第1話 月虹(2)
「……食べたくない」
目の前に並べられた夕食――パン、羊肉のケバブ、野菜の汁物、香料入りの水、糖蜜に漬けた菓子など――を横目に見遣り、わたしはそっぽを向く。
世話係の老女中スタニョイカは、無言で匙を差し出す。それを無視し、壁沿いの長椅子に横たわる。
ワラキア人の老女中は大仰な溜め息をついて、食卓をそのままに部屋を出ていった。夜間は邸内にいることを許されていない彼女は、わたしに夕食を取らせたら敷地の外に与えられた家に帰らなければならない。
主人である彼が帰宅する前に。
花と植物の図案であふれかえる豪華なペルシア絨毯。その真ん中に小さな敷物を敷き、六本脚の低い小卓を設え、銅製の盆を載せた、帝国流の食卓。食事する者は絨毯に直に座るのだ。
部屋の造りは豪奢だが、家具といったら壁沿いに作りつけられた長椅子と、飾り戸棚と衣装箱だけ。がらんとした空間にひとりでいるわたしは、部屋の中だというのに、ときどき身の置き所がなく途方に暮れてしまう。
「どうした、ヘリオドーラ?」
宵過ぎのいつもの時間、アルディラーンは帰宅した。外套を脱ぎ、ターバンをほどいて、巻き上げていた長い黒髪をほぐしながら、わたしのもとへ歩み寄る。
海のような深い青の長衣に羊毛織りの帽子、羽根飾りを刺した白いターバン。白い肌に彫りの深い美貌は、欧州人にも小アジア人にも見える。
ただ、孔雀石のような緑の瞳だけは、彼が何人でもないことを証している。この瞳、獲物に、自分が餌食になるとは思わせず、彼に選ばれたことを至上の歓びだと信じさせてしまう、魅惑的な魔性の宝石。
それがいまは、やわらかな光を湛えて見下ろしている。わたしに注がれるのは、まるで昼下がりの新緑のようなまなざしだ。
「食事していないね。なにかあったのかい。スタニョイカに叱られた?」
絨毯に座ったアルディラーンは、顔を寄せてわたしの背中を撫でた。肌が透けるほど薄い肌着が、彼の手のひらの下でさらさらと音を立てる。
「具合が悪いのか」
わたしは寝転がったまま首を振る。
「……アルと、食べる」
仰向けになり、彼の手を握る。ひやりと冷たい肌。でも帰宅直後は、少しだけ温かい。
「アルと一緒に、食べるの」
すがるように訴える。なぜかひどく不安だった。
「わたしの帰りを、待っていたのか」
わたしは頷き、彼の胡座のあいだに入って、懐に身体を埋める。彼は包み込むように私を抱きしめる。
抱きしめられても、形のない不安が消えることはなかった。
この夜から、わたしはアルディラーンが戻ってから食事をするようになった。アルディラーンは少しだけ早く帰宅し、わたしに付き合ってくれた。
だが、食事をするのはやはりわたしだけだった。彼はわたしの傍に座り、パンをちぎってくれたり、ケバブをほぐしてくれたりするだけ。自分の口に運ぶことはいっさいしない。
「アルは、食べないの?」
「わたしは、食べない」
「どうして?」
訊ねるわたしの唇から、パンの屑がこぼれる。アルディラーンは微笑し、わたしの口を拭ってくれる。
「わたしはもう大人だからね。ヘリオドーラは、まだ小さい。大きくなるためには、たくさん食べなければいけないよ」
「大きな人は、食べないの? でも、スタニョイカもミロエも、たくさん食べる。ミロエは、もうあたしよりずっとずっと大きいのに、白胡麻パンを一度に五つも食べるの」
ミロエとはハンガリア人の雑役奴隷で、十七歳の少年だ。スタニョイカと同じように、昼の間だけ邸内で働き、日没前に邸を出る。
「わたしはスタニョイカやミロエとは違う。わたしは、ほかの大人とは、違うのだよ。だから、皆と同じに食べなくてもいいのだ」
彼は食事をいっさい取らない。彼の生命を繋いでいるのは、ただ人の血という特殊な糧だけ――わたしと彼との決定的な相違だ。
わたしと彼は、同じではない。そう思うと、急に喉がつまった。食べかけのパンを皿に戻す。
「あたしも、アルと同じがいい。アルと同じになる」
アルディラーンの胡座の中で、わたしは小さな身体をもっと小さくまるめてすり寄った。
「ヘリオドーラ」
頭を撫でる優しい指。ゆるやかな巻き毛をからめ、梳きとおす。彼はわたしを抱き上げ、胡座の膝に乗せた。
「おまえが、もう少し大きくなったら、教えてあげよう。わたしの言うことが、わかるようになったら……。だから、それまでは、たくさん食べなさい。いいね?」
言い聞かせながら、鼻のすぐ横に口づける。
(あたしには、わからないと思っているの、子供だから?)
確かにわたしはそのとき、まだ八歳だった。だが、彼が思うほど子供ではなかった。おそらく同じ年頃の子供たちより、はるかに大人だったはずだ。
(あたしには本当のことを言うつもりはないのね)
胸の奥に、ちくりと刺さる棘。痛みに歪む顔を隠すため、わたしは彼の首に抱きついた。
その翌日から、わたしは一切の食事を拒否した。
(アルが食べないなら、あたしも食べない)
頑なにそう思い詰めていた。薄暗い不安が、少しずつ姿を現そうとしていた。
アルディラーンが帰宅したとき、わたしは長椅子でまどろんでいた。食事を取らないせいで、力が入らなかった。
ふと、目蓋に口づけの感触。わたしは目を覚ました。
「ああ、起こしたか。すまない。――寝ていなさい」
頬にかかる吐息から、かすかに不吉の匂い。覗き込むのは、慈しむような新緑の色。
わたしは両手で目をこすり、首を振った。
「アルと一緒にいる。……お風呂、入るの」
青年の襟をつかみ、言った。アルディラーンは笑み、わたしを抱いて、浴室へ向かった。