第1話 月虹(3)
その次の日の宵。
「ヘリオドーラ」
忙しない駆け足で、アルディラーンが帰ってくる。いつもほとんど足音を立てない彼にしては、めずらしいことだ。
「ヘリオドーラ」
もう一度呼び、彼はわたしの横たわる長椅子の傍らに跪く。そしてわたしを抱き起こす。
わたしは薄く目を開けた。返事をしたつもりだったが、洩れたのは小さな呻きだけだった。
「ヘリオドーラ……どうした。どこか、悪いのか」
切迫した声。心配そうに覗き込む緑の瞳。
「スタニョイカが帰らずに下で待っていた。おまえが食事を取らないと教えてくれた」
敷物の上には、いくつかの銅の盆が冷えた料理を載せたまま、置き去りになっている。
「どうして食べない、ヘリオドーラ」
わたしは答えない。言葉を喋ろうとすると、呼吸が荒くなって、薄い胸が痛んだ。
アルディラーンはわたしの胸に耳を当て、心音を聞いた。それだけで、彼にはわたしが病気かどうかがわかるのだ。
(あたし、病気じゃないのよ、アル)
「ヘリオドーラ」
軽く頬を叩かれる。羽ばたいた小鳥の羽が当たるように、そっと。
わたしは口を動かして、喋ろうとした。アルディラーンはわたしの口に耳を寄せる。
「……アルと同じになる」
はっと息を詰め、彼はわたしを見つめた。
わたしも彼を見つめ返す。その視界が、次第にゆがみ、冷たい雫が頬をすべり落ちた。
――アルと一緒にいる。離れるのはいや。アルと違うのはいや。
わたしは水中で空気を求めるように、大きく呼吸を始めた。息をつくたびに、涙の粒が流れた。
「ヘリオドーラ……おまえは、わかっているのか」
アルディラーンはわたしの頬を両手で挟んだ。
「わかっているのか、わたしが、何者なのか」
(知っているわ。最初から、ずっと)
いたわるような抱擁。彼が抱きしめる。食事の後のアルディラーンは、少しだけ温かい。
「おまえはなにも言わない。そういう子だと思っていた。喋る言葉が少なくても、感情を表すのが薄くても、心の中で感じることも少ないとは限らないのに。わたしはおまえの真実を、見ていなかったのだな」
(そうよ、アル。あたしはただの子供じゃないの)
だって、あなたに育てられたのだもの。
(だから、ねえ、わかる?)
言葉のない問いかけに、青年は頷き、わたしを抱く腕に力を込める。
「心配するな。わたしは、おまえを手放したりはしないから。だから、食事をしなさい」
アルディラーンは野菜と山羊の乳の汁物を取り、匙で少量をすくってわたしの唇の隙間に注ぎ込んだ。
わたしは喉を鳴らして飲み下す。だがすぐに激しくむせ、吐き出してしまった。
「どうして飲まない、ヘリオドーラ」
わたしは首を振った。はっきり否定をしたかったのに、思うように動けない。
――アルと違うのはいや。あたしだけ、変わるのはいや。
わたしの中で、動くものがある。小さな肉体をおしひろげようとする、大きな力。一瞬たりとも止まることのない、命の脈動。
彼はそれを欲した。
でもわたしは、捨てたいと願っていた。
彼と同じでなければ、いつか離れなければならない。漠然とした予感に、わたしはずっと怯えていたのだ。
アルディラーンがわたしを抱きしめる。すこし冷たくなった胸に抱かれて、わたしは小さく息をつく。
「わたしの娘、わたしの大切な子供……。ずっと、おまえの傍にいる。おまえが大きくなって、本当に幸福になるまで、ずっとおまえを守ってやる。おまえを手放しはしない。いつまでも、おまえの傍にいるから。……だから、まだ、止まらないでくれ」
言いながら、彼は自分の胸にわたしの胸を合わせた。鼓動を確かめるために。
ひとつの鼓動が、ふたつの胸の間で響く。がらんどうの器から反響した鼓動が戻ってくる、奇妙な感覚。
「おまえを死なせはしない」
わたしを片腕に抱いたまま、アルディラーンは汁物の皿を取り、自分の口に含んだ。それを、口づけで移す。
「飲むんだ、ヘリオドーラ」
飲み下す音が、ひどく大きく響く。今度は吐かなかった。
「そうだ。それでいい」
アルディラーンはもうひと口飲み、口移しで飲ませる。同じように、少しのパンと砂糖漬けの果物を咀嚼し、食べさせた。
「よく食べたな。偉いぞ」
わたしは笑った。本当に笑えているのかどうか、わからないくらいの小さな笑みだったと思う。頬の動きにつれて、目の端から涙がひと粒、こぼれた。
「わたしは、おまえが大人になるのが、楽しみなのだよ。大きくなったら、おまえは素晴らしい美人になる。わたしは、それが見たい」
「……あたしが、大人になるのが、嬉しい?」
囁くように訊ねる。
「嬉しいよ。子供が大きくなるのを喜ばない親は、いないよ」
「大きくなっても、アルと一緒にいられる?」
「ああ、もちろんだ。――ずっと一緒だよ」
わたしは精一杯に腕を伸ばして、アルディラーンの首につかまった。そして、顔を寄せて、青年の唇に唇を押し当てた。
アルディラーンはわたしを包むように抱きしめた。温みのない広い胸から、苦しいくらいに切ない想いが伝わるような気がした。