那さまに」
「アルには後であたしから話すわ。ねえ、お願い」
少年の腕に腕をからめて上目遣いに見つめ、甘えたしぐさでねだる。少年奴隷が自分に逆らえないことを、わたしは知っている。
「わ、わかりました」
頬を赤く染めながらミロエは頷き、公共泉亭の脇にわたしを待たせて、近くの珈琲店に走った。
「聞いてきました。聖女の修道院はベイオウルにあるそうです」
ベイオウル地区は、いまいるエミノニュ地区と湾を挟んで対岸になる。すぐ近くの波止場から渡し舟に乗り、馬車を借りて走れば日没までに往復できる。
「行くわ」
「じょ、嬢さま」
真っ直ぐ波止場へ向かうわたしの後ろから、ミロエがあたふたとついてきた。
渡し舟に乗り込み、湾を対岸のガラタ地区に渡る。この地区は非ムスリムが多く居住しており、キリスト教会やシナゴークの数がジャーミイに勝る、独立行政の区域である。湾から入って北の高台へ向かう途中には、二百年前ジェノヴァ人が建てた物見塔があった。
ミロエが馬車を雇い、わたしを乗せる。奴隷の彼自身は御者の隣に座った。
ガラタ地区を過ぎ、その先の丘陵地帯がベイオウル地区だった。異国的な喧騒を抜けると、景色は急に郊外の様子に変わる。
ほどなくして、涼しい緑の中に遺跡のような石造りの館が現れた。黒ずんだ石の外壁は高く、館を隙間なく取り囲んでいた。
(ここに聖女がいる――)
わたしは逸る気持ちを抑えながら、馬車を降りた。
石の正十字を戴いた旧い修道院だった。近づくと、苔と黴の匂いがした。
「あ、嬢さま」
戸惑うミロエを無視して、敷地内に踏み込む。
屋根つきの回廊がめぐらされた庭園は、こざっぱりと刈り込まれていた。井戸の傍らに小さな畑と果樹園、薬草園が造られ、家畜小屋には二匹の山羊と数羽の鶏が飼われている。
中庭に入ると、瞑想のための四阿と泉水があり、窓に飾り硝子が嵌められた聖堂が、正房の棟から庭に突き出していた。
「……開いている」
聖堂に鍵はかかっていなかった。重い扉をゆっくりと開け、中に入る。
冷たい空気が、聖所に緊張を湛えている。蝋燭が祭壇の上に四本、祭壇の両側の壁龕に三本ずつ灯っている。
わたしは足音を潜めて祭壇の前まで進み、うなだれたキリストの磔刑像を見上げた。
(ちょっと痩せすぎね。もう少し魅力的でもいいのに)
信仰を持たないわたしは、そんな無責任な感想を洩らした。
「嬢さま……あの、あまり長居なさらないほうが」
おどおどとミロエが呼びかけた、そのとき。
かたり、と物音がして、わたしは振り返った。ミロエが小さな悲鳴を上げて、首をすくめる。
右手側、おそらく聖具室だろう扉のすぐ向こうで、人の気配がする。ひとりのようだった。わたしは敢えて隠れなかった。
扉が開き、蝶番の耳障りな音が響く。ほのかな灯りがふつりと浮かび、若い修道女が現れた。
「――!」
濃い灰色の僧衣を着た修道女は、わたしより十歳ほど年上だろうか。頭巾に縁取られた顔が病的なほど蒼白いのは、薄闇に浮かんだ燭台のせいかもしれなかった。
「ああ、驚いた。御使いが光臨されたのかと思ったわ」
修道女はほっと表情を和らげ、静かな足取りで歩み寄ってきた。
「どうしたの、天使のようなお嬢さん。こちらになにか御用かしら」
ひざまずき、目線を低くして優しく訊ねる。灯火が差し込む瞳は、灰色に見えた。
「勝手に入ってごめんなさい。人を探していたの」
しょんぼりと答える。すっかり警戒を解いた修道女は、やわらかく微笑した。
「あら、誰をお探しなのかしら。誰かのお身内のお嬢さんなの」
「聖女さまよ。ここにいらっしゃるって聞いたから、どうしてもお会いしたくて」
はっと息を詰め、修道女はわずかに身を引いた。
(まさか……)
わたしはひそかに窺いながら、口調だけは無邪気に訊ねる。
「聖女さまが奇蹟を行ってくださるって聞いてきたの。お会いできないかしら。いらっしゃるんでしょう」
修道女はためらいがちに目を伏せた。
「……聖女さまは、いないのよ」
「お留守なの?」
「そうじゃなくて……いないのよ、最初から」
苦しそうに眉根を寄せて、修道女は言った。
「いらっしゃらないの? どこにも?」
「そうよ。ただの噂なの。せっかく来てくれたのに、ごめんなさいね」
(――この人だ)
直感した。噂の聖女はこの目の前にいる修道女だ。間違いない。
すっきりした目鼻立ちは、整っているほうだろう。だが、取り立てて魅力があるとは思えない。聖女と呼ぶには、あまりに平凡な容貌だった。
「……そうなの。噂話だったのね」
消沈したふうを装って、わたしはうつむく。遠慮がちに髪を撫でる手を感じた。
「本当に、ごめんなさい」
修道女は心底すまなそうに詫び、わたしを聖堂の外へ送り出した。
「……聖女の奇蹟について、調べて」
敷地の外に出るとすぐ、ミロエに命じた。
「ですが、嬢さま、あの人が聖女はいないって」
「だから、どんな奇蹟を起こすって言われているのか、噂の内容を調べてってことよ」
怪訝そうな少年奴隷に言い捨て、わたしは馬車に乗り込んだ。
緑の中に遠ざかっていく修道院を見送りながら、あの修道女を思い浮かべる。
(あんな普通の人が、聖女に祭り上げられているなんて)
無性に腹立たしかった。噂を頭から信じたわけではなかった。
でも、奇蹟が本当にあるのなら、それに触れてみたかった。少しは期待していたのだ。
(奇蹟なんて、やっぱりそう簡単にはない――ただひとつを除いては)
ただひとつ、確実に存在する奇蹟。わたしはそれを知っている。
(アルディラーン)
本当の奇蹟は、ただ彼の存在だけだ。