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第1話 月虹(4)

「アル!」


 邸の戸口で待っていたわたしは、茜色のダマスコ織りでできた長裾の胴着をひるがえし、帰宅した青年に飛びついた。


「ねえ、こっちへ来て」


 青年の手を握り、階上へ誘う。


「どうした、ヘリオドーラ」

「いいから、早く」


 外套を脱ぐ間も与えず、彼を居間へ引っ張り込む。


「これは……」


 アルディラーンが絶句する。

 居間の絨毯一面には、陶器の大皿が敷きつめてある。鮮やかなトルコ石の青に、ピスタチオの緑、淡い菫色、灰色、そして、輝くようなトマトの赤。それらの色彩が、つややかな皿の表面に、雲や葉模様、花、鳥などの飾り模様を描いている。二十枚はあっただろう。


「イズニクの陶器よ。バヤズィット・ジャーミイ(モスク)の近くの市場で買ったの」


 わたしは興奮気味に説明した。


「ほら、これ見て。珍しいでしょう、この赤い色。最近になって開発された色なんだって。とっても綺麗、そう思わない?」


 指をさしながら、皿と皿のわずかな隙間を、踊るように飛び移る。


「あ、ああ、綺麗だね。……しかしヘリオドーラ、これを全部、買ったって」

「そうよ、買ったの。だって、とっても綺麗だったんですもの」


 アルディラーンは、飾っておく以外使い道のなさそうな大皿の一群を、ぐるりと眺めた。


「それにしても、こんなにたくさん、よく運べたな」

「大丈夫よ。ミロエは力持ちだもの」


 わたしは長椅子に勢いよく座った。アルディラーンは皿を踏まないよう部屋の隅を歩き、外套を脱ぐ。そしてわたしの隣に座った。


「あのね、今日はビュユック市場でとっても大きな紅玉を見たの。アフリカから運ばれてきたばかりだって。欲しかったけど、スタニョイカに無駄遣いはいけないって言われたの。だから、代わりにお皿買っちゃった」


 わたしは息もつかずに一気に喋った。そして甘えて青年の肩にすり寄る。アルディラーンはわたしの巻き毛の頭を撫でた。


 わたしを外に出させるよう仕向けたのは、アルディラーンだった。

 友達もおらず、夜まで彼を待つだけの生活で内向的になっていたわたしを、危惧してのことだ。彼は老女中のスタニョイカに、わたしをできるだけ外の世界に連れ出すよう命じた。


 外出を始めてからのわたしは、これまでの脆弱さが嘘のように活発になった。ほとんど毎日、スタニョイカと、ときには少年奴隷のミロエを従えて、街の至るところを散歩してまわる。たぶん、もとから好奇心旺盛な性質だったのだろう。なにより怖いもの知らずだった。


 それでも夜は、アルディラーンと過ごすことには変わりない。一晩中語らい、夜明けにアルディラーンが眠るときに、わたしも眠る。

 だが、昼前にはもう起き出し、また活発に歩きまわる。わたしはほとんど眠らない子供だった。


 夜、わたしは、昼の出来事を残らずアルディラーンに報告する。彼の知らない、太陽の世界の営みを。


「今日はね、皇帝陛下の宮殿に行ったの。第一の中庭には、入っていいのよ。その代わり、お喋りはしちゃ駄目なの。皇帝に敬意を表すため、沈黙を守らなければいけないんだって」


 覚えたての難しい言葉を使い、わたしは神妙な顔をして見せる。


「庭園にはね、果樹園と、武器庫に使われているキリスト教徒の古い教会があったわ。あとね、ジャーミイとか、皇帝陛下のお食事専用の大きな厨房とか、いろいろな建物もあった。それからね……」


 わざと言葉を切り、上目遣いに青年の顔を覗き込む。


「第二の中庭へ通じる平安門の近くにはね、ふたつの石が置いてあるの。べつに普通の石なんだけど、誰もその傍に近づかないの。スタニョイカも、嫌だって言っていたわ。あの石は、警告の石だから、って」

「警告の石?」


 わたしはもったいぶって頷く。大切な秘密を、こっそり明かすように。


「皇帝に逆らった偉い官僚や貴族たちを処刑して、その首を晒すのよ」


 アルディラーンは、はっとしてわたしを見つめた。わたしも瞬ぎもせず、じっと彼を見つめ返す。

 対峙するのは、吸い込まれそうな緑の瞳。わたしを引き寄せる真摯な深み。その深淵に下りていったら、なにが見えるだろう。


「やだ、アルったら」


 わたしは吹き出した。沈黙が一瞬で溶けて、止まっていた時間が動き出す。


「べつに、本当に首があったわけじゃないのに。怖がりなのね」


 子供じみた高い声で笑い、長椅子から飛び降りる。そして踊るように大皿を避けながら扉に向かう。


「あたしは、怖くはないわ」


 扉の螺鈿模様を指でなぞりながら、


「あたし、きっと、アルより勇敢よ」

「言ったな」


 アルディラーンが追いかけてくる。わたしは歓声を上げ、回廊へ逃げる。そのまま庭園に出て、別棟の浴室へ飛び込んだ。


 庭園に造られた浴室には、豊かな湯を湛えた広い浴槽がある。もともと清らかな泉が湧いていた場所に、アルディラーンがイオニアの温泉地風の浴室を造らせたのだ。赤ん坊だったわたしを泳がせたかったのだと彼は言った。帝国人の浴場は通常、浴槽のない蒸し風呂が主流だった。


「遅いわよ、アル」


 衣裳を脱ぎ捨て、透明な湯を泳ぎながら、遅れてきた青年に声をかける。

 上背が高く、均整の取れた身体をした青年は、苦笑しながら浴槽に入る。


「おまえが素早すぎるのだ。衣裳をあまり無造作に扱うと、スタニョイカに叱られるぞ。――おいで」


 差し伸べられた長い腕を目指し、わたしは泳ぐ。そして裸の尻を青年の膝に乗せ、首を彼の肩に預けた。

 アルディラーンは透明な湯をすくい、わたしの肩や背中にかける。


「ねえ、あたし、公衆浴場(ハマム)に行きたい」


 巻き上げていた髪がほぐれ、肩や背に絡みつく。それを青年の細い指が丁寧に巻きなおしてくれる。


「この風呂は、嫌いか」

「ううん、好きよ。泳げるから。でも、ハマムにも入ってみたいの。一緒に行けない?」

「わたしと?」

「うん。だって、お風呂はアルと一緒に入りたいもの」


 少しのぼせたわたしは、頭を青年の胸にこすりつけ、ほうと溜め息をつく。


「わたしは、昼は出られないよ。それに、ハマムは男と女は別々に入るものだ。一緒には無理だよ」

「そうなの? つまんない。アルと一緒がいいのに」

「諦めなさい。スタニョイカとお行き」


 拗ねて黙り込んだわたしに微笑し、アルディラーンは膝を揺すった。わたしは体勢を崩し、小さな悲鳴を上げて、湯の中に落ちた。

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