第1話 月虹(5)
「行ってきちゃった、ハマム」
翌日、わたしは胸を張って早速報告した。
「とっても混んでいたわ、お昼前だったのに。でね、みんな糖蜜水を飲みながら、お喋りしているの。ちょっとうるさかった。知らないおばさんが糖蜜水をくれたの。おばさんはね、息子のお嫁さんを捜しているんだって。お嫁さんを見つけるのには、ハマムが一番いいんだって」
「そう。楽しかったかい」
「うん……。楽しかったけど、うるさいの。みんな、四時間も五時間も入っているっていうけど、あたしはすぐ出ちゃった。やっぱり家のお風呂のほうがいいわ。静かだし、アルと一緒だし」
わたしは敷物に置いた銀の小皿に手を伸ばした。皿には、蜂蜜と葡萄汁と小麦粉を練り合わせた菓子、ロクムが並んでいる。薔薇水入りのロクムは赤く、親指の頭ほどのひと粒で、喉が焼けるほど甘い。それを三粒、無造作に口に放り込んだ。
「ハマムの帰りに、チャンベルリ・タシュの市場に寄ったの。スタニョイカが、大鍋を買うからって、ミロエも連れて。――そうしたら、奴隷市が立っていたわ」
昼間に見たことを思い出しながら、わたしは興奮していた。めずらしいことや興味を惹かれたことを、全部彼に知って欲しかった。
「大人の男女の黒人奴隷と、白人の女の子が何人かいたわ。ひとり、とっても綺麗な女の子がいたの。あたしよりも、ずっと大きいけど。十三歳って聞いた。金髪に水色の瞳で、シルカシア人の娘だって。裸にされて、身体を調べられたり、歩かされたりしていたの。帝国人のお爺さんが、三十六ドゥカットで買っていったわ」
糖蜜水の入った茶杯を取り、長椅子のアルディラーンの隣に座る。お喋りに夢中のわたしは、彼の表情を見ていなかった。
「ミロエったらねえ、その女の子見て、ぼんやりしていたの。あたしが手を引っ張ったら、びっくりして、担いでいた大鍋を落っことしちゃったのよ。真っ赤な顔で、慌てて拾ったけど、スタニョイカに叱られたら、しゅんとしちゃって。おかしかったわ。だから、あたし……」
「ヘリオドーラ」
アルディラーンがお喋りを遮った。
「もうやめなさい。奴隷市なんて、おまえが見るものじゃない」
「どうして?」
「どうしても、だ。子供が行くところじゃない」
「どうしてよ」
わたしはむっとして食ってかかった。一緒に楽しんでもらえると思っていたのに、頭から否定されて腹が立った。
「奴隷市なんて、めずらしくもないわ。スタニョイカだって、ミロエだって、そうやって買ったんでしょう。なのに、見に行っちゃいけないなんて、おかしいわ」
「ヘリオドーラ」
アルディラーンは語気強くたしなめた。
「人が服を脱がされて売られるようなところなんて、良い家の娘は見に行ったりしないよ。お行儀の悪いことだからね。もう二度と行ってはいけない。いいね?」
覗き込む緑の瞳は、厳しいくらい真剣だった。
(そんなに、怒るようなこと?)
わたしは驚いていた。そんなまなざしを向けられたこともなかったし、これほど厳しく叱られたこともなかった。
強い瞳を見つめ返すことができなくなって、うつむく。胴着の裾の精緻な刺繍を指先でなぞりながら、
「あたし、いけないことしたの」
「そうだよ」
「アル、怒っているの?」
「怒っているよ」
わたしは顔を上げた。そのとたん、涙が溢れた。
「……ごめんなさい」
謝りながら彼の膝に縋り、その上に額を乗せる。
「もうしないから。怒らないで」
頭の上に、手のひらを感じる。優しく撫でる、いつもどおりのしぐさ。
でもわたしは、どうしようもない寂しさに苛まれていた。彼に触れ、彼に包まれているのに、暗闇の中にたったひとりでいるかのような不安定な心細さが、胸の奥を浸食していた。